自然なかたち

2025年3月10日

詩編を連続して取り扱う説教は、本日詩編第8編から語られた。私は本日、ふだんと違う環境で説教を聴くこととなったため、レスポンスも、違う形で返すことになる。説教の内容を辿ることが難しいために、こちらで受け、こちらで思うことを、かなり自由に返答することとなることを、ご了解戴きたい。
 
「自然神学」という考え方があった。哲学の概念は、画一的な理解で済むものではなく、哲学者の数だけ概念の種類がある、と言っても過言ではない。普通は、神から与えられる神認識という方向と対照的に、人間から発する神の認識を思い浮かべることになるだろう。人間の理性から、神がどうとかこうとか説明しようとすることであるところから、「自然」という語を使うと思われる。
 
いま、子どもたちに「自然」とは何だ、と尋ねると、一番に挙ってくる声が「環境」なのである。それはいけない、と私は制する。「環境」という言葉は、周囲にあるものをいうのであて、「教育環境」とか「学習環境」とかいう言葉で、君たちの身近なところでも使われるではないか、と言うのである。「コンタクト」と略すことがあるけれど、それの本体は「レンズ」であって、「コンタクト」は「接触する」という意味しかないのと同様だ、と説明するわけだ。
 
だが、時代が下ると共に、「自然」という語は、「自然環境」のようなものをイメージさせるようになってゆく。もしその意味で「自然神学」を捉えるならば、それは、この自然のものを見て、その精緻な構造や美しさを感じるならば、それは神が創造したとしか考えられないではないか、というようなところに基づく神認識のことではないか。
 
詩編には、そのような意味での「自然神学」があちこちで確認できるが、今朝開いた詩編8編からは、次の箇所が目に入る。
 
4:あなたの指の業である天を/あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。
 
その世界の中に、「人」がいる。そこで詩人ダビデは、はたと不思議さをそこに感じるようである。
 
5:人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。/人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。
 
人間は、罪深いものではないのか。神の創造の期待を裏切った、救いようのないバカではないのか。それを思うと、自分は正にそうなのだ、と項垂れるしかないのである。
 
だが、ダビデは何かが違う。確かに自分の小ささや罪を、知らないわけではない。知っていてそれをわざと無視しようとしているわけでもない。それでもなお、ダビデは実に無邪気に、神の前に出るのだ。神の顔しか見ないのだ。
 
心ある親に愛されて育てられた子は――小さな子を想定しよう――、親の顔を見るだろう。親の顔だけ見るだろう。何か叱られて、自分が悪い、ごめんなさい、と思うこともあるだろう。しかし、それを許されないことだとは、根柢では考えていない。しかも、結局許されるということを計算して、ごめんなさい、と言うのでもない。
 
真っ直ぐに、親を見る。そして親を信じている。親と自分との愛を疑うことはない。その絆をほんとうのものとして、自分の全存在に関わるものとして、理解している。
 
時に、虐待する親が人の世にはいる。だが子どもは、逃げ出せる機会があったとしても、逃げ出さないことがあるらしい。そのことが、子どもが親しか見ていないということを傍証する。
 
ダビデには、この子どものような「信頼」があったように見える。実に無邪気に、神を信頼しきって、神に救ってくれとただ願うのだ。自分の力で何かができる、というふうに考えているようにも見えない。まことに、幼子のようになって、親に全幅の信頼を寄せているかのように、神を信頼しているのである。
 
6:あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ/栄光と誉れの冠を授け
7:御手の業を治めさせ/あらゆるものをその足元に置かれた。
 
この点に思いを馳せると、詩人ダビデがこのようにひたすら神への言葉を綴っても、別段何の不思議さも感じないでもよいような気がしないだろうか。
 
「自然」という語は、漢語で見る限り、「自ら然り」と読める。「おのずからそのようであること」を意味すると理解できる。理性的思考によって、わざわざ神からのものとは対立するものとして、つまり人間から発されるようなものとして規定されてしまったことが、なんだかもったいないような気がしてくる。「神の定めに従ってそのように起こること」を、「自然」と捉える道も残されているように思えるからである。
 
だがこの語は西欧語においては、ラテン語の「natura」(ナトゥーラ)に遡り、さらにギリシア語の概念としてそれを見つけようとするなら、「physis」(ピュシス)に辿り着く。それは、「生成」とか「生まれたままの姿」とかいうものを指すものと考えられる。漢語のイメージとは若干のズレがある。当然、新約聖書の筆者は漢語を用いてイメージしたわけではない。
 
もちろん、ダビデとなるとヘブライ語であろう。調べてみたところ、ヘブライ語でそれは「Teva」(テバ)というらしい。その説明には、「人間によって変えられていない」という意味合いが伴うようであった。物事が本来そのようであることを思わせる。これは「人工」に対立する概念を想像させるが、あるいはまた、神により創られたもの、神から与えられたものを空想することもできるのではないだろうか。
 
ところで、今日開かれた詩編には、「人とは何者なのか」というように、神に愛される「人」について改めて着目する場面があった。最近見た加藤常昭説教全集の中で、はっとさせられる指摘を受けた。それは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マルコ12:17)についてである。「皇帝に税金を納める」ことについての是非をイエスに問うたファリサイ派やヘロデ党の人たちに対して、イエスが攻撃をかわすために発した言葉である。そこには、皇帝の肖像が刻まれていた。しかし、イエスは皇帝のことが言いたかったのではない、とその説教は言う。「神のものは神に」である。
 
神は人を自分のかたちに創造された。/神のかたちにこれを創造し/男と女に創造された。(創世記1:27)
 
私たちは、神のかたちに造られた。私たちは、神の銀貨に刻まれているではないか。神のものとして刻まれた人は、神に返さねばならないのだ。私たちは自分勝手に生きているのではないか。神のものだ。神のものとしてこそ、生かされるものであるはずではないか。
 
私たちは、悪へと傾く「人」によって変えられることのない「自然」において、神のものとして帰るところがあるのである。そのようなものとして創られた「人」――否、「私」である。私は、神の「自然のかたち」として、子どものように神を慕う者でありたい。



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