【メッセージ】バト・シェバ

2025年3月9日

(列王記上1:15-21,28-31, ルカ7:36-39)

ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだと聞くと、 夫のために嘆き悲しんだ。(サムエル記下11:26)
 
◆フェミニズム
 
「ビジネスマン」というように、「――マン」というような言い方が使われなくなってきています。英語の「man」には「男」という意味があり、それに対して「woman」という言葉があり、こちらは「女」を表します。従って、職業などの呼称について、「男」だけに限ることは差別だ、という主張があり、その考えが拡がってきたからです。男だけが人間であるかのような言い方にも聞こえるからです。
 
果たしてそれは差別だったのか。違う可能性もあろうかと思います。それは「man」が「人間一般」を表す上位概念としても用いられていたが、下位概念としては「男」に限定される使い方があった可能性です。それは、「天気」という言葉が、「今日の天気は雨」というように、「天候一般」という上位概念を表すと共に、「今日はお天気」と言えば、「天気」という言葉は「晴れ」だけを意味するのと同様です。
 
しかし、だとしても、男優先の社会から生まれた言葉の使用法であることは、恐らく否定できないだろうと思われます。西欧社会での民主政治も、つい百年ほど前までは、女性を排除していたのです。
 
国連が「国際女性デー」を3月8日にしようと提唱してから、昨日で50年となりました。マスコミも少しは触れていましたが、この運動自体が大きく報道されないこと自体が、半世紀を経てもまだまだ届かない現状を意味しているのかもしれません。イベントはともかくとして、過去を認め、いまとこれからとに、私たちは責任を負って向き合い、自らを変えていくようにしたいと願います。
 
女性への対処については、「聖書」の記述もまた褒められたものではありませんでした。神を「父」としか呼ばなくてよいのか。人数は男だけを数えて済ませてよいのか。律法には基本的に男に向けての書き方がなされているし、箴言も、父親が息子に向けて呼びかけるばかりで終わっています。とにかくどこをどう拾っても、男社会の生んだものである、としか言いようがないことについては、弁解もできません。
 
このような歪みについて、改めて論理的に指摘するものとして、「フェミニズム神学」という立場が成立しています。そのはたらきには、敬意を払います。男の一人として、私もなおその指摘を受け容れなければならないと考えます。さらになお、私もまた偏見に支配されているのだろうと思います。問題を軽視し、なあなあで済ませているような者であるのでしょう。恥ずかしい限りです。
 
ただ、聖書を常にその観点だけで読み続ける、ということには賛同しかねます。その背後に、聖書がもつ意味までを消すようなことになるものがあれば、のことです。そもそも私には、フェミニズム神学を営む能力はないでしょう。営む資格も、恐らくありません。
 
◆聖書と女性
 
聖書には、女性差別の思想が限りなくあるものでしょう。女性を蔑視したような表現がひしめいていることも、確かにそうだと思います。なぜ神が男として呼ばれるのか、それに説明しようとしても、弁解じみていると思うのです。また、その姿勢そのものが逃げている、という批判をされるかもしれませんが、そう言われてもなお下手な弁明はしないつもりです。
 
でも、だから聖書には人を生かす命はない、と棄ててしまうのも考えものです。一般に、いまの私たちと価値基準が違う故に全く意味がない、と過去を切捨てることは、文化や文明を継承しようとする姿勢の欠けた、非常に傲慢な態度であるように思えてなりません。
 
半世紀以上昔の文学やマンガなどを現在再発行することがありますが、その巻末には、「本作品中には、今日の観点からみると差別的表現ととられかねない箇所が散見しますが、著者自身に差別的意図はなく、作品自体のもつ文学性ならびに芸術性、また当該作品に関して著者がすでに故人である等の事情に鑑み、原文どおりとしました」(新潮文庫)というような但し書きが置かれていることがあります。
 
この路線で、この姿勢を了解した上で、聖書を受け取るということは、許されないことでしょうか。性別の意識をもたない、普遍的な理解で、それらの言葉もひとつの「記号」として、読むことはできないのでしょうか。
 
昨年は『源氏物語』が注目されました。NHKの大河ドラマに描かれたためです。『源氏物語』に限りません。千年の昔に女性の手による大量の文学が成立していたということは、日本文化の誇りであるとも言えるでしょう。
 
翻って聖書を見ても、女性の活躍を描くことが、決して少なくないようにも見てよいかと思います。イエスに従った女性たちこそが、イエスと弟子たちの旅を支えていたであろうことは、描写されてはいませんが、当然推測できることでしょう。夫を喪った「やもめ」は社会的に苦しい立場に置かれましたが、それをどう助けるか、については様々な言及があります。イエス自ら、また旧訳の預言者たちも、奇蹟を行って助ける場面があるわけです。
 
後継ぎの子を産まねば役立たずのように女性が言われていたことが、多くの物語の、重要な鍵となっています。これは現代でも、つい先般までは常識のように言われていました。あるいはいまでもそういう見方はあるのであって、ドラマでも時々テーマになったり、そういう場面が描かれたりします。
 
子が与えられない女性が泣いて祈り、あるいは諦めていたりしたところへ、神が子を授けるような場面はいくつもあります。ラケルとレアの壮絶な争いも思い出されますが、ハンナの涙はサムエルを呼び、イスラエル王国の礎を築きました。エリサベツにやっと与えられたヨハネは、イエスの先駆者としてかけがえのない役割を果たしました。
 
旧約聖書の律法においては、土地の相続について女性が訴え、それが神により認められる、という一幕もありました。神が与えた律法が、女性を守るために変更すらされたのです。また、エステルの勇気も、ユダヤの祭りとして遺るほどに称えられました。
 
女預言者デボラの逞しさも印象的です。ヤエルが敵将を殺したことも、聖書は誇らしげに語っています。女性にも、それなりに光が当てられているのは確かです。旧約聖書続編でも、スザンナの毅然とした態度は天使の助けを得ましたし、七人の子を目の前で惨殺されながらも神を信じ切った母親の勇姿は、涙を誘います。そして誰よりも、イスラエルを大逆転で救ったユディトの物語は、最高にカッコいいものでした。
 
◆バト・シェバ事件
 
先週、ダビデ王が、極めて人間臭い存在として描かれているとして聖書をお読みしました。いっそ全文を塗りつぶしてしまいたいほどの黒歴史でした。いまそれを、「バト・シェバ事件」と呼ぶことにしましょう。バト・シェバ事件を通じて、ダビデの姿を見ることで、私たちもまた自分の罪に如何に鈍感であるのかを、思い知ったのでした。
 
今週も、このバト・シェバ事件を見ることにしました。ただ、見る方向を換えて、事件を見たいと思います。事の次第は、サムエル記下の11章に書かれています。いまそれを私の口で丁寧に辿ることは致しません。そこでお手数ですが、聖書をお持ちの方は、いましばらく目を通してくださるようにお願いします。――いま少しお待ち致します。
 
さて、ざっと振り返って戴いたところで、どうお思いになりましたでしょうか。やはりダビデはダメだなあ、とお思いになってもよろしいでしょう。ダビデの人間臭さと、それを赦す神の寛大さを感じた方もいるでしょうか。ただ、今日私は、別の角度からこの事件を見たい、と申しました。どの角度からかというと、バト・シェバという女性の立場からです。
 
私は女性の立場や気持ちが分かるなどとは、とてもじゃないが言えません。だから、素朴に疑問に思うことを申し上げます。何故バト・シェバは、夫がいる身でありながら、安易に王宮へ行ったのでしょうか。王に命じられたのだから当然だ、という答えもありましょう。だとすれば、絶対に逆らえない、権力のハラスメントの犠牲者だったのでしょうか。しかし姦淫は律法でも罪とされています。町の中で声を出さずに犯されたとなると、死罪です。それでも王が相手だから、拒めなかったのでしょうか。そうかもしれません。
 
その後、少なくとも1か月以上は経ってのことでしょう。彼女は、「私は子を宿しました」(11:5)と、人をやってダビデに報告しています。「王の子です」という情報も載せていたのでしょうが、夫ウリヤの子ではない、とダビデには分かったということなのでしょう。皆殺しにしたアンモン人という記述は、それに至るまでに長い時間がかかったことを意味するものとしてもよいでしょう。だとすると、バト・シェバ自身にも、それがダビデの子だということが分かっています。どんな気持ちからでしょうか。弱々しく、助けを求める気持ちなのでしょうか。
 
これを聞いてダビデは策を練り、ウリヤを呼び寄せますが、仮にそれが成功してウリヤの子のように装ったとしても、1か月以上の時間差は埋められるのでしょうか。しかしウリヤは忠臣でした。妻に近づきません。ダビデはウリヤを、わざと戦死させるように工作します。
 
バト・シェバに対しては、もちろんその企みは秘密だったでしょう。ウリヤの戦死が報告されると、彼女は「夫のために嘆き悲しんだ」(11:26)のでした。夫の戦死は、自分の過ちのためだ、とでも考えたでしょうか。現代ならば、ダビデを恨んでも当然のところです。この辺り、ドラマに仕立てたら、脚本家は、どう解釈するでしょう。興味深い物語が何種類かできるかもしれません。
 
喪が明けた後、バト・シェバは「王宮に引き取」られ、王の「妻」とされます(11:27)。やもめを引き取るのは、男の一種の義務のようなものだったかもしれません。ダビデは義務を果たしたかのようにすら見えます。しかし、ダビデにはすでにアビガイルやミカルといった妻がいました。バト・シェバは単純にいきなり正妻にされるようには思えません。一夫多妻ですから、そういう秩序もなかったのでしょうか。ただ、後にバト・シェバが完全に正妻のように振る舞うことは確かです。
 
ダビデとの過ちのときに授かった子は、産まれて間もなく死にます。話の展開からして、ウリヤとの間に子はなかったかのようです。ウリヤとは、新婚に近かったのでしょうか。新婚の兵士はすぐには徴兵されない律法がありましたが、一年間、子が授からなかったということかもしれません。こうした背景を基に、ダビデとは一度で妊娠した、というドラマになっています。
 
ともかく、バト・シェバは最初の子を喪ったわけで、その悲しみたるや、大変なものだったことでしょう。この場面だけから見ると、バト・シェバは、えらくしおらしい、そしてダビデのアバンチュールの犠牲者であるようにも見えます。ダビデが責任をとったところは、まだましだったのかもしれませんけれども。
 
◆権力
 
こうした背景や心理については、小説家が巧みな理解によって、見事に描ききるものだと思います。凡才の私からは、想像するしかありません。バト・シェバの気持ちがどうだったか、私にはやはり分かりません。そこで、以下、無責任に、素人の空想話を多々交えながら、その後のことを掴んでみようかと思います。どうぞ、正統的な聖書解釈だと信用はしてくださいませんように。
 
結局、バト・シェバが次に産んだ子が、ダビデの正式な後継者となります。イスラエルで最も栄華を極めた、あのソロモンです。知恵のある子だったようです。しかし、ダビデもそうだし、バト・シェバ自身も、それがいわば不義の子であることを知っています。どうしてそのような子が、他の優秀な兄たちを差し置いて、第一王子となったのでしょうか。
 
そのためには、バト・シェバの発言力が効いていたように見えます。その力は並大抵ではありませんでした。どうやら、王の側近である預言者ナタンと組んでいたように、聖書は経緯を描いています。たとえばサムエル記下に続く、列王記上の1章です。
 
11:そこでナタンは、ソロモンの母バト・シェバに次のように言った。「主君ダビデはご存じないようですが、ハギトの子アドニヤが王になったことを、お聞きになりませんでしたか。
12:今、私には良い考えがあります。
 
ダビデ王は、どうやらソロモンが後継ぎになると口にしていたようですが、それもバト・シェバが仕組んでいたに違いありません。多分に、ナタンと共に。このときダビデはもう年老いて老人となっています。アビシャグという若い女の世話を受けていましたが、男性として相手をすることはできませんでした。この情況を、バト・シェバも認めています。バト・シェバにとっては、ソロモンを王にし、王の母として自分が権力をもつことこそ一番の関心事だったのだと思われます。
 
ともかく、政治的な駆け引きは見事としか言いようがありません。腹違いの兄のアドニヤが王位を目指して立ち上がったために、バト・シェバとナタンはこのように急遽動いたのでした。そのアドニヤに対しては、バト・シェバは極めて冷静に振る舞います。
 
アドニヤは、王位を継ぐために、バト・シェバにアビシャグをくれと申し出ますが、これをチャンスに、とソロモンに聞かせて、ソロモンを怒らせます。この辺り、私にはどうも、バト・シェバの策略があるような気がしてなりません。ここにある文字通りの動きではなかったかもしれませんが、この通りでもなかなかの遣り手だと思います。アドニヤはこの後殺害されますが、それを事実上計画したのは、バト・シェバだということになります。もしそれが何か非難されても、表に出るのはソロモン王のみです。
 
◆政変
 
アメリカ合衆国は、今年、新しい大統領が生まれました。4年前まで1期目の大統領を務めていた人物です。返り咲きとなったわけですが、この度、その大統領を、陰でひとりの人物が、いいように操っているのではないか、と問題になっています。この大統領もいわば起業家でしょうが、親しくなった超大金持ちの起業家が、新大統領を持ち上げつつ、その抱いたな施政方針にのせて、自分の考えを実現させる道具のように大統領を操っているように見えるというのです。
 
今後の行方は見守るしかないのですが、今のところ、大統領は思いのままに権力を行使しているように見えます。正直言って、世界が大変なことになりかけているような虞を強く感じます。アメリカの一言は、世界をひっくり返すほどの影響をもつために、心配しています。世界は極めて流動的になってしまい、今後いつ何がどうなるか、予断を許さない情況だと感じます。
 
ダビデの晩年から、この後継ぎの問題で王宮は揺れていました。アブシャロムの反乱には、ダビデ自身が王宮を去らねばならないほどでした。そしてこのアドニヤ問題です。ダビデ亡き後、アドニヤを計略に巻き込み、そのまま彼を処分しますが、王宮は血生臭い状態が続きました。冷静に眺めれば、クーデターによってソロモンが王位に就いたと言っても過言ではないのです。
 
もはやダビデの息子たちは、暗殺されたり、追い出されたりして、政治の場から消されてしまいました。表向きは、ダビデに遺言をつくらせ、ソロモンに王位を与えることを正当化することにより、ソロモン政権をすんなりと立てたように描かれていますが、かなり政略的なもののように、見る角度を換えれば、見えてしまうのです。
 
その糸を引いていたのは、やはりバト・シェバのようにしか見えません。もちろん、バト・シェバひとりの知恵ではなかったと思いますが、だとするとブレインはナタンでしょうか。
 
ヨアブと言えば、ダビデ王国をつくった将軍でした。ヨアブなしには、戦争に勝つことはできなかったことでしょう。しかし、なんだかんだと言いがかりをつけるようにして、ダビデは晩年の政変騒動の中で、ヨアブを殺します。ソロモンの反対に立ったからですが、この暗殺には、ソロモン派が絡んでいることは、容易に想像がつきます。バト・シェバもそのうちの一人であったことも、否定する方がきっと難しいことでしょう。これほどの政変を、特別な政変でないように演じきった女でした。
 
バト・シェバ自身は、ダビデと不倫をした、というようには記録されてはいません。むしろハラスメント的な次元から、ダビデに一方的に手込めにされただけの犠牲者のように描かれています。その女が、権力の最高峰にまで上り詰めたのです。悲劇のヒロインのように見えたかもしれませんが、実は大した玉でした。もしかすると、ダビデが悪いように描かれたバト・シェバ事件には、別の真相があったのではないか、とも勘ぐることが可能だと思います。
 
◆福音
 
男社会が当たり前だという眼差しで、いつものようにバト・シェバ事件を見て聖書を説き明かすとすると、このような見方は決してしないだろうと思います。だから私は、ひねくれた、そして聖書信仰からすれば、極めて邪道な空想物語を呈しているのだろうと思います。ダビデの家系は、神に忠実なダビデの信仰により、その後も守られていきました、めでたしめでたし、という結論だけの理解だけで満足していることが、信仰深いことなのかもしれません。
 
ここでは、フェミニズム神学というような立派な言い方ができるとは思っていません。ただ、女性がどのように社会の中で、あるいは聖書世界の中で置かれているか、そこに目と心を注ぐことで、一方的に女性を虐げてきた男の歴史の中の末にいる私が、わずかですが、罪滅ぼしをしようか、という気持ちになりました。
 
そのように私は反省したのです。その反省と共に、最後にルカ伝の「罪深い女」のエピソードに目を向けてみたいと思います。7章のその場面をお読みします。
 
36:さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしたいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
37:この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家で食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
38:背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。
39:イエスを招いたファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女が誰で、どんな素性の者か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
 
これは、福音の記念として、伝えられることになりました。福音書では、少々背景を変えながらも、四つの福音書すべてに、こういう場面が採用されています。四つとも、となると、十字架へ至る場面を除けば、パンを分けた話など、ごく僅かな例しかありません。
 
しかも男社会は、この女に、マグダラのマリアだとか、マルタの妹だとか、説明しやすい名前で呼んで、男にとって納得しやすいように描くこともありました。このような点を発くことが、もしもフェミニズム神学であるのなら、私はそれに加わったことになるかもしれません。しかし私のことはどうでもよいのです。女性がどういう立場に置かれているのか、どのように見られているのか、そこに気づくようにしないといけないと思うのです。ありきたりの、旧態依然とした男社会の目線だけで、すっかり神や聖書を理解した、というような、能天気な「福音」が、これからも受け継がれてゆくことになるのは、よくないと思うのです。
 
◆罪深い女
 
香油を注ぐこの場面で、女を「罪深い女」と呼ぶのは、ルカ伝だけです。ルカ伝は、よく知られているように、女性を多く描きます。女性が最も活躍する福音書だとみられています。しかしそのルカ伝が、この女に「罪」という言葉を、さらに「罪深い」とまでレッテルを貼っているのです。だからこれは、娼婦であるはずだ、という説が、尤もらしく通っています。男が、そう言います。
 
いまでも、売春――いまではそのような言葉すら使わなくなってきました――は、女の犯罪だという目で見られます。春を売るのが女ならば、買うのは男でしょう。男の側は犯罪とは見なさないことが、余りに多くないでしょうか。ユダとタマルの事件のとき、ユダはタマルに死刑だと叫びましたが、自分の仕業と知って取りやめました。では他の男が関わっていたら、律法を取り出して死刑にしたのではないでしょうか。いえいえ、聖書の世界だけではなく、現在でも要するに、そういう力関係の構造になってはいないでしょうか。
 
ルカは、「罪深い女」としか書いていません。それは本当に、売春なのでしょうか。姦淫なのでしょうか。聖書を受け継いだ私たちの文化は、そう決めつけるのが普通です。本当にそうだったのかもしれません。でも、本当にそうでしかないのか、私は疑問を挟みたいと思います。というのは、たとえば正教会では、そうは見ていないようなのです。少なくとも、かつてのカトリック教会のように、マグダラのマリヤがふしだらな女である、という説には、強く反対しているようです。そのカトリック教会でも、60年ほど前のの第二バチカン公会議では、その説を修正しているらしいのですが。
 
場所は、ファリサイ派の人の家でした。その家に、この女は入れたのです。食事を共にしたとは記されていませんが、食事の席に女はいました。食事の席で、部屋中に強い香りをふりまく香油を塗るなど、普通の感覚ではできないはずです。食事のパーティの席のすぐ後ろで、強烈な香水の瓶をぶちまけようなどとは、誰も考えないでしょう。
 
心の中だそうですが、ファリサイ派の人の、「自分に触れている女が誰で、どんな素性の者か分かるはずだ。罪深い女なのに」という言葉が、女のしてきたことを暗示させるのは確かです。たとえこれを娼婦の業だとしても、どうして財産を高価な香油に換えていたのか、謎のままです。イエスのためにずっと以前からそうしていたのは不自然ですから、イエスが来ると知って、急に全財産で香油を買ったというのでしょうか。
 
だとすると、自分の罪をイエスに告白し、全財産を注いだ香油でイエスを洗うことで、自分の罪が赦される、と信仰していたように推察されます。稀に見る信仰の形です。
 
これては、まるでイエスのストーカーのようにも見えます。女としてどんな気持ちでそのようなことをしたのか、私には正直分かりません。泣きながら、その涙でイエスの足を濡らしたといいます。香油を塗る前に、まずしたところに目を向けましょう。まずイエスの足を涙で濡らしたのです。女性にとり髪はある意味で命であるとすると、涙をその髪で拭きます。
 
自分の涙でイエスの足を濡らす。それを自分の身体の一部、命の象徴で拭く――私たちは、そこまでイエスに近づいて、涙を、そして心をぶつけているでしょうか。私たちは、元来イエスに近づけないほどの素性の者でありました。が、イエスは女をそのままにさせていました。私たちも、こうして罪深い身でありながら、イエスに近づき、礼拝しています。イエスから離れまいとして、涙を流しているかどうか、問われています。
 
香油は、その後で結構。涙するこの女性の姿に、いまはリスペクトを払いつつ、言葉を一旦結ぶことと致します。
 
最後になりましたが、東日本大震災から14年経つ日を迎えるにあたり、そのときのことがトラウマのように迫る人もいることかと思います。その災害について、自分の罪を思い、潰れそうな気持ちに苛まれる方もいるかもしれません。もう、十分涙を流された方々には、もう苦しむ必要はない、と慰めてくださる方と出会ってくださったら、と願わずにはおれません。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります