教会の手話通訳者

2025年3月9日

公的な手話通訳者は、宗教団体の活動に派遣することは、基本的にできないことになっている。できたとしても、通訳者がその宗教の信徒でない限り、特別な用語や意味合いを伝えるのは至難の業であろう。
 
キリスト者には、ろう者が多い。聴者と比較すると、信じる人の割合が高いという意味である。ろう者主体の教会もあるが、近くにあるとは限らない。近くの聴者中心に教会に行くようになることだろう。その教会に、手話通訳者がいればよいと思う。よい通訳者がいれば、少々離れた場所へも、ろう者は動く。ろう者の行動力は、実はかなりある。海外旅行でも不安を余り覚えない人が多いそうである。
 
プロの手話通訳者は、資格をもち、日本手話も用いることができるのだろう。教会にそのような方がいることは殆ど期待できないので、ボランティアとして手話を学んだ素人が、通訳を担うことになる。プロのように巧くはない。日本語手話となってしまうかもしれない。だがろう者もろう者で、それに対して寛恕の意を示してくれる。片言の日本語でも、それを使って外国語を通訳してくれる人がいたら、私たちも決して咎めることはないだろう。
 
教会では、手話についての啓蒙を図っているところもある。同じ教団に呼びかけて、集まって手話講座を実施することもあるし、教会の中にそうしたことに理解があるろう者がいれば、教会内で手話講座を開いてくれる人もいる。
 
何年も、そうした活動を続けているグループがある。聖書の言葉を、手話で扱えたらいい、という考えのようである。教会で話をするときに、聖書の用語を使うことは当然あるだろう。それについて、できるだけ多くの信徒がわずかな手話でも使えたら、ろう者も気持ちがよいかもしれない。ちょっとした挨拶でも、コミュニケーションがとれるというのは、よいことだろう。
 
また、ろう者や手話というものについて、理解をする人が増えるというのもよいことだ。もはや昔のような偏見は減ってきたとはいえ、まだろう者の社会的な困難や日常的な不便については、理解が広まっているようには思えない。教会が、そうした啓蒙のために、初心者に手話を体験してもらう、ということが、悪かろうはずがない。
 
歌ということについては、ろう者の間にも賛否が様々である。結局振り付けを楽しんでいるだけ、という意識に不満をもつ人もいれば、そうでもして手話に関心をもってもらうのはありがたい、と考える人もいる。教会には賛美歌がある。これを使って手話を覚える、というのは、効果的な場合がある。実は、歌というのは、ゆっくりとした時間の中で手を動かすので、普通の会話よりも遥かにやりやすいのだ。初心者には確かにいい。
 
ただ、何年かけても、そこから進む様子がないのだとすると、ちょっとした啓蒙が目的であることになってしまわないだろうか。あるいはまた、手話講座を開く、バリアフリーな教会ですよ、というアピールに役立つという程度に考えて終わり、という意地悪な見方も可能である。
 
手話という形だけ学んで自分の教養とするのと、ろう者やその歴史と社会を理解しようというのとは違う。英語がちょっと使えてうれしいというのと、異文化を理解しようとするのとは全く違うのと同様である。
 
まして、そこから教会での説教を通訳しようとするような人を起こし、育てるという大切な道が生まれるのかどうか。通訳者を育もうとするならば、手話講座を二つに分けて、方や初心者、方やより深い通訳志望者、として催すのが当然であろう。
 
ろう者に、説教原稿だけ渡して終わり、という教会もある。その説教が、命あるものであれば、それもまた一つの方法であろう。ただ、名ばかりの献身者が聖書講演会の原稿を渡しても、それは命にはならない。手話通訳者という形も、命ある説教というコンテンツがなければ、無意味である。そのどちらもない現状があるとき、空しいものを覚えてしまうのは、なんとも切ないものである。
 
他方、平日は激務に明け暮れ、しかしろう者への福音という使命を身に受けて、主日には教会でろう者のために手話通訳を担当し、そのために学びと研究を重ねている手話通訳者も実際にいた。私は、その人こそ、真の献身者であると言ってよいだろうと思う。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります