透き通る喜び
2025年3月3日

マルコ伝2:18-22からの、連続講解説教である。イエスの弟子たちが断食しないという質問があって、真新しい布を古い布に縫い付けるな、新しいぶどう酒を古い革袋に入れるな、というような件である。
しかし、聖書の説明をしようというふうではないと見た。このたとえの解釈が云々かんぬん、という説教ではなかった、ということだ。問題は、ここから何を聴くか。何を受けるか。そして私が、この言葉からどう変わるか、である。また、そのために、私がその世界にどう入るか、それが肝要であり、その世界を私がどう思い描くか、これもまた大切な条件であると言えるだろう。
教会も一般に高齢化の波が押し寄せており、亡くなる人が現れる。それは、遺された家族にとり、悲しいことだ。悲しいことではあるのだが、キリスト者にとっては、ある種の喜びでもある。「天に召される」という表現を使うこともあるのだ。但しいまここでは、ノーマルな言い方を使うことがあるのをお許し戴きたい。
教会員の目から見てみよう。共に歩んだ同胞である。同じ聖書の言葉を聴き、同じ希望を懐く者として、共に歩んだ同胞である。この情景の中に、説教者は、「透き通る」という言葉を投げ入れた。聞き間違いでなければ、ここで「悲しみの中に、喜びがすうっと透き通ってくる」という言い方をしていたはずだ。
これは謎めいた言葉のように思える。悲しみが透き通って、喜びが見えるようになる、というのならば容易に理解できる。しかし、ここで透き通ってくるのは喜びであって、それが悲しみの中にある、というのだ。
これは、聴く者それぞれに、自由な想像をさせることができる表現である。もしそうでないとしたら、説教者がもつイメージを、相応しい言葉に置き換えられなかった、ということになるだろう
思えばイエスの話す言葉も、そうだった。時間空間を超えて、全く異なる文化の中で、異なる言語を用いて伝わってくるその言葉は、確かに原意通りにばんばん伝わってくるようには考えられない。お陰で、難解なたとえも多々あるし、定説となった理解とて、それが本当に正しい捉え方であるかどうかは、分からないとしか言いようがないだろう。
この革袋などのたとえも、正直ぴたっとジグソーパズルのように嵌めこまれないような気がする。ただ、方向性は掴めるような気がする。最初の「真新しい布」というのは、いわゆる「さらしていない布」を表す。水通しをせずに布を裁断すると、それを洗ったときの縮みが激しくなり、サイズすら変わってくることだろう。「新しいぶどう酒」というのは、「ここから発酵が始まる酒」ということで、水筒として使う革袋が古ければ持ち堪えられなくなることが想像できる。
そもそも、弟子たちが宗教者らしい姿勢をもっていないことに対して、そのリーダー教師であるイエスに対して、非難の声が浴びせられたことから、この場面が始まっている。今後イエスが十字架の死を迎えたら、この弟子たちは本物の神の僕となるのだ、と非難を打ち返す。
しかし、布とぶどう酒において起こる事態が、私にはいまひとつしっくり噛合わない。スッキリしないのだ。あまりにこのたとえの事象を説明しよう、としているから、そう感じるのかもしれない。もっとざっくり受け止めればよいのではないか。「新しい」というのは、イエスの教えとイエス自身のことをいうのであろう。「古い」というのは、さあ断食するのですよ、といったユダヤのエリートたちの信仰姿勢を意味するのであろう。新約聖書と旧約聖書、と理解しても悪くはないとは思うが、イエスがもたらす新たな救いの道が、そのまま古い信仰理解と接するときには、古い理解は廃棄されることになる、という宣言だと受け止めればよいだろうか。
私たちは現代、「止揚する」という言葉を使って、旧態依然とした情況を打破する可能性を考えることがある。イエスの場合にそれは直ちには当てはまらないと思うが、古い理解を乗りこえる福音というものが、神の真の救いと、永遠の命をもたらすのであろうことを、ここからも感じることができると思う。
さて、マルコ伝をここまで振り返ると、「癒やし」から「論争」の記事へと流れている。そのとき、「罪の赦し」という、通奏低音のような響きが場面を支えていた。時折イエスのガリラヤ伝道を、「ガリラヤの春」と呼ぶことがあるが、それは長閑な春という意味ではない。加藤常昭先生がこの言葉を説明していた。「ちょうど春の季節のように穏やかで、主イエスと人びととの間もそれほどぎくしゃくしたものではなくて、皆が喜んで主の言葉を聞いたのです。」しかし、イエスは十字架で殺される。それが実際、エルサレムの春であった。説教者もその意味で言葉にしたのだろうと思うが、マルコでは早くも、不穏な空気が流れていたことになる。
説教者は警告する。この論争を他人事とする勿れ。教会生活に慣れてくると、自分がひとかどの者であるかのように、自認してしまうことがあるのだ。医者がいらない「丈夫な人」になってしまうのだ。説教者の言葉が忘れられない。このようなとき、「イエス・キリストを必要としないほど、正しい人になっている」のだというのだ。
このとき、人はイエスをさえ、古い革袋に入れようとしていることになるのだ。自分という神が君臨するのであって、自己満足のためにイエスを道具として利用する。自分にとり都合がよいことがある場合だけ、イエスのことを持ち出して利用する。まるでポケットから取り出すかのように。そのとき、イエスは、自分のポケットに入る程度の小ささを呈していることになる。
自分の生活を、あるいは自分というものを、変えるような効果を生み出さない程度にしか、イエスを迎えたくない、と考えている。それではいけない。そもそもイエスは、「新しい人間」をつくりだそうとしているはずなのだ。私が変わらない者として続いている、というのであれば、これは正にいまの、イエスを利用する者になってしまっていることを意味する。罪とは、自分でそれとは気づかないほどに、自分を縛り付けている。気づかないままに、自分がどんどん膨らんでゆく。それが悲惨な結果をもたらすことになる。
そのような私は、変えられなければならない。イエスが、私の罪を赦したのだ。私を救い、罪に縛られることから命を永遠の相の下に解放したのだ。まずは、方向転換が必要である。神に背を向けているところから、神の御顔の方に向きを変えなければならない。これが「悔い改め」である。自分を徒に責めたり、くよくよしたりすることではない。向きを変える事が、「悔い改め」なのである。
このイエスは、悲しみを誰よりも知っている。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/痛みの人で、病を知っていた」(イザヤ53:3)という主の僕の姿を、キリスト者はしっかりイエスに重ねて見ているに違いない。そこにはわざわざ「悲しみ」という語は挙げられていない。だが、溢れるばかりの悲しみがそこに潜んでいる。また、イエス本人が、人々の「かたくなな心を悲しみながら」(マルコ3:5)、癒やしの業を示したこともある。
説教者は、喜びそのものであるイエスというお方が共にいてくださることを、私たちも喜ぶのだと告げる。それと同時に、イエスは悲しみを知ってくださる方でもあることを、私たちは知らなければならない、という。いずれにしても、私たちはイエスをお迎えするのだ。
イエスは、悲しみ深いところに、繰り返し繰り返し、喜びをもたらしてくださる。説教者は最後にこうしたことを強調する。だが、そのイエスは、十字架の死を経験した。しかも、主イエスを十字架につけたのは、この私である。ここが、信仰である。イエスの十字架は、悲しみそのものである。しかし、「悲しみまで透き通る、深い深い喜びがある」と説教者は告げた。
こちらのたとえは、スッと入ってくる。十字架の酷い姿は悲しみに包まれているだろう。「その日には」、イエスの弟子としての私は断食する。水曜日から、レント(灰の水曜日)を迎える。教会によっては、非常に禁欲的な生活を送るようなところもあるという。だが、十字架の主を見上げての悲しみは、三日目に確実に透き通る。復活のイエスと出会うことになるからだ。そのとき、私は確実に、新しくされる。新しい人間になる。古い自分という革袋には、とても入れることのできない、新しい命に生かされて発酵する息吹に満ちた世界が始まるのだ。