(サムエル記下12:1-14, ヨハネ21:20-23)
ナタンはダビデに言った。「それはあなたです。」(サムエル記下12:7)
◆おはなし
小さい頃の私は、本を読むのが好きだったとは言えません。文字を目で追うと、ずいぶんと時間を費やします。親が、子ども向けの文学全集を買ってくれていましたので、読むべきだとは思っていたのですが、200頁くらいあると、どれだけ時間が必要かを考え、手が伸びなかったのです。
それでも、読むには読んでいたのでしょう。とんち話や、偉人の話は、それなりによく知ることとなりました。日本神話も、基礎は弁えていたのです。やはり「おはなし」は楽しいものだったに違いありません。
成長すると、自分は小説を好まないのかもしれない、と思うようになりました。もちろん、ある程度は読んでいたのですが、「おはなし」にのめりこむような体質ではなかった、ということです。物語や空想の世界を楽しむ気持ちが、なかなか分かりませんでした。中学生の頃、宇宙論や哲学的な考え方に関心をもつと、小説の世界からは、意識の上では遠ざかっていたのだと思います。
でも、大学生活で必要に応じてですが、せっかくこの世に生まれたのだから、世界の名作には触れてみたい、とも思うようにもなりました。ただ、小説が好きな読書家の方々と比べると、情けないくらいに、「おはなし」には親しんでいないものでした。
図書館では、新刊本の棚には必ず目を通します。気づくことは、新刊の小説は、すぐに次々と借りられてしまうことです。いまはウェブサイトで貸し出し情況がチェックできるようになりました。見てみると、新刊の小説には予約が何人もついています。世の人は、「おはなし」が大好きなようです。
テレビドラマや映画も、言うなれば「おはなし」です。演劇の舞台も、「おはなし」でしょう。映像の中の物語、あるいは舞台の上での物語は、観客が眺めることで成り立ちます。主人公が泣こうが痛めつけられようが、助かることを想定してどこか安心しているかもしれませんし、むしろキャラクターの身の上に起こった悲劇を一緒に悲しむことで、カタルシスを覚えてすっきりするものなのかもしれません。
でも私は、そういうのが嫌なのです。主人公でなくても、物語の中で誰かがいじめられたり、暴力的に殺されたりする場面が嫌いです。アニメでも目を背けます。理由はよく分かりませんが、自分も痛いような気がしてならないことがあります。
テレビドラマでも映画でも、誰がどう苦しもうが、見ている自分が痛いということはありません。それはフィクションであり、現実ではないのです。ただ、先日、エマージェンシーコールの実録取材による番組があって、それは現実のことなので、見ている妻もだいぶハラハラしていました。
それでもなお、ドキュメンタリーであっても、そこにあるのは、いわば「他人事」です。
報道で、私たちは戦争の中の人々の姿が映し出されているのを見ます。重症者や遺体がそこに映し出されることは、さすがにありませんから、嫌悪感を懐くようなことはなく、そのうち慣れていきます。飢えた子どもたちの姿がそこにあっても、気の毒に、と思うくらいで、視聴者には痛みを覚えることがありません。最初は感じても、そのうち忘れてゆくものなのでしょう。
22年前のイラク戦争のとき、アメリカ軍からのピンポイント爆撃のリアルな映像が報道されたのは、さすがに衝撃的でしたが、それでも人々は、すぐに慣れました。それはまるで、ビデオゲームのようにしか見えなくなっていったのです。
◆窓を覗く神
パーソナル・コンピュータは、アップル社の開発が画期的でしたが、そのうちマイクロソフト社のビジネスが成功し、特にビジネス関係では標準になってゆきました。日本でのビデオテープの競争にも、似たような経緯があったような気がします。尤も、アップル社の別の面での発展は、ご存じの通りです。
マイクロソフト社のOSはウィンドウズと言いますが、「ウィンドウズ」という名前は、よくしたものだと思います。その画面は、正に「窓」でした。その窓からは、世界のどこの様子でも見ることができます。宇宙すら見られます。ドラえもんの秘密道具みたいなものです。私たちは鼻歌交じりに、厳しい情況に置かれた人々の姿をも眺めてしまいます。
「高みの見物」というと、言い過ぎでしょうか。でも、私たちがしていることはそのようなものだ、ということに、私たちは気がつかなければならないと思います。「気がついているよ」と嘯く人も、どうか慣れてしまわないでほしいものだと願います。
SNSで暴言を吐く人がいます。誹謗中傷を浴びせているということに、気づきませんし、気づこうともしません。そうなると、私にはその人は、一種の「病気」ではないだろうか、と思えてしまいます。尤も、「病気とはなにか」という定義から話を始めなければなりませんから、あまりその言い方に拘泥しないようにしておきましょう。
平気で暴言や誹謗中傷を、自分は匿名で、そして相手は実名で繰り返すというようなことが、どうしてできるのか分かりませんが、見ていると、その人は「自己認識能力」を失ってしまっているとしか思えなくなります。他人が何か少し失言したり、失敗をしたりすると、それがもう許せなくなるようです。けしからんことだ、あいつは馬鹿だ。だからいくら非難されても当然だ。私は天誅を下しているのであって、私のしていることは正義である。そのような態度がありありと見えます。そして、自分がその「けしからん」ことをしているということが、分からないのです。
自分は正義だ。正義の矢はいくら放っても正しい。悪いことをしたあいつには、人権なんかない。そうだ、そんなヤツは「死ね」。いなくなったほうが、平和になる。
すっかり、自分は神になってしまっています。相手を言葉で殺してもよいのです。そもそも、「人を殺す」ことは、自分が神になることではないか、と私は常々思っています。相手の運命を、この自分の意志が決定することができるからです。この快感が、自己認識能力を麻痺させてしまいます。
人を殺してはなぜいけないか。大人たちが問われてなかなか口をつぐんでしまった問いですが、根本的なところで、それは自分が神になることだからだ、という説明を、私はたぶん聞いたことがありません。ご存じでしたら、教えてください。
「批判」というものは必要です。第一、なんにでも追従するばかりでいてはいけないはずです。しかし「批判」は「非難」とは違います。もっと建設的なものです。なんの根拠もなく、常に自分が正しいと構えているような言動は、人の前にも、神の前にも、誤ったものと見なすべきだと考えます。
◆自分は見えない
そうだ。神を信じることが大切だ。神を信じれば、自分が神になることはない。神を信じているならば、そして教会に通っているならば、そのような間違いを犯すことはない。時に、安易にそのような信念をもっているような様子に出合うことがあります。
ひとは、そういうものなのだろうと思います。私もまた、そうです。あなたもまた、きっとそうです。私たちは、自分のことなど、まるで分からずにいるのです。
それは、イエスの十字架上での祈りにもありました。
〔その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの衣を分け合った。(ルカ23:24)
聖書ではここに、珍しい括弧が付けられています。学者先生方の研究によると、ここは新約聖書の初期にはなかった言葉なのだそうです。後から付け加えられた言葉であるから、本来の聖書ではなく、意味が無い、と決めつける人もいます。どういう信仰をお持ちの方かは別として、世の本でも、改訂版というものがあることは、考えてもよいような気がします。最初の版だけが神の言葉で、後のものは人の言葉だ、というルールは、どこから来たのでしょうか。それとも、最初から聖書は神の言葉などではない、という前提で調べているのでしょうか。もしそうだとたら、ますます改訂版のほうがよい、とすべきではないか、とも思うのですが。
中には、聖書のこの言葉はイエスの言葉だが、これは違う、と振り分けるような営みもあります。そういうことを振り分ける能力と権威、そして知恵が自分にはあるのだ、と豪語しているように見えて仕方がありません。考察だけでそう決めているとしたら、「自分が何をしているのか分からない」姿であるようにすら思えます。
でも、それを私が免れている、とも考えません。私もまた、「自分が何をしているのか分からない」一人であるのです。それが、人間というものだろう、と思います。
イエスは、ダビデの子孫である、救い主「メシア」だと期待されていました。新約聖書も、イエスがダビデの家系であることや、それについてのイエスの言明について、非常に力を入れて記しています。そのダビデは、イスラエルにとり最大の英雄でした。ただ、イスラエルの凄さというものを、私は感じます。戦いに敗れたことを神の責任にしなかった、という点にも常々驚かされていますが、ここへきて、ダビデの扱いについても、凄いと思うのです。
それは、国の最大の英雄であり、尊崇する王を、実に人間的には欠陥だらけのように描いているからです。英雄的に描くためには、預言者エリシャのように、スーパーマンとしてダビデ伝説を描けばよかったのです。ここから私たちは、そのダビデの最大の黒歴史を取り上げて聞くことになります。但し、その事件そのものは、与えられた聖書箇所としてお読みすることはしませんでした。その顛末のクライマックスにあたるところに、光を当てることにします。ストーリーそのものは、必要に応じて、端折りながらでも触れますので、もしこの事件をご存じない方も、そのままお聞きくださいませ。
◆ダビデのしたこと
サムエル記下12章からですが、それに先立って、「ダビデのしたことは主の目に悪とされた」(11:27)といいます。ただ、それは人の目から見ても悪であると分かります。
ダビデ王は、年齢を重ねていたのでしょう。本来王は戦いの先陣を司る役割ですが、ここへきて現場は部下に任せるようになっていました。アンモン人との戦いのときにも、ダビデは王宮に留まっていました。しかし年齢を重ねても、男の好色はまだ冴えていたようです。
夕暮れ時、王宮の屋上を散歩していたところ、美しい女が水浴びをしているのを目撃し、欲情します。それは「エリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻」(11:3)だとの報告を受けてなお、王宮に彼女を呼び出し、願いを達成します。
戦いは長引いたようです。女が妊娠が分かるほどに時が経ちます。ダビデは戦場の将ヨアブに、ヘト人ウリヤを呼び戻せと命じます。戦況を尋ねるふりをしながら、家に帰れとウリヤを促しました。バト・シェバの妊娠を、夫のウリヤのせいにしようとしたのです。1か月も2か月も経ってからではごまかしようがなかったかもしれないのですが、ダビデとしては精一杯の偽装工作でした。
しかし、ウリヤは律儀で誠実な部下でした。仲間が戦場にいるのに、妻のところに自分ひとりが入るわけにはゆかない、と家には帰りません。さらにもう一度機会を作りますが、やはりウリヤは家に帰りません。ダビデは、ウリヤにヨアブへの伝令をもたせ、戦場に返します。それは、最前線にウリヤを残して、戦死させよ、という内容でした。
計画通り、ウリヤは死にます。「ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだと聞くと、夫のために嘆き悲しんだ」(11:26)のでしたが、ダビデはバト・シェバを王宮に招き入れ、半年後、出産に至ります。
人妻を、王権を肩に呼び寄せて欲望を満たしただけでも大罪だと言えますが、その後隠蔽工作を企み、それが利かないとなると、計画殺人まで犯すというように、ダビデの罪は塗り重ねられていきました。
しかし、そもそも戦争をするということは、人が死ぬのは当たり前だと考えられていたのかもしれません。ウリヤが死んだということそのものは、平穏な時代の私たちの目から見ると、ウリヤには申し訳ないほどに、その責めは軽いように描かれています。
どこまでも忠実に王に仕え、並の兵士以上に忠君精神を全うしたウリヤに対して、ダビデの欲望と欺きの仕打ちは、余りに酷いとしか言いようがありません。
◆ダビデの悔い改め
今日お開きしたのは、この事態を知った預言者ナタンが、ダビデに迫る場面です。しかし、ナタンの皮肉な叱責に対する、このダビデの態度は、それにも増して、と言いたくなるほどに、私たちを呆れさせます。v
ナタンは、ダビデのしたことをひとつの寓話で示しました。富める男がいて、たくさんの羊や牛をもっていた。貧しい男は一匹の小羊だけを大切にしていた。富める男の許に一人の旅人が来たので、もてなそうとしたのだが、そのとき自分の羊を惜しみ、貧しい男の唯一の羊を取り上げてごちそうとして出した。こういう話です。
ダビデは、この富める男の話に、たちまち「怒りを燃やし」ました。ナタンに向けて、「そのようなことをした男は死ななければならない」と吠えます。
7:ナタンはダビデに言った。「それはあなたです。」
ナタンはすべてを知っていました。ダビデが隠していたことも、主は知っています。預言者として、そのことを主から教えられた、というふうに考えればよいでしょうか。もちろん、人間的な噂や調査により、分かったこともあったと思われます。とにかくナタンは、ダビデのしたことを、ここで余すところなく突きつけたのでした。そして、厳しい災いが下されることを告げます。
11:主はこう言われる。『見よ、私はあなたの家の中から、あなたに対して災いを起こす。あなたの目の前で、あなたの妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼は白日の下で、あなたの妻たちと寝るだろう。
12:あなたはひそかにこれを行ったが、私はイスラエルのすべての人々の前で、白日の下にこれを行う。』」
たとえ話に過ぎないナタンの話に、ダビデは猛烈に怒りましたが、それが自分のことであるとは、指さされるまで、気づきもしなかったのです。「それはあなたです」と突きつけられ、事の次第をとことん説明されて、さらに主のもたらす裁きまで明かされて、ようやくダビデは項垂れたのでした。悔い改めたにしても、激しく鈍感な結末となりました。
そのダビデは、このナタンの叱責に対して、開口一番に何と言ったでしょう。「私は主に罪を犯しました」です。そして、これしか答えていません。真心を尽くした末にダビデに裏切られて殺されたウリヤに対しては、済まないといった気持ちは少しも示されていません。ウリヤについての罪の意識をもっているようには見えないのです。日本人の心情からすれば、「ウリヤが浮かばれない」としか言いようがありません。
この情景は、むしろ私たちに深刻なものを伝えていると言えます。いったいどこに、主の前に最大の罪というものがあるのか、示そうとしているからです。ダビデは、自分の姿が目の前に露わにされても、最初気づきませんでした。「そのようなことをした男は死なねばならない」と、自分こそ裁く側の人間として、裁判官であるかのように振る舞って、正義の声を発していたのです。
他人へは厳しく対処し、主人となるのですが、自分が裁かれるしもべであることなど、心にもかけないでいます。自分は犯罪とは関係がないものと前提して、そこから他人を責めるだけの、私たちの姿がここに発かれているように思えてならないのです。
◆あなたと神
新約聖書の、ヨハネ伝からも、ひとつ声を聴きたいと思います。復活のイエスが、弟子たちの間に現れた場面です。それも、ヨハネ伝としては付け足し感の強い、21章での出来事です。主イエスは、ペトロに重ねて尋ねました。「私を愛しているか」(21:15,16,17)との問いに、ペトロの胸は張り裂けそうになりました。イエスの裁判の陰で、「知らない」と三度主を否んだことが、胸にまざまざと蘇ります。
イエスは、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを示」(21:19)した後、イエスは結局、「私に従いなさい」(21:19)とペトロに告げました。このときペトロが振り向くと、そこに「イエスの愛しておられた弟子」が見えました。
21:ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
もちろん、いま「従いなさい」と告げられたのはペトロです。他の弟子については、イエスは何も言っていません。だからこそ、ペトロは気になったのです。失敗続きの自分について、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを示」(21:19)した今、それではあのヨハネはどうなるのか、気になったのです。その心理は、私たちには想像するしかありません、あのヨハネも辛い死に方をするのか、と思ったのかもしれないし、あのヨハネは自分と違って、幸いな生涯を送るのか、と悔しい思い混じりだったのかもしれません。
しかしイエスは、ペトロの思惑を一切受けつけず、「あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい」と答えます。あなたには、あなたの使命があるのであって、他の誰がどうということは、関係がないではないか。ただあなたが、従うことだけでいいではないか。ここでは、「あなた」という言葉が強調されている表現がなされています。
邦訳は「あなたは」ですが、私は、「あなたが」と訳すと、より響きが伝わるような気がします。「あなたは」というのも、確かに対比されてペトロのことが際立ちますが、「あなたが私に従いなさい」とするのも、ペトロ自身のことなのだ、というはっきりとした命令が響き渡るような気がするからです。
ペトロは、もう逃げ場がありませんでした。見物気分など、どこにもありません。私たちはどうでしょうか。依然として、このペトロの顛末を、他人事のように眺めているままでしょうか。ダビデ王に突きつけられた言葉を、舞台の上でのセリフのように聞いているだけでしょうか。
あなたと神との関係、それを聖書は問うています。昔の人の失敗話をどう評価するか、そんなことにしか興味がない人もいます。ダビデ王のしたことは云々と論ずるのが楽しい人もいます。しかし、聖書をいくら研究しようとも、いくら聖書について知識が豊富で、その原語が自由に読めたとしても、眺めているだけでは、つまり神との関係が意識されていないだけでは、聖書から命を与えられることがありません。自分の思想で、聖書というテクストを読書しているに過ぎません。聖書は自分の知識欲を満足させるための道具であり、神という概念を、自分の正当化のために利用しているに過ぎないのです。
そういうことを話す場として、礼拝説教を語るような人がいたら、それは偽りです。甚だ罪深いものだと思います。命を伝えることができないばかりか、自分のしていることが分からないでいるようなものだ、としか思えないのです。
◆私と神
それは、私にもあることです。繰り返し、あったことです。「それはあなたです」と言われることなしには、気づかないような自分の罪がありましたし、まだ気づいてさえいないことがあるに違いありません。それは、あなたにもあったのだと思います。失礼な言い方をお許し願いたいのですが、あなたにも、まだ自分では気づいていない自分というものがあるのだと思います。
このことが、神からあなたへ突きつけているメッセージなのです。「それはあなたです」と。
聖書は、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」というような物語ではありません。聖書は、神が聖であることを示すのであるにしても、人は黒く汚れていることばかりを描いています。その「人」というのは、読者から見て「他人」である誰かなのではありません。「私」という「人」を描いた書であるのです。聖書とは、私と神との関係をどこまでも問う言葉であったのです。
今週の水曜日、教会暦では「レント」即ち「灰の水曜日」を迎えます。復活歳の前に、悔い改めの時を覚えるのです。そのために、このダビデの出来事を、自分の問題として受け止めることには、深い意味があるのだと感じます。
そうです。情けない、無知な私です。けれども、そのような私だから、いままたイエス・キリストを見上げます。イエス・キリストは、十字架の上で、両手を拡げて、私を待っています。釘の跡が生々しい掌を見せて、私を迎え入れようと、待っています。そうです。それは十字架に架かったイエスであると共に、復活のイエスです。いつまでも十字架で殺されたままのキリストではありません。主は生きておられます。私は、その舞台に、確かに立っているのです。