本とお金
2025年2月25日

本が山と積まれている部屋にいる。何度か捨てにかかったが、ここしばらくそれをしていない。春休みにはぜひ一定量を処分しようと思っているので、家族にはのもう少し辛抱して戴こう。
本をたくさん買うからには、お金持ちかと勘違いされるかもしれない。一番買ってしまうのは、百円+税の中古本である。見かけて読みたくなっても、買うのはせいぜい200円+税であろうか。
予めこれが読みたい、と思うものがあって探しても、店頭ではまず見つからない。かろうじて文庫の小説で見つかるかどうか、というところだろうか。京都の古書店を訪ね歩いた学生時代が懐かしいが、いまはウェブサイトでたちどころに見つかるのがうれしい。少し前までは、価格が¥1で送料が257円というのがよくあった。さすがにいまは¥1は少なくなった。それでも、500円以内で送ってきてもらえることを標準としている。
価格と条件を比較検討して、しかもしばらくして値が下がるのを待つのが普通だ。ただ、日々下がることがあるからと言っても、あまり待ちすぎるのもよくない。他者に買われてしまうのだ。今晩注文しよう、と決意して帰宅して見たら、売れてしまっていた、ということも何度か経験した。値が下がるのを待つか、誰かに買われるか、がそこはギャンブルである。
本代を捻出するのに、お弁当屋さんで食事を買うのを我慢して、コンビニのパンをかじる、ということもある。服を買う必要があっても、安い方を買えば本が買える、という計算もしている。
欲しい本が、ネットにあっても、1000円以上するときには、かなりためらう。注文するのには勇気が必要だ。どうしても、という憧れにも似た本のために数千円を使ってしまった月は、もう他のものは最低限として、心にブレーキをかける。4桁の価格は、しばらく悩むものだ。
ここでお詫びしておくが、中古本を探すということは、本を発行する会社や著者には利益が向かわない、ということになる。これは申し訳ないと思っている。もちろん、新しい本を読みたいと思うことも多々あり、それなりに新刊として購入もしていることは申し添えておく。また、私の探す本には、実際新刊として流通していない本が多いのは事実である。そうでない場合も、それなりに宣伝はさせて戴いているのが、私の中では罪滅ぼしではあるのだが、しかし弁解するつもりはない。
それから、図書館というものもある。これは公共のものとして、ご理解戴くことにしよう。図書館に歩いて行けるという環境は、望んだことではあったが、子どもの教育のためにも絶対にいい。二週間借りられるから、月に2回行くことにしている。貸出延長の手続きが、最近ウェブサイトからできるようになったので、たいへん便利である。しかし、図書館に自分の読みたいものがあることは稀である。専門的なものは全くない。本の紹介をこの場で定期的にしているが、目の肥えた方は、図書館から借りた本のことだな、とすぐにお分かりだろうと思う。
本が必要な職業は、もちろん学者さん方であろうが、牧師という職業も、必要である。いまはインターネットでかなりの知識が入手できるが、本を読むことに頼る面はまだまだ強い。しかし、牧師の給与は、さほど高額なものではない。昨今のように、新書が千円以内のものが少なくなった世の中とあっては、書籍代は痛いことだろう。
比較的安定した給与を出せる教会では、従来から、書籍代が給与と別の手当のように決められているところもある。たとえばそれが月に一万円などというわけだが、もし一万円が私に別に与えられたら、いまの買い方では毎月お釣りが出るだろう。まことに羨ましい限りである。
それから、著書を出す牧師や神学者さんたちの間では、互いに自分の本を贈り合う習慣があるらしい。ウェブサイトでそれをご丁寧に報告する人がいる。誰それ先生からの謹呈という札まで付けて、本を宣伝する。さすがに妬むような気持ちは起こらないが、書籍代をもらえる上に、高額な専門書が無料で贈られてくるような立場の人については、羨ましいを通り越える思いが走る。それはとても贅沢なことである、とご本人は自覚しているのだろうか。私のような者から見れば、欲しい、読みたい、と思う本が、戴きました、と次々と報告されてくるのだから、格差社会をひしひしと感じる。その一冊を読むために、私はどれだけ衣服と食事を切り詰めなければならないのだろうか。
本に関してのみかもしれないが、それだけ豊かな財に恵まれた牧師は、果たして貧困に喘ぎ悩む信徒の気持ちを、どこまで分かってくださっているのだろうか。また、そこに福音をどのように語っているのだろうか。もちろん、私はそれなりに生活ができているのだが、本当に経済的に苦しい信徒もたくさんいることだろう。その中から教会に献金をする信仰生活を続け、その献金で牧師は豊かな生活を送っているという構図が見え隠れすることがあるのである。
私の母教会の牧師は、爪に火を灯すような生活をしていた。それでも四人のお子さんを立派に育て上げた。そして、説教で定期的に、献金のメッセージを語っていたのを思い起こす。もちろん、それは自分の生活のためではない。牧師給与は決まっている。世間の基準からすれば低額だった。しかも、牧師ほど多くを献げていた家庭もあるまい、と思われるほどだった。
神から与えられる恵みというものが何であるか、よくご存じだったのだ。多く献げ、多く愛される。もちろん、献げた故に愛されるというのではない。すべては恵みであった。このような信仰を生きていたからこそ、献金のメッセージが強くできたのだろうと思う。そこには、真実の力があった。
皆さまの教会で、近年、献金の説教があっただろうか。そこには、経済的なものばかりでなく、自分自身を神に献げる、というエッセンスが潜んでいたはずである。だが、表面上は確かに金銭のことである。献金を全く語れない牧師がいたら、果たしてどのような信仰生活をなさっているのか、いろいろ尋ねてみたい気がする。
ともあれ、キリスト教会の財政破綻が現実的に厳しいのが一般的である。多くの牧師が、貧に喘いでいることは、統計上からもはっきりしている。しかしそこで献金のメッセージが、真実に語られるならば、きっと、よい福音が語られているのだろうと信じたい。神と出会い、神の出来事がその教会にいつも起こっているのであれば、神が共にいてくださる恵みの教会だと思う。