【メッセージ】あなたを見ました
2025年2月23日

(ヨブ42:1-6, ヨハネ9:39-41)
私は耳であなたのことを聞いていました。
しかし今、私の目はあなたを見ました。(ヨブ42:5)
◆神を見ること
聖書をいろいろ読んでいると、あちこちで、「神を見た者は死ぬ」という言い伝えに怯えている様子に気づくことがおありだと思います。特に旧約聖書では、そういう場面が多々あります。後に、イエスが神の子として現れたときも、もしかすると弟子たちの中に、この点を恐れた者がいたかもしれません。それが「信じられない」ということだとしたら、それはむしろ不信仰ではなかった、ということになるかもしれません。
新約旧約を問わず、天使を見るというシーンはかなりあります。私の単なる想像ですが、「神を見た」と書くと拙いので、「神を見た」という気持ちになっていても、記述上は「天使を見た」と書いているところがあるような気がするのです。天使に向けて「主よ」と呼ぶのは、もちろん天使というものが神の使いであるために、神に対して物言うようにしなければならないからですが、ひょっとすると、本当に「主」と思って話していたかもしれない、とすら想像するのです。
もちろんそれは、突飛な解釈ですから、どうか眉に唾をつけてお聞きください。
神を見ることよりも、「神の声を聴く」、こちらはもっとポピュラーです。基本的に、神の声を聴く、ということの方が、ずっとポピュラーだと思います。
人が文字を読むということが一般的になったのは、歴史の中ではつい最近のこと。多くの人が文字を読むというのは、革命的な出来事だったわけです。書いたもので市井の人々に情報が伝わるということは、普通考えられなかったわけです。だから、「聖書」という言葉はギリシア語で「書かれたもの」と呼ばれていますが、これには、それを読む人が限られていること、つまり多くの人々に伝えるためのものではないことが隠されているに違いありません。
新約聖書の「手紙」の数々も、それを読める特別な人が読み上げて、人々に聴かせる、という形が通常であったと思われます。旧約聖書には、特別な指導者が読み聞かせている場面がたくさん出てきます。新約聖書でも、イエスは会堂で、あるいは湖畔や丘で、人々に語り聞かせるのです。自ら執筆しなかった、というのは、ある意味で当然のことだと見てよいのではないでしょうか。
現代人は、読むことに重きを置きすぎます。礼拝説教で開かれる聖書箇所も、せっかく朗読しているのに、会衆の眼差しは手許の聖書の文字に向かいます。これはなんだか、もったいない気がします。「聴く」というのは、相手の言うことに従って行動する意味を含みますが、「見る」のだとしても、相手に従うかどうかは別問題です。もっと、神の言葉を「聴く」ことへシフトしたほうがよいのではないかと思います。
今日、響いてきた言葉は、旧約聖書のユニークなキャラクターである、ヨブの言葉です。まず、私に響いたその言葉をズバリ挙げておきます。
私は耳であなたのことを聞いていました。
しかし今、私の目はあなたを見ました。(ヨブ42:5)
これは、いま申し上げた「聴く」ことの重視とは逆のことのように思えます。その意味でも、これから明らかにされてゆくことが、楽しみでもあります。ここに耳を傾けましょう。いえ、目を注ぎましょう、と言うべきでしょうか。
◆ヨブ記とは
ここで簡単に、ヨブ記というものについて振り返っておきましょう。旧約聖書は、ユダヤ文化そのものですが、その中でもヨブ記は、特異な存在とみられています。律法と預言者、諸書と分かれるとされる旧約聖書のジャンルですが、ヨブ記は諸書、つまりその他の部類に入れられています。どうも実在性の感じられない、創作逸話のようにしか見えないのですが、その意味ではひとつの「文学」として関心がもてるものです。ただ、そこにこめられたテーマは実に大胆で、そして深いものがあるとされ、私たちの解釈では容易にまとめることがなかなかできません。もちろん、その表現の巧みさが、一定の理解を阻んでいる面もあるでしょう。
ヨブは信仰篤く、豊かな暮らしを祝福されていました。神がそれをサタンに自慢します。するとサタンは、ヨブが恵まれた人生を与えられているから善人になれるのだ、不幸になったら神を呪いますぜ、と抵抗しました。神は、それならヨブを不幸に目に遭わせてよい、とサタンにそれを許可しました。
ヨブに、とたんに不幸が立て続けに起こります。子どもたちを失い、財産が消えます。しかしヨブは神を呪いません。サタンは、ヨブ自身が痛めつけられていないからだ、と神に言います。神は、殺さぬ程度に痛めつけてよい、としました。サタンはヨブに、痛みではなく、たまらない痒みを与えます。痛みよりもつらいという認識なのでしょう。
ヨブは妻にも見放されますが、三人のに友人がヨブを訪ねて来て、慰めようとします。しかし1週間にわたり、かける言葉もなく佇んでいました。それだけ友情が深かったと思われますが、ついにヨブが口を開きます。するとこの友人たちは、ヨブが何かしでかしたからこういう目に遭ったのだ、と常識的な見解を示しました。ヨブはそうではない、と反論します。
実はこの三人の見解と、それに対するヨブの反論が、このヨブ記の大半を占めており、様々な神学を呈していると受け止められます。ユダヤ文化の中での表現や考え方がそこに潜んでおり、また原文の意味の理解も難しいところが多々あるため、解釈が困難であると見られています。現代人の私たちが理解しようとすると、本当にうまく整理できないものがあるように思います。
膠着した議論の末、どこからか突然、若いキャラクターが現れます。エリフと名乗りますが、これがヨブを説き伏せた、とまでは言えませんが、結局ヨブはもう神に反論できないまでに沈黙を強いられることになります。エリフは、まるで神の言葉のように語るのですが、とりあえず主張を終えます。そのとき、神がヨブに向けて、初めて口を開きます。満を持しての登場です。そして、ヨブに対して、神の創造の業の壮大さを次々と、多分にくどくどと、突きつけたのです。
◆降参
これを聞いて、ヨブはついに神に白旗を揚げました。本日お開きした聖書箇所は、その場面です。
1:ヨブは主に答えた。
2:私は知りました。/あなたはどのようなこともおできになり/あなたの企てを妨げることはできません。
3:「知識もないまま主の計画を隠すこの者は誰か。」/そのとおりです。/私は悟っていないことを申し述べました。/私の知らない驚くべきことを。
4:「聞け、私が語る。/私が尋ねる、あなたは答えよ。」
5:私は耳であなたのことを聞いていました。/しかし今、私の目はあなたを見ました。
6:それゆえ、私は自分を退け/塵と灰の上で悔い改めます。
これだけ言うと、ヨブは沈黙します。これまで長きにわたって冗舌に自己弁護などを繰り返していたヨブは、ついに降参したのです。この最後の言葉は、実に簡潔でした。もはや長広舌を披露することはありません。「私は知りました」と始まったとき、ある意味ですべてが終了していました。
聖書の文化では、「知る」という概念には、一定の約束がありました。それは、ただ頭だけの知識であることを意味せず、人格の奥底にまで到達して包みこむような、全人的な深い体験であることを意味していました。
ヨブが「私は知りました」と言ったとき、それは単に「分かりました」という口先だけのものではなく、ヨブという存在そのものがいま神を体験した、というようなところにまで達していたことになります。ヨブは神と出会い、それまでのヨブとはもう別のものに変えられた、とでも言えばよいでしょうか。
次に述べた「あなたはどのようなこともおできになり/あなたの企てを妨げることはできません」は、神の全能をいま知ったようにも聞こえます。裏を読むと、これまで神が全能であるとは信じていなかった、と解釈する人がいるかもしれません。でも私は少し違うだろうと思います。神の能力を問うていたのではないと思うのです。きっとヨブはただ、自分の考えをひたすら正しい、と見なしていたのです。神を信じるのは間違いないのですが、神を信じることにかけて、自分は正しい、という路線を、友人たちの責めに対して強固に言い張り続けていたのです。そしていま、そのような自分に気づかされたわけです。
ヨブは自分の思想をすべて引き下げました。それまでの自分に死んだも同然でした。そして新しく生まれ変わったかのように、神の前に頭を垂れるのです。それが、ヨブの「悔い改め」でした。
◆自分を神とすること
私たちの中にも、ヨブのように不幸に苛まれている人がいます。どうしてこんな目に遭わねばならないのか、と嘆く人がいます。突然の地震で家族を喪い、家が壊れ、二重ローンを覚悟で家を再建したところ、豪雨でその家が流された――制度としての救済の道はないわけではないのでしょうが、たまらない仕打ちです。仕事もなくなる、あるいは再開できないなどといった事態に、本当に絶望しかないような人も、多々いることが想像されます。
私たちには、何かのせいにしたくなる心があります。理不尽なことが起こったら、たとえば昔は先祖の祟りだの過去の因縁だのと、理由を作って少しでも納得したい心理があるかもしれません。が、それで解決できるものではありません。まして、他人が、あんたはこうだよ、などと言われることには、耐えられないことでしょう。
いやいや、自分にこんなことが起きてはならない。そんなふうに思いこみたくなる心理もあるかもしれません。こんなふうに自分を痛めつける神など、いるはずがない、と思いたくもなります。いったい神がいるものか、と嘆く人を責めることは、誰にもできません。
人には、自分なりの「神観」があるかと思います。「世界観」のような意味で、「神」をどう捉えるかという見方です。しかしこれについて、いまここで一つの解答を示そうというつもりはありません。それは、たぶん私にはできません。きっと、誰にもできません。その都度、なにがしかの神の姿を、出会ったときに分かった形で証しすることは可能ですが、自分にとってですら、「神とは……」という言明は、決して単純に定まるということはないと思うのです。
ただ、何かしら「理不尽だ」と思う出来事に遭遇したとき、この自分に起きるはずがない、と考えることには、警戒したほうがよいと思われます。自分は特別だ、という思いは、信仰の中で意味のあることもありますが、やがて自分には何でもできると思うようになったり、自分が真理を決めなければならないと思うようになったりするのは、危険です。
人類は、科学的思考と実験技術によって、この数百年、急速に文明を発展させてきました。「神は死んだ」ことにするなど、人類の知恵を謳歌しているのは事実です。人類は何でもできる。自分も人類だ。従って自分には何でもできる。そのような確信を得るようになってきていないでしょうか。創造主なる神を死んだことにしてまでも得たものは、自分が神だ、という結論であったようにも見えます。
それは、小規模ながら、ヨブの中にもこっそり紛れ込んでいた思いにつながるものであるかもしれません。尤も、ヨブにとり、神は生きていましたから、神を信じることにかけては自分に非はない、という方向で、自信を深めていたことになるのでしょうけれども。
◆まずは聞け
3:「知識もないまま主の計画を隠すこの者は誰か。」
ヨブは、神に突きつけられた言葉を反芻します。頭の中に響きます。「知識もないまま言葉を重ね/主の計画を暗くするこの者は誰か」(38:1)と言われたのでした。「言葉を重ね」のところは、ヨブ自ら省略しています。この「知識もない」ということから、この38章の初めから41章の終わりまで、神は延々と、神の業の偉大さを並べ立てたのでした。それに比べると、ヨブが知っていることは、なんとちっぽけなことなのでしょう。
ちっぽけな知識しかないのに、頭をもたげて、時に自分が神よりも偉大なふうに見栄を張るのが人間です。いえ、「知識もない」のは、正にこの私のことです。ハッと気づかされました。
3:そのとおりです。/私は悟っていないことを申し述べました。/私の知らない驚くべきことを。
「悟っていないことを申し述べ」ていたのは、ヨブのことではありませんでした。ヨブは、どう見ても架空の物語のキャラクターです。そのヨブに向けられていた言葉は、ヨブの物語を呼んでいる、この私へ向けて語られていただけのことです。私が読んでいるときには、読み手は私しかいません。私に向けられた言葉なのです。そう、よく知りもしないことを、知ったかぶりをして、偉そうに喋っていたのは、逃げも隠れもできないいまのこの私にほかなりません。
4:「聞け、私が語る。/私が尋ねる、あなたは答えよ」と神が言ったかのようにヨブは言っていますが、これは「ヨブよ、耳を傾けて/わたしの言うことを聞け。沈黙せよ、わたしに語らせよ」(33:31)と言った、あのエリフの言葉を受けているようにも感じられます。ヨブにとり、エリフは、友人ではありませんでした。突如として現れた若い論者です。ヨブはそこからの言葉を、神の言葉として受け止めることができました。
礼拝で語られる説教者の言葉は、神の言葉である。そのように考えた説教者がいました。それは、自分の語る説教が立派なものだぞ、と言いたいがためではないのだと思います。自分もまた、そのように神の言葉を語るに相応しい使者になろうと努め、またなりたいと願いながら、恐れ戦きながら取り次ぎをしているのだ、という祈りの中での、ひとつの決意のようなものではないか、と思います。
神は「聞け」と言うのです。申命記を思い出された方がいるでしょうか。申命記で5度、神はイスラエルに向けてそれを告げています。もちろん、モーセが代弁している形になっていますが、その最初はこうでした。
さて、モーセはイスラエルのすべての人々を呼び集め、彼らに向かって言った。「聞け、イスラエルよ。私が今日あなたがたの耳に語る掟と法を。これを学び、守り行いなさい。(申命記5:1)
ヨブか受けたのは、「聞け、私が語る」という神の声でした。主こそ語る者です。人は、それをただ聞く者に過ぎません。いえ、それは当たり前のことなのです。当たり前のことをヨブは理解したのだ、というわけです。
旧約聖書でも、神の声を聴くという場面はいろいろ描かれています。それは、最初に挙げましたように、神を見た者は命がないと恐れられていたことと関係しているかもしれません。
ヤコブは、「私は顔と顔とを合わせて神を見たが、命は救われた」と言って、その場所をペヌエルと名付けた。(創世記32:31)
マノアは妻に言った。「私たちは神を見てしまったから、必ず死ぬことになる。」(士師記13:22)
ほかにもモーセが顔を隠した例がありますが、とにかく「神を見た」という言葉は、人間と神との関係においてタブーでしたから、神からのメッセージを受けたとき、「神を見た」ことにはしなかった可能性があるかと思います。
だとすると、あの「天使」という存在は何なのでしょうか。私は冒険的な夢を見ます。ひとは、実は神の声を聴いたとき、ある意味で神を見ていたのではないか、と。そして、神を見たとなると何故生きているのかを説明しなければなりませんから、見たものは神そのものではなく、天使という存在だったのだ、というふうに証言したのではないか、と。もちろん、これは夢物語です。どうか眉に唾をつけてお聞きになりますように。
◆そして、見よ
繰り返しますが、ヨブとは特定の誰かではありません。そこで私は読みました。ヨブ記をひとりで読んでいるとき、ヨブは読んでいる自分自身にほかならないのではないか、と。いまは教会という中で、皆さまと一緒にヨブ記を読んでいますから、私も、そして皆さまも、あなたもまた、ヨブのことです。
思えばこのヨブ記、最初から不幸に見舞われたヨブを、私たちは少しばかりハラハラしながら読んでいました。筆舌に尽くしがたい不幸なことが連続したヨブでしたが、ハラハラは少しばかりでした。自分の親族や友人に対するような気持ちは起こらず、どこか突き放すように、「物語」の中の人物という程度にしか見なしていませんでした。ヨブは、舞台で演じる俳優のようでした。ヨブの身の上に起きた出来事は、お話の中でのことであり、見物をしていて、せいぜいカタルシスや感動を味わう程度の、観客のようにして眺めていました。
けれども、ヨブは私でした。自分が、その舞台の上の当人であることを、知らされてしまったのです。
それが、「信仰」の働きなのだろうと思います。そしてまた、このヨブという主人公もまた、自分は「信仰」があるものと自負していました。自負が悪いわけではありません。神のことを、自分なりにですが、分かっていたはずです。神の言葉を聞いている、神のことを知っている、そういう「信仰」があったわけです。そう、いまの私のように。私たちのように。
5:私は耳であなたのことを聞いていました。/しかし今、私の目はあなたを見ました。
ヨブは聞き知っていたのとは違う体験をします。今、あなたを「見た」と告白しました。クリアな形で、神を「見た」というのです。
6:それゆえ、私は自分を退け/塵と灰の上で悔い改めます。
これは、主人公のヨブが自分である、と気づいた人すべてが、このように言う必要のある言葉でありましょう。救われるために、口から告白すべき言葉でありましょう。
◆「見える」から「見た」へ
先週のお話を覚えておいででしょうか。目が明るければ全身が明るい、というように、「見る」ことに特化した形で、神との関係を知ることへと導かれたのでした。私たちは先週既に、「見る」ことの大切さを噛みしめていたことになります。
それによって、私たちは神を見ているという気持ちになったかもしれません。でも、少しだけブレーキをかけましょう。もう「見える」のだよ、と胸を張るのは、ヨブの例からしても、拙いことではないでしょうか。
もはや長くはご説明できません。有名な、ヨハネ伝9章のエピソードです。生まれつき目の見えない人の目を、イエスが見えるようにします。目が見えなくなっていたのは、誰かの罪のせいではない、神の栄光の示されるため、という美しい指摘がそこにありました。しかし、ファリサイ派の人々は、この出来事が安息日に行われたことで、神の業ではない、と非難します。当人を呼んで問い質しますが、気に入らない返事をするので追放します。その人は再びイエスに出会うと、イエスに対して「主よ、信じます」と応えました。この続きをいまお開きします。
39:イエスは言われた。「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
40:イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
41:イエスは言われた。「見えない者であったなら、罪はないであろう。しかし、現に今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る。」
追放した者のところにファリサイ派の人々がまだ追いかけてきているのはよく分かりませんが、ともかくイエスは大切なことを彼らに突きつけます。「今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る」と言うのです。もちろん、ただの視覚のことを言っているのではありません。自分には何もかも分かっている、という自信、さらに言えば自己義認のようなことを指す、と理解してもよいかと思います。
自分の能力を誇ること、それが「見える」という言葉の示すところでしょう。「今、『見える』」と言うことは、イエスの前に退けられるのです。
私たちは今日、ヨブ記の結末のところを見ました。正に私たちは「見た」のですが、ヨブもまた、「今、私の目はあなたを見ました」と言ったのでした。「見た」とは、自分が知っている、という自負を含むものではありません。それまで知らなかったことが、外から知らされることを意味します。自分の中にはなかったものに、いま出会ったこと、新たに覚ったことをいうのです。
「見える」と「見た」の差は、とても大きなもののように思われます。
神を見た者は死ぬ。そう言い伝えられていました。しかし、ヨブは「見た」と言いました。網膜に映し出された、と理解しなくてもよいのです。神と出会った、神を知った、その瑞々しい体験がここにあるのです。神の声を聴く、そして神と出会う。どちらも大切です。どちらも、ひとに命を与える、大切な出来事であるのです。