猫の日
2025年2月21日

店舗には、猫のグッズが多く並んでいる。ニャンニャンニャンとの洒落から、2月22日が猫の日とされている。当然、日本だけの取り決めである。節分が商戦としての力をもちえなくなった中で、バレンタインデーが2月の経済に刺激を与えているが、猫の日も地味ながら貢献していると言えるかもしれない。
いわゆる野良猫となると、それが民家に来るのは、迷惑なことだろう。野良猫に餌をやらないで、という張り紙も見る。猫がそこにまた来るようになるため、その家の人としては切実なのだろう。無責任に可愛がる側の良識が問われることになる。
地域猫という世界も、それと紙一重である。一応公的に認めるという手続きはあるものの、公園に住まわせていたとしても、猫の世界に区域制限はきない。近所の家の軒先も訪れることがある。幸い、そこでも可愛がられていた、という話はあるが、行方不明になってしまう猫もいる。
地域猫として野生状態で保護されるのは、基本的にさくら猫と呼ばれる、去勢手術を施した猫である。耳の先をカットして、それと知らせるのである。子猫を産むことには関わらないわけだが、そうでないと、野良猫はまた増えてゆく。嫌な言葉だが「殺処分」される猫は、一時間に一匹の割合と計算されるらしく、その半数以上が子猫であるという。
その「殺処分」を、福岡県も実質ゼロにしたというニュースがあったが、多くの県がそれを目指しているというのはありがたい。「動物保護」が法律にもなっている中で、「殺処分」とそれがどう結びつくのか、私には難しくてよく分からない。
地域猫活動をバカにする人もいる。揶揄して高笑いをする人がいる。直接迷惑を被っている人ではないようだった。どういう考え方をするのかはもちろん自由だが、それなりに考えて行動している人を、批判なら批判でよいのだが、嘲るというのは、また別問題であろう。簡単にそれができるツールがある時代では、玉石混交の声が飛び交う中で、結局その人の人間性とでも言うべきものが現れる。
猫が可愛いから、護る。それも大切な要件だろう。同じ命を同じ時、同じ場所で受けて共に出会った動物へ、情を懐くことを悪し様に言うことはできまい。だが、猫なら護るが、鼠は駆除するのか、ゴキブリはどうなのだ、そう問われてくると、線引きができるものではないかもしれない。
もっと人間のほうを助けろよ。そう言われても仕方がない。災害に見舞われたところへは、ほんとうにささやかだが、何かの足しに、という気持ちはもっている。その中で、気づいて援助する人が少ない場面では、自分が献げる価値は、小さくないかもしれない。そのような思いでいる。出会ってしまった猫たちだから、関わるということになる。
コロナ禍で、医療現場は謂れのない差別を受け、また精神的に叩かれた。猫たちがいなかったら、それを乗りこえることが難しかったかもしれない。それだけでも、関わった意味があるものとしてはならないだろうか。
グッズもいいが、生きている者たちとの関わりである。