「よい」とは何か

2025年2月19日

「穴を掘る」「湯を沸かす」という言い方は、素直に読むと奇妙な表現である。「土を掘って穴にする」のであり、「水を沸かして湯にする」ことを意味する。目的を先取りする言い方は、通常の論理では説明できないかもしれないが、言葉の使い方としては問題はない。
 
日本語では、温度により相対的にだが、「水」と「湯」という呼び方を区別する。英語だと、「湯」をも「water」と呼んでも差し支えはないらしい。日本語だけがそうなのかと思うと、英語にも「dig a hole」と同様の使い方があるようで、どうやら人間は広くこうした表現をとるものらしい。
 
しかし、日本語でも、「水」を「物質名」として使う場合、たとえば「理科」の話をするときには、「100度の水」と呼ぶ。それどころか、日常語で「氷」や「水蒸気」と呼んでいる状態でも、物質名としては、それらは「水」である。つまり、日常語の「水」は、物質名としての「水」の「液体の状態」を指していると見られるが、さらに言えばその中でも比較的低温のものを「水」と呼んでいるという、ややこしい情況がある。
 
「天気がよい」と私たちが言うとき、通常それは、晴れている様子をいう。この「天気」は、「天候一般」を表す広い概念と、天候のうちの「晴れ」や「快晴」のみを指す狭い概念と、私たちは日常的に使い分けている。わざわざこうは言わないが、「今日の天気は天気がいいね」と言っても、意味は伝わることだろう。
 
同じ語が、「天候一般」のような上位概念として用いられる場合と、晴れ・曇り・雨などとある中での「晴れ」という下位概念だけを表す場合とが、日常的には混在している。それでも、私たちは通常それで混乱することはない。
 
ただ、天気の場合、「よい」という言葉をただの記号として使う場合は差し支えないかもしれないが、「よい」という言葉に意味をもたせて捉える場合、不都合かと思われる場合がある。日照りが続く地方で、今日もカンカン照りだというときに、「天気がよい」という言葉を使うのは憚られることだろう。そこでは、雨が降った場合こそ「よい」という価値判断が使われるべきであり、晴れていることは「わるい」ことにほかならないからである。
 
では、たとえば台風が来る場合のことを考えてみよう。私たちはよくこのように考える。「どうか逸れていってくれ」と。そして、自分の住む地域を逸れていくと「よかった」と称するものである。だが、ここを逸れていった台風は、今度は別の地域を通過するのであり、そちらの地域の人々にとっては、とても「よかった」とは言えない情況になるだろう。「台風がここを逸れてよかった」という言い方が、残酷に聞こえる地域もあるわけだ。
 
また、台風が来ないと、水不足になる、というような場合も想定される。確かに暴風雨は怖いが、それがあってこそ年間降水量も保たれる、という可能性もあるだろう。このとき、台風がすべて逸れてしまうのは、「よい」ことにはならない、とも言える。
 
古代エジプトでは、ナイル川の氾濫が沃土をもたらしたとも言われる。定期的な反乱を知るために暦の情報が貴重だった、とも聞く。その氾濫を予め想定内に置いておくことによって、氾濫が肥沃な土壌をもたらすことを「ナイルの賜物」とさえ呼ぶことができたのである。
 
日本の川が氾濫すると、住む人が困る。川の周囲には人が住まないほうがいい、などと言い始めると、平野の少ない日本では、人の住むところがなくなる。川は交通の道でもあり、生活水の補給口であったから、氾濫を食い止める方策をとるようにしなければならなかった。
  
堤防を築く。それでもどうかすると氾濫する。治水土木の知恵と技術が発展する。コンクリートにしたところで水害がよく起こる現代である。近世以前は大変だったことだろう。
 
そもそも川の形は、堆積土砂により変化するものだ、と小学校の理科で学ぶ点も思い起こしたい。カーブの内側では流速が遅く、外側では流速が速い。そのため内側に堆積物が溜まり、自然の川は蛇行する形に変形するのである。否、それは人が住む以前の自然の営みであって、人間が川の力に住むようになってからは、容易に川が変形してもらっては困る。コンクリートで固めるのは、人間の生活のためには当然のことだった。
 
コンクリートの側溝ですら、元来そこを渡っていた小動物にとっては、死の絶壁となるくらいである。コンクリートで固めた川は、産卵事情を変えてしまうなど、そこに棲んでいた生物が生きるために支障が出る。すると、生態系が変化することは避けられない。
 
また、小規模の水の溢れを許していた時代と異なり、少しの溢れも許すまいと固めた川は、今度はその限度を超えての氾濫がひとたび起こると、激しい水量の土砂が近隣を押し流してゆく被害をもたらすことにもなるだろう。
 
私たちは、自ら設定した目的のためには「よい」と思って知力を使うが、単純にそれで「よい」という結論がもたらされるわけではないようだ。何が「よい」ことなのか分からない、と誠実な人が嘆くことがあるが、実際、その通りなのである。せめて、「よく生きる」ことこそ哲学のベースだ、というソクラテスの言葉を、自分に厳しく問うことくらいは、大切にしておきたい、とも考えるのであるが。



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