【メッセージ】信じられて信じる
2025年2月16日

(ガラテヤ2:15-21, 箴言20:6)
しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。(ガラテヤ2:16)
◆ペトロに立腹していた
15:私たちは生まれながらのユダヤ人であり、異邦人のような罪人ではありません。
かなり物騒な発言から始まりました。「異邦人」というのは、ユダヤ人にとり「外国人」のことです。いっそ「外国人」と訳しておけば、さらに生々しく伝わったことでしょう。
ガラテヤ書のこの箇所は、信仰者にとり非常に大きな意味のあるところです。しかし、ここだけでなく、ここに至る背景についても、理解しておきたいと思います。
パウロがこのような暴言めいたことを吐いたのは、ペトロへの不満を述べた流れからでした。なお、ここではペトロのことを多くの場合「ケファ」と呼んでいますが、前者がギリシア語、後者がアラム語であり、意味は同じ「岩」のようなものです。本名は「シモン」といいます。ややこしいので、ここでは基本的に「ペトロ」と呼ぶことにします。
パウロは、ペトロに怒りをぶつけていました。異邦人伝道を使命としたパウロでしたから、ペトロが我慢ならなかったのです。とはいえ、ペトロが異邦人伝道に理解がなかったわけではありません。使徒言行録10章には、カイサリアの百人隊長コルネリウスとペトロとの関わりが描かれてあります。コルネリウスは天使の御告げを聞き、ペトロは不思議な幻を見せられました。それで二人は出会い、ペトロは、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どの民族の人であっても、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(使徒10:34-35)と気づかされるのでした。
これは、パウロが異邦人伝道を始めるのに先立っての出来事のように記されています。その後パウロが、いろいろなことを経て異邦人に福音を伝える使命を受けてからは、ペトロのこの変化は、心理的に味方になってくれる、という期待を背負わせたのではないかと推測されます。
でも、このガラテヤ書では、パウロはペトロに文句を言っています。この手紙が、ペトロの目には留らない、とでも思ってたいたのでしょうか。手紙というものの影響はよく分かりませんが、ペトロの耳にこのことは入ってくるだろうと思うし、もしかするとパウロは、ペトロに聞こえることを想定して書いているのかもしれない、とすら私は想像しています。
11:ところが、ケファがアンティオキアに来たとき、責めるべきところがあったので、私は面と向かって非難しました。
12:というのも、ケファは、ヤコブから遣わされた人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼を受けている者たちを恐れ、異邦人から次第に身を引き、離れて行ったからです。
ヤコブは、当時教会の中心人物の一人でした。エルサレム教会のトップではないか、とも見られています。異邦人と一緒に食事をするほどにペトロは自由でいたのに、ヤコブの使者が来るなり、そそくさと異邦人から離れたというのです。ペトロのこの表裏のある態度が、より悪質だとパウロには見えたのかと思います。異邦人の救いの建前をとりながら、お偉いさんに向けては媚びるような姿勢をとったことを、欺瞞と見たであろうことは、想像に難くありません。
いまだカノンとなる聖書が確立していなかった時代です。信仰の拠り所が定まっていなかった中で、異邦人問題は、生まれたばかりの教会にとって、未解決の問題だったのですが、だからこそパウロの考えと対立するものがありました。パウロはペトロに面と向かって言ったのです。
14:「あなたは自分がユダヤ人でありながら、ユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のようになることを強いるのですか。」
◆割礼の問題
異邦人に強いるというのは、割礼の問題でした。それは他の教会の会議に於いても議題となり、教会を揺るがす大問題となったであろうことが、使徒言行録から窺えます(15章)。キリストの救いは、ユダヤ人に向けてのものだった、と限定していなかったかもしれませんが、ユダヤ人というアイデンティティは、あまりに長い間、「割礼」というものによって成り立っていました。もう当たり前のことのように、「ユダヤ人=割礼」という図式がそこにあったのです。
常識だったこのことから、キリストの弟子たちとて、自由にはなれなかった様子でした。嗤うことはできません。教会の音楽はオルガンに決まっている、と主張する古株が幅を利かせていた教会もつい最近までありました。神学校を出れば牧師として説教ができる、という思い込みは、いまも普通に広まっています。誰しも、同じような中にいると考えられます。
しかしパウロは、割礼によらず救われる、と確信していました。パウロ自身はもちろん割礼を受けています。しかし、そこに縛られずに、福音というものを捉えていたのですから、これはやはり福音理解としては適切であったものと見てよいでしょう。
内心、異邦人も救われることをはっきり信じていながらも、権力ある立場の者から割礼が必要だと言われたら、すごすごとそちらに従う。ペトロのそういうところが、パウロは我慢ならなかったのでした。だから、それと同様に、ガラテヤ教会にまでやってきて、割礼が必要だと告げてきた者を、このガラテヤ書では、とことん嫌い、批判しています。ガラテヤ書は、基本的に、そういう手紙なのです。
はっきり名指しにしてはいませんが、この手紙の流れからすれば、ガラテヤ教会に圧力をかけてきたのは、ヤコブの一派でしょう。本当の救いはこうなんだよ、とお節介に言ってきたのでしょうが、パウロからすれば、実に苦々しく、福音というものの理解のためにも、完全に敵視すべきものでした。
もちろん、ユダヤ人にならねばイエスの弟子にはなれない、救われない。そのような救いの条件を、いま私たちはないものとしています。結局は、パウロが勝ったのです。しかし当時のパウロとしては、気が気でならなかったことでしょう。
このパウロの強い信念あるいは信仰は、律法を守ることで救われる、という考えを否みました。これを当時の言葉で「義とされる」と書いています。「義とされる」とはもちろん「正しいとされる」ということです。神により、罪がない、と判決を下されるようなことですが、実質これを私たちは、「救われる」と呼んでよい場合が多々あります。
◆信仰が真実になった
15:私たちは生まれながらのユダヤ人であり、異邦人のような罪人ではありません。
16:しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。
これで、最初の衝撃的な発言が、少し呑み込みやすくなりました。ユダヤ人は割礼を受けているから、割礼という律法を守っていることになる、ということが言いたかっただけのようです。「罪人」というのは、ユダヤの律法に照らし合わせて違犯している、という意味に受け取ってよいだろうと思います。
ここでパウロは、特にプロテスタント教会には教義上強い支えとなる、大切なことを発言しています。「行い」によって救われるのではない、というのです。そして、教義からすれば、そうではなく「信仰による義」つまり「信仰によって救われる」ということを言っていたはずでした。
しかし聖書協会共同訳は、大胆な変革をなしました。「信仰による」とは書かれていません。「イエス・キリストの真実による」というのです。さらに「キリストの真実によって義としていただく」とまで言っています。
以前の聖書には、このような書き方はなされていませんでした。「イエス・キリストの真実」という部分は、新共同訳聖書では「イエス・キリストへの信仰」でした。これはまだ実は新しい感覚でした。「への」という感じが、原文をよく伝えているからです。その前の口語訳では、「キリスト・イエスを信じる信仰」となっていました。「イエス」と「キリスト」の順番は、写本によるものですから大した違いとは言えませんが、「信じる」という、原文にはない言葉を補っています。これは新改訳聖書も同様で、第3版までは「キリスト・イエスを信じる信仰」というように、口語訳と同じでした。これが新改訳2017では、語を足すことなく、「イエス・キリストを信じること」(2017)と工夫されています。
何故「信仰」が、今回全く異なる「真実」という語に換えられたのでしょうか。これは、従来のこの箇所に関する説教をすべて書き換えるほどの、重大な変更です。その背景を、少し細かな言葉の検討になりますが、日本語と比較しながら、少し触れてみようと思います。
◆の
ギリシア語原文は、少し語順が入り組んでいますが、当該箇所は、「によって(を通じて)」「ピスティス」「キリスト・イエス」の順に語が並んでいます。日本語の助詞の働きを担いつつ、ギリシア語には「格」という考え方があり、「ピスティス」は、「によって」につながるための「属格」をとっていますが、「キリスト・イエス」もまた「属格」です。これは、日本語で言うならば「キリスト・イエスの」の働きをなし、「ピスティス」にかかるようになります。
言い遅れましたが、「ピスティス」というのが、「信仰」または「真実」と、どちらにも訳せる語なのですが、いまはそれは措いておき、「キリスト・イエスの」の「の」の方にしばらく注目することにします。「属格」は、概ね日本語の「の」に相当する、と理解しておきましょう。
そこでいま、日本語の「の」のほうに拘泥することにします。これは、小中学校の日本語の文法でも扱うところで、そこでは、いくつかの「の」の働きの区別を知ることになっています。実は数多くの用法があるのですが、義務教育で考えさせる「の」の用法は、おもに四つあります。
一番大切なのは「主格」の「の」です。「が」と置き換えることが可能な「の」であって、古文では特に「の」と言っていたのを、現代語では軒並み「の」に直してしまいました。「雨の降る日」は、「雨が降る日」の方が当たり前のようになっています。こういう「の」です。
他に「もの」「こと」の代用となる「赤いのがいい」というようなものがありますし、「兄の一郎です」というように、「兄」と「一郎」が同一であることを示す「同格」と呼ぶ働きがいます。そして、普通使う大部分の「の」は、所有や属性のようなものを表す働きです。
しかし、国語の時間にはあまり検討されませんが、「AのB」というとき、先ほどの例の「雨の降る」のように、AがBの主語になる場合と、AがBの目的語になる場合とがあることに、いま注目しなければなりません。前者は、「の」は「が」に変わることで説明をすることができました。ところが後者では、「荷物の運搬」は「荷物を運搬すること」ですし、「荷物が運搬する」ではありません。「野菜の出荷」は、「野菜を出荷すること」です。「の」が「を」に変わることで説明される場合があるのです。
これが果たして西欧語でも同様に成り立つかどうか、というと、やはり似たような場面があるようで、ときに意味が曖昧になる場合があるようです。これを、先ほどの「キリスト・イエスの信仰」に適用してみると、形の上では、「が」なのか「を」なのか、区別することができない、とする捉え方があることになります。
先に「を」の方を挙げますが、「キリスト・イエスを信仰する」という読み方と、「キリスト・イエスが信仰する」という読み方とが成り立つことになります。いくら何でも、「キリストが信仰する」はおかしいだろう、と私たちには思われます。しかし、この「ピスティス」は必ずしも「信仰」と訳す語ではないのです。事実、聖書の中ではこれが頻繁に登場し、「信仰」のほかに「信頼」や「信用」、ときに「真実」のような意味の言葉に、文脈により訳し分けられているのが実情です。
英語の「life」を、私たちは文脈により、「生活」「生命」「人生」のように訳し分けます。それと同様に、「ピスティス」も訳し分けられるのです。いまの例の「life」には、漢字の「生」のニュアンスがあるように見えますが、「ピスティス」だと、漢字のエッセンスは「信」でしょうか。「信仰」や「信頼」、「信用」と、「信」の字が付く言葉で訳し分けられるわけです。そしてここで「真実」と訳したところも、わざわざ「信実」とした聖書もあります。
これで、あの箇所の訳し方が変わった様子が、少し見えてきました。「キリスト・イエスを信仰すること」と、「キリスト・イエスが信頼すること」と、可能性が分かれたのです。そして、その分かれた可能性に沿って、別の解釈がそこにあり得ると認められてきたのだ、と言えます。それが近年の聖書研究と解釈の中で盛んに言われ始めたことがあったため、聖書協会共同訳では、思い切って後者の意味合いをもたせる方を表に出して優先させた、ということのようなのです。
◆信仰すること
「キリスト・イエスを信仰すること」は、キリスト者は昔から馴染んでいます。いままですべてのおもな訳がそうなっていました。そこへくると、「キリスト・イエスが信頼すること」は、少し奇異にも思えます。そこに隠されている目的語は「人」のほかにはありませんから、キリストが人を信頼することで人は救われる、というふうな文脈になるでしょう。でもまだしっくりきません。日本語で理解しづらいのです。そのためか、今回の訳では「キリストの真実」としたのではないか、といま推測しておくことにします。
キリストは人のためにその命を棄てました。こうすればようやく人は神を信じてくれるだろう。命を懸けた真心を、そこにぶつけてくださったのです。神の真実を、筋を通した救いの道を用意してくださったことで、神に背を向けた人間でも、救われる方法が与えられた、とするのです。そうなることが無駄骨ではなく、きっと人は応えてくれるだろう。そのように、人を信頼したというわけです。
けれども、まだこれで十分なわけではありません。人はなかなかイエスを信じないのです。
しかし、前にも言ったように、あなたがたは私を見ているのに、信じない。(ヨハネ6:36)
このように「あなたがたは信じない」という言葉は、特にヨハネ伝で厳しく繰り返されます(5:38,8:45,10:25,10:26,16:9)。ユダヤ人に向けて放たれることが多く、そのためか、後世のユダヤ人差別につながったとも言われることがありますが、それはまた後の人間のことと理解したいと思います。
ただ、「あなたがたは信じない」という言い方は、「他に信じる者がいる」ことを含意している、とも考えられます。ひとつの否定は、他の肯定を隠していることがあるからです。その「信じる者」をキリスト者に期待していることは、間違いないでしょう。
キリスト者とは、イエスをキリストだと信じる者のことを言います。だから、「キリスト者」がイエスを信じている、というのは当然のことで、見方によってはトートロジーに過ぎません。キリスト者とされた私たちは、如何にしてイエスを信じるようになったのでしょうか。
それが、この「キリストの真実」に基づくものであることを、パウロから聞きたいと願います。
16:しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。
「キリストの真実によって義としていただく」ことを、従来のように「キリストを信仰する」ことを読んでいたまま、私たちの気持ちが前進するばかりであったらどうでしょう。私たち人間が「信じる」という、私たちの側の「心の業」によって、私たちが救われる、と言う方に熱心になっていったらどうか、ということです。それは、私たちの一種の「行為」だとは言えないでしょうか。このとき、私たちの信仰が私たちを救う、のように思い違いをするかもしれません。
しかしイエスは、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉を、癒やしの業を示したときに、何度かかけています(マルコ5:34,10:52,ルカ7:50,8:48,17:19,18:42)。するとやはり、「キリストを信仰する」ことが救いの基本なのでしょうか。私はその一面があることを否む理由はないと思います。でもまた、パウロはそれだけを言っているのではない、とも思うのです。
◆愛されて愛する
子どもに愛を注ぐ親の姿は、微笑ましく思えます。そうやって愛される経験を十分受けてきた子どもは、きっと将来、人を愛することが豊かにできるでしょう。とはいえ、あまりこのことを言い過ぎないようにもしたいと思います。それではまるで、不幸な境遇で育った子どもが、人を愛することができなくなる、というようにも聞こえるからです。暴力を受けてきた子どもが、いつか親になって、また子どもに暴力を揮うことがある、という話を聞きますが、それがすべてではないだろうとも思います。厳しい環境にあった人だからこそ、優しくなれるという場合もたくさんあるからです。
悪い偏見を生むことに加担はしたくないのですが、他方、たくさんの愛を受けて幼少期を過ごすことは、確かに大切なことだ、と考えられています。そうして「世界は信用できるのだ」ということを、全身で学ぶのだ、というのです。
そこで、あいつなんか信用できない。そのような目に遭った相手を、健気に信頼し続けることが、私たちにできるかどうか、と問うてみるわけです。話すのも辛いことですが、小さな子どもは、親をそのように信じることがあります。あるいは、きっと信じるものです。子どもを虐待する親がいます。でも子どもにとり、その親が信頼すべきすべてであるのです。裸で寒い外に出されても、食べ物が与えられなくても、親をただ信じます。痛くて辛くても、我慢します。むしろ、罵声を浴びる中で、自分が悪いからこんなふうになったのだ、と自分を責めることさえする、と言われることもあります。
そうやって死んで行った子どものことを、果たしてそのように説明してそれでよいのかどうか、それさえも、私には分かりません。本当はどうだったのか、知る術もありません。間違った想像なのかもしれないことを危惧した上で、遠慮がちに言うつもりです。
私が神を信じることができたのは、神に愛されたからだ。私を愛しもしなかった神を、信用するほどの健気さは、私にはないのだ。そのように、囁いてみます。
イエスに愛された。むしろそのことを、長い間知らなかった。知ろうともしなかったし、気づきもしなかった。ただ、何かのきっかけで――それは私にとって特別な事件であったことはきちんと説明できますが――、愛されていたことを知りました。
救いの経験とは、そこにあるのではないでしょうか。私の経験を普遍化するほど厚かましい気持ちにはなれません。ひとには様々な形で、神との出会いを経験することがあるでしょう。それぞれに、イエスをどう知るか、その可能性が多々あるのだろうと思います。それほどに、神は豊かな可能性に満ち、正に「なんでもできる」のだということも信じます。
それほどに、まずはイエス・キリストが私たちを信用してくださった、そのことが大きいのです。イエス・キリストは真実なお方なのです。パウロは、そのことも必ずや分かっていたのだろうと思います。
私の確信は、こうです。「キリスト・イエスの信」というこのフレーズには、まずキリストが私を信頼してくださり、愛していた事実があることと、それから、その呼びかけに応じて私もまた神を愛する道が拓かれたことと、その両方をも含んでいるのだ、と。パウロもその両方に気づいており、そのどちらをも含むような表現を、ここに提示したのではないか。私はそう思うのです。
◆キリストが内に生きている
同じガラテヤ書の6章に、これもまたよく知られた言葉があります。割礼にこだわる者たちが、ガラテヤの人々に割礼を受けさせて、それを誇りたいと言っているのとは対照的に、自分は違う、とパウロは言うのです。
しかし、この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この方を通して、世界は私に対し、また私も世界に対して十字架につけられたのです。(ガラテヤ6:14)
パウロは、自分のことを誇ることを極力避けた人でした。典型的なエリートで、頭もよく、元来地位もあったパウロでしたが、イエス・キリストに出会う体験をしたことから、人生が180度変わりました。そのとき、キリストのほかには誇るものが何もない、と言えるようになったのでした。
私はもちろんパウロのように偉くはありません。才能もありません。しかし、思い上がっていた点に於いては、パウロと同様でしたから、その言っていることの気持ちは少しは分かるつもりです。自分には、宣伝できるような才覚も誇りも何もないのです。
6: 自分の親切を言い触らす者は多いが/真実な人を誰が見いだせようか。(箴言20:65)
この箴言には、自分の手柄や善いところを宣伝しようとする者はいくらでもいる、とまず告げています。そこに私はかつての自分の姿を見ます。しかし、「真実な人」に出会いました。その人のことが「真実だ」と分かったのは、私自身が徹底的に破壊されたときでした。
パウロの視野からすれば、律法により自分の罪を知ったときです。パウロでは、自分が律法に死んだ、という言い方ができました。そして、その罪を十字架のキリストが引き受けたのだ、と捉えました。私が十字架のキリストを見たときには、ユダヤの律法というフィールドではありませんでしたが、その十字架に、自分が架けられているという体験をしました。そこは自分の死に場所だったのだ、と分かったのです。このとき、私はキリストの愛を受けました。
私はそこに死んだ、と知りました。ところがまた、そう思った私は、いまここに生きています。では、いまここに生きている私は、何者なのでしょうか。その生きている理由は、十字架のキリストというよりも、復活のキリストの故でありましょう。復活のキリストの命が、私に命を与えたのです。
いまこうして生きていることさえ、キリストが復活したからです。そして、キリストが私を信頼したから、愛したからです。私がキリストを愛するだろうとの信頼があったのだ、と知ることにより、私はキリストを愛するのだ、と言えます。
パウロも、それと近い思いだったのではないか、と思います。もし違ったとしても、私はパウロの言葉から、キリストとそのような出会い方をしたことは確かです。キリストが死んで復活したから、そしてそのような信じ方をしているからこそ、神に生かされて生きてゆけるのです。
20:生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。