外から注がれてくる

2025年2月15日

学習塾が、子どもの居場所になってゆく。良いことなのか悪いことなのか、判断はしまい。子どもたちに、夜出歩かせるようにしたのは、学習塾である。だがそれは、地域の狭い学校社会から外への風穴を空けることには役立った。
 
別の学校では、そうなんだ。ちょっとした情報が、息苦しさから開放することもある。自分だけで勉強していると気づかない、新たな世界に目を開かれることもある。「学習のスタイル」というものもそうだろう。ノートの取り方や、附箋の使い方など、ひとのを見ると、ハッとさせられることもあるのだ。英単語の覚え方や、プリントに向かう姿勢やペースなども、大いに刺激になるだろう。自分では気づかない、よい情報が、自然と注がれてくる。もちろん、塾の授業というものも、そういう場である。
 
他方、塾では授業の課題が一方的に示されるばかりで、それに従ってただついていけばよい、ということになるのも普通だ。自分から事を始めるという気概に乏しくなる懸念もある。やらされているままになって、自分で何をしてよいか、分からなくなるようになるかもしれない。高校への志望理由として、「自立」というものを求める心理が働く背景に、そういうのがあるのかも、とも思う。
 
信仰の姿勢にも、それと比較可能なことが言えるような気がする。なんとなく教会に来て、さみしさを紛らわすという人もいる。教会の言うことに従っておけばよいのだ、という気持ちで、教会生活を続けているわけだ。
 
それだけならまだいい。関心があるのは、聖書ではない。誰かに自分の話を聞いてほしい、それだけのことさえある。自分の知識をひけらかして、自尊心を満たすタイプもいる。他人から尊敬されたい、そういう根っこがある中で聖書の話を聞いても、自分の都合の好いようにばかり聖書を利用する、ということになる。
 
人を見に、教会に行く、という可能性もある。風に揺れる葦を見に行くようなものかもしれない。それでも、そこが自分の居場所だ、という気持ちで、満足感はあるものだろう。
 
他方、教会には、人を見に行くのではない、という根柢のところがはっきりしている人もいる。聖書への付き合い方は、頼りないかもしれない。祈りの方法も、自己流であるかもしれない。賛美についても、指示されることには従わないかもしれない。けれども、それで神が何か喜んでくれそうな小さなことを、大切にしたい、という思いが優先している人である。自分の力を活かせることは何か、というところにも目を留めているようである。それが自分にできることであれば、という思いから、神を見上げて、何かをする。
 
自分に与えられた才能が、教会で活かせるならば、幸いであることだろう。でも、それだけではない、とも思う。何かをするのでなくても、何もできなくても、あなたはいつも神の前にいる。慌てず、騒がず、神のいる場に、あなたの居場所がちゃんとある。そこで、素晴らしい出来事が起こるのだ。
 
ただそこで、自分がからっぽになったら、そこに溢れんばかりに、神から何かが注ぎ入れられることになる。神は、そういうお方なのである。聖書からは、そのような光が射してくるように私は感じている。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります