情けは人のためならず

2025年2月13日

脈絡は説明を遠慮するが、高校生が、「利他の精神はどうして必要だと思う?」との質問を受けていた。授業ではなく、もっとラフな問いかけである。彼は答えた。「人のために何かすることですね。そうしたら、自分にもよいことがあるのだと思いますよ。」
 
近くにいた私が尋ねる。「そのことを教える諺(ことわざ)があるよね。以前習ったと思うんだが。」彼は頭を抱え込んだ。
 
アダルトな皆さまは、もちろんすぐに心ですぐにお答えになっただろうと思う。「情けは人のためならず」である。それを告げると、彼は、「そんな意味だったんですか」と驚いていた。意外と意味までは浸透していないのだと分かった。というより、昨今の子どもたちは、諺というものを知らない。
 
意味だけが分からないでいると、妙な意味で使うことがある。この「情けは人のためならず」も、「人のためにはならないから情けをかけるな」という意味で知られている場合があるのは、有名である。古語が遠くなるとき、このような誤解が起こることも、理解できる。そしてそれは、かなり以前からである。
 
それも困るが、そもそも諺としての言葉の言い回しすら、聞いたことがない、という反応が多いのが実情である。生活の中、文学作品の中に、諺が普通にあった時代とは違い、もはや生活の中でも、ラノベの中でも、そういう言葉に触れる機会がない。作家が知らなければ作品にも現れないため、どんどん縮小再生産がなされてゆくことになる。
 
さて、それはともかく、私は彼を咎めることももちろんせず、にこりと笑って、付け足すことを忘れないでおいた。「ども、自分に還ってくることを期待することなく、人のために何かしたいものだね。」これには彼も、「そうですね」と笑顔を返してくれた。それが嬉しかった。私は、「なかなかできないけどね」と、また笑顔を向けた。
 
「情けは人のためならず」という言葉は、人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、やがてはよい報いとなって自分にもどってくることを教えている。だが、そこにもしも、自分にもよいことがあるように、という目的をもった上で、人に対してよいことをするのだ、という考え方が含まれていたとすると、それは「道徳的」ではない。少なくとも、道徳哲学を根拠づけたカントにしてみれば、間違いなくそうである。「道徳」という言葉は、結果を期待してすることについては、用いることを許さないのである。これは「仮言命法」といい、「もしも幸福になりたいならば、これこれをせよ」というような形式の声となる。見返りを求めて初めて行うのは、尊崇すべき人間理性とは無縁のものであるというのだ。
 
カントにとっては、人間理性の中にそうした輝かしいものが存在するのであって、聖書から人間に与えられるものだとは考えられていない。だがいまここでは、聖書に注目することにしよう。聖書が知らせている知恵には、「情けは人のためならず」方式の思考路線が、意外とない。もちろんイエスの告げる教えは、それが「愛」に基づくものだとすると、「愛」は、かの「道徳」と同様であり、しかも、そこには時に「自己犠牲」すら伴う。たとえ自分を犠牲にしても、神が豊かな報いを与える、という信仰があるからだ。
 
情けは人のためならず、ただ神の栄光のため。そんなふうに、口にしてみたいものだ。もちろん、実行できたら、もっとよいと思う。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります