【メッセージ】内に光が射すならば
2025年2月9日

(マタイ6:19-24, ゼカリヤ14:4-7)
■聖句
◆クリスマスの光
喉元過ぎれば熱さを忘れる。人の噂も七十五日。
熱狂的に、あるとき関心が集中はするが、数日後にはサッと冷めてしまい、誰もその話題を口にしなくなる、ということがあります。2025年初頭、阪神淡路大震災から30年ということで、例年になくマスコミが震災関連の放送をしました。特に民放各社の番組は、去年より多かったと思います。しかし、17日のその日が終われば、波が引くように、そのことには触れなくなりました。
阪神淡路大震災の被災者が、差し出されたマイクに向かって、こんなことを言っているのを聞きました。31年目にどう扱われるか、そこに注目したい、と。とても重く響いてきました。
中学入試のための作文指導をしました。小学生のクラスですが、気になる表現がありました。活発になる、という意味のことを言いたいときに、「盛り上がる」という言葉を使うのです。それも複数。もちろん口語表現を無闇に作文に書くものではないので指導します。
子どもたちの目にも、いきなり何か「盛り上がる」という場面が見えるのでしょう。お祭り騒ぎがあって、自分の気持ちを発散するときに盛り上がり、それが済めばまた冷めてゆく。そして次の「盛り上がる」きっかけを探す。それが世間であるようにも見えてきます。
教会での大きな行事なのですが、「クリスマス」を冬の初めに迎えます。クリスチャンにとり、ただの通り過ぎる年中行事というわけではないのですが、世間ではもう過ぎたことで、次はバレンタインデーに盛り上がっているばかりです。少なくとも西欧文化では、1月の最初の週まではクリスマス期間と見なされているようですし、日本のキリスト教会の中にも、年が明けてなおクリスマスを語り、クリスマスの賛美歌を歌う教会があったことを、うれしく思います。
私は個人的に、年中いつでもクリスマスの賛美歌を歌ってよいと思っています。神の恵みがたっぷりと歌われているものですから。この「クリスマス」というのは「キリスト礼拝」という言葉ですから、一年中いつでも「クリスマス」なのかもしれません。しかしいま、イエスの誕生ということに焦点を当てると、そのクリスマスは、一年で一番夜が長い時季に定めています。そこには知恵と信仰がこめられていると思われます。
暗いところから、わずかでも、昼が長く変わってゆく。そのとき、光が射した。救い主が現れて、救いの時代が始まった。そこに眩しい光が現れたのです。「光の饗宴」などというと不謹慎に聞こえるかもしれませんが、小さなろうそくの光を用いて、教会は、暗闇の中に現れる真実の光を思いました。神の光という喩えも、聖書の中ではポピュラーなイメージとなっています。
その「光」というものに焦点を当てて、今日は、ふだんあまり注目されない形での「光」を受けてみたいと考えています。
◆マタイ伝で選ばれた箇所
お開きしたのは、マタイ伝の「山上の説教」とよく呼ばれるところです。「山上の説教」というのは、イエスが少し高いところで大勢の人にまとまった教えを語った、という設定となっている箇所です。それは、イエスが折に触れ語った教えを、福音書の一箇所にまとめて掲げたのだ、という考え方もあります。シチュエーションに入れ込められなかった、悪く言えば「寄せ集め」だという人もいます。
つまり、一定の背景なしに、抽象的に教えが集められ、並べられている、と見るわけで、そう言ってしまえばそれまでのことです。並べ方には、余りに深くその意味を詮索する必要はない、と言ってもよいかと思います。でも、何らかの編集の意図があってそのように並べたのだ、という一面を否定することはできないような気もします。
本日開いた6章には、「施し・祈り・断食」といったものについて、人に見せびらかすことはよくない、という共通のテーマがあるように書かれていました。これに続いて、三つの喩えが並んでいます。本日は、この三つの喩えを取り上げました。
まず、「天に宝を積む」という最初のところで、先の「見せびらかす」話とは変わった方向に進みます。ただ、「人に見られないところで」という流れがあるように受け取ると、直前とつながりがある、と理解できないわけでもありません。便宜上、この「天に宝を積む」喩えを、Aと呼ぶことにします。
この辺り、翻訳では、一つひとつの項目がカギ括弧でまとめられています。同じイエスが語った教えであるにしても、話毎に区切って示していると言えます。訳者は、一つひとつ別の話だ、というように見せています。翻訳上、それはそれでよいと思います。
次に、「体の灯は目だ」という話が始まります。なんだか不思議な話です。現代の私たちの知る科学や医学の捉え方からすると、理解不能なことを言っており、非常に奇妙に感じます。当時の知識や認識というものがどうやらあるようです。全身が明るいこと、中に光があるとかないとか、他人からどう見られるか、という眼差しのことには殆ど関係がない話になっているように見えます。便宜上、この話をBと呼びましょう。
そして最後に、「神と富」との対比が語られます。神と富とに同時に兼ね仕えることはできない、とするのですが、この構図は、一般にもわりとよく知られているであろうと思われます。やはり他者の視線はここには感じられなくなっていますが、「富」と「宝」とに親和性があるため、Aのテーマにつながるところがあるようにのも感じられます。この「神と富」の喩えのことを、ここではCと呼ぶことにします。
以下、この三つの教えを、あまり無理のない程度に、ひとつの響きの中で聞こうと思っています。
◆天に宝を積む
まず、Aに注目しましょう。天に宝を積む話です。新共同訳聖書では「地上に富を積んではならない」から始まり、「富は、天に積みなさい」へと流れていきました。聖書協会共同訳では「地上に宝を積んではならない」から「宝は、天に積みなさい」へと進みます。「富」が「宝」に変わっていますが、それよりも、もっと注目すべき点があります。
「富」または「宝」という語と、「積む」という語とが、ギリシア語では同じなのです。正確には、前者が名詞、後者が動詞ですが、同じ系統の語であるということです。日本語ではこの情況で相応しい言葉がないので、現行のように訳されているのだと思いますが、その気になれば、「地上に富を富ますな」「富は、天に富ませよ」と訳すことができるでしょうか。
もちろん、伝えている内容に違いがあるとは思えないのですが、イエスの言葉は、わざわざ洒落もどきの表現を用いており、耳に心地よく響き、またユーモアさえ感じさせるものとなっているようにも思います。ただ私の感覚では、「宝」の方が、語の有っている本来の雰囲気をよりよく伝えるのではないか、とも思われます。それはただ経済的に得た報酬のようなものではなくて、自分にとり「宝物」であるわけです。
それは、小さな子が、きれいな石を拾ってきて集めるようなものです。雑誌の附録のお気に入りのシールを、宝物箱にとっておくようなものです。貪欲を戒めるだけのように聞こえもしますが、私には、自分がこよなく大切にとっておくもの、のように受け止めることができるような気がします。
「地上」では、それを虫が食うでしょう。泥棒が来て、盗んで行くかもしれません。「地上」に対しては、「天」というものが置かれます。マタイですから「天」は「神」のことを指すとも考えられます。直接的に「神」と呼ぶことを避ける傾向にあるからです。そこで、「神」の許にこそ、宝物があるのだ、と言っています。私たちは、イエスの言葉によって目を開かれます。神の許では、虫が台無しにすることもありませんし、泥棒に盗まれることもありません。
イエスはこの喩えを、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ」と結んでいます。「宝」は「天」に、つまり「神」のところに置くものだ、とここまで言っていました。それならば、そこに私の「心」があるというのならば、私の「心」は、「神」の許にある、ということになります。そのようであるべきだ、それも、しっかりとそこに結わえつけられているような口ぶりです。
私はきっと、自分の宝物をいつも大切に思うでしょう。ちゃんと仕舞ってあるか、気にかけることでしょう。私たちは、神の国を常に気にかけているものだ、と言っているように理解してもよいように思われます。それが意味のすべてだ、などと言うつもりはありませんが、宝を神のところで宝とするのだ、という点を、見つめていたいものです。
◆神と富
ひとつ飛んで、先に三つめのCの喩えに移ります。新共同訳聖書では、ここは「神と富とに仕えることはできない」とされていましたが、聖書協会共同訳も、全く同じく「神と富とに仕えることはできない」でした。ここは後者の方が適切に訳し分けられています。というのは、先ほどの「天に宝を積む」ときの「宝」と、この「神と富」というときの「富」とは、ギリシア語が異なるからです。それに対して新共同訳聖書では、別のギリシア語であるのに、前者を「富を積んではならない」とし、後者を「神と富とに仕えることはできない」として、同じ「富」という日本語にしてしまっていたからです。
「神と富とに仕えることはできない」というときの「富」の原語は、よく知られた「マモン」です。もちろん、「富」という訳語も可能なのです。しかしこれは、時に「金」、時に「財産」などと私たちが捉えることができるような意味での「富」です。私には、どこか軽蔑の意味をこめて「カネ」というときの使い方に似ているのではないか、と感じられます。
新共同訳聖書だけを見ると、天に積む富は勧められていたのに、富に仕えるな、というように聞こえて、混乱する可能性があります。そこで私たちは、聖書協会共同訳に従って読み進めます。この三番目の喩えでは、私たちが「金の亡者」とか「守銭奴」とか言うような空気が漂います。
24:「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
ここは心に戒めておきたい言葉だと思います。主人はひとり。仕えるべき主人はひとり。とても分かりやすい理屈です。キリスト教が多神教と相容れないことは、ここからも明らかでしょう。あの神に仕え、この神に仕える、そのような図式が成り立たないからです。そしてそのような情景は何を表しているかというと、それらの多くの神に仕えているかのようでありながら、実はそれらの「神」と呼ぶものを、自分が従えて、利用していることを意味することになるに違いないのです。
◆目は灯
AとCは関連性があるように見えました。最後に、二番目のBをお読みします。これが、初めに申しましたように、なかなか不思議なのです。もう一度ここに掲げてお読みしましょう。
22:「目は体の灯である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、
23:目が悪ければ、全身も暗い。だから、あなたの中にある光が暗ければ、その暗さはどれほどであろう。」
これは聖書協会共同訳ですが、参考に、新共同訳聖書もお読みしましょう。
22:「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、
23:濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
相違点は、「目が悪い」ことと「目が濁る」こと、もうひとつ「暗い」と「消える」です。原義は「悪い」と「暗い」だと思われますから、新共同訳聖書は特別な意味合いに限定した印象を与えます。特に「消える」は、次にある「暗さ」と同じ名詞ですから、かなり意訳していることになります。これは、最初にカトリックとプロテスタントとが共同でつくったときに、もしかするとカトリックの考え方を取り入れたのではないか、と推測しますが、確かなことではありませんから、この点は眉に唾をつけてお聞きください。
この箇所についての解説一般を参考にして、自分なりに当時の理解を想像しながら語ることにします。ここでは全身が明るいか暗いかが結果となります。明るくする源は、灯です。これはよく分かります。イエスは、その灯は、人間の目であると喩えています。あるいは、当時の常識めいた理解であった可能性もあります。
目がクリアであれば、全身が明るいのだそうです。ものが見えるということは、今でも、外部から光が入ってくることによって成立します。その後、網膜に像を結ぶ、あるいは光が当たることで、網膜の視細胞が受けた刺激を脳に伝えて脳が判断することになります。聖書の書かれた時代の理解は、入ってきた光と脳との関係はありませんでした。入射光が、全身を明るくする、というような表現で考えられることが、説得力があったということです。
それにしても、すんなりAとCとを連続させればよいような気がするのに、マタイは編集の上で、間にこのBを挟みました。ここに興味が湧きます。どうしてわざわざABCの順序に並べたのでしょうか。
そこで考えてみます。現代の常識や考え方でこのメカニズムを量るのは、適切ではありません。その前提でこの説明から分かることは、目が曇っていては、その人は明るくなれない、否、暗いのです。真っ暗になりかねないのです。夜という機会は、福音書でも、正に「闇」を表し、ペトロの暗い心や、ユダの裏切りを演出する場面で強調されていました。
私たちの目がクリアであるとよいでしょう。濁っていればよくありません。さらに言えば、目を閉じれば、体の中に光が入ってくることがありません。そうなれば、本当に体の中は真っ暗になります。光が入りません。生まれながらに罪を負う人間の姿がそこに現れてきます。
それに対して、目を開けば、光が入ります。光が入れば、全員が明るくなります。目を開けば、光が射してきます。これは、神の光でなくて何でしょう。光があるうちに光の中を歩め。神は光であって、暗いところがない。初めに光があった。聖書を幾らか読んでくると、「光」という言葉で、神のことを指すのだ、ということは、否応なく連想されます。
私はここから、「目を覚ましていなさい」と同じことを言われているような気がしてなりません。目を覚ましているとは、つまり目を開いていることに外なりません。目を覚ましていれば、神が訪れるのを知ることができるのでしたが、正に目を開いていれば、光なる神が見える、その神を知る、ということになりはしないかと思うのです。
私の宝物は、神の許にあるのでした。神の国に私の心があるのでした。これがAでした。次にマタイはBを置きました。目を覚ませ、目を開け、と求めるのでした。それは、神の光を見ることでした。イエスを知ることでもよいし、イエスの言葉を受けることでもよいかと思います。それからマタイはCを並べました。私たちは神にこそ仕えねばならないではないか、と迫りました。
少々理屈っぽかったかもしれませんが、このような姿勢で読むならば、マタイの並べた順序は、自然と読み進められるような気がします。大切なものがあるところに心がある。大前提です。続いて、目を開けば神の光が指してくると告げました。小前提です。その結論は、神に仕えよ、ということになりました。論理的な三段論法ではありませんが、霊的な論理でつなぐことができる、霊の三段論法がここに成り立つように私は思ったのでした。
◆そこに闇がある
さて、目を開けば、外から、つまり神から光が入ってくる。その事実を反映して、私は明るい光の子になれるだろう。そのような希望が、この三連の喩えにより与えられるのだ、と解しました。
しかし、少し気になることがあります。目を開いて見えたそこに、暗闇があったらどうなのでしょうか。この世界には、目を背けたくなるような暗い部分が潜んでいます。いえ、潜むどころか、戦争のニュースが日々届けられます。ニュースが流れない日があれば、戦争から目を背けているという、よけいに醜い私たちの姿がそこにあるようにさえ思えてきます。
人が人を襲う報道もあります。人の裏切りが伝わってきます。ドラマも醜い心を表に出してきます。信じたかった存在が悪を企み、政治家もなんだか信用できないという人もいるでしょう。役所の人も会社の人も感じが悪いし、隣近所は挨拶もしない。いやいや、家族の中にも、どうにも感情がこじれて、ただならぬ関係に陥ってもめていることがあるかもしれません。
世界の現実もまた、光の作用によって、私の中に入ってきます。ひとつのイメージとして、ゼカリヤ書14章を借りてそれを受け止めてみることにします。
4:その日、主の足は/エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。/オリーブ山は東と西に半分に裂け/非常に大きな谷ができる。/山の半分は北へ、他の半分は南へ移る。
5:山間の谷がアツァルに達するので/あなたがたは私の山間の谷を通って逃げる。/ユダの王ウジヤの時代に地震を避けて逃げたように/あなたがたは逃げる。
預言者の語る世界は、おぞましい出来事に満ちています。ユダヤの民も、恐ろしい出来事の中で逃げ惑います。ただ、このとき主の足が立っています。恐ろしい混乱の中で逃げると、主がそこにいることを知ります。
5:わが神、主が来られる。/すべての聖なる者たちも主と共に来る。
6:その日になると、光がなく/寒さも霜もない。
7:それはただ一日であり、主に知られている。/昼もなければ、夜もない。/夕暮れ時になっても、光がある。
これ以上、敢えて説明は致しません。主が来られることにより、希望がもたらされました。目を開けば、神の光が見えるようになれるのです。でも、キリスト者は知っています。確かに闇があったことを。それも、自分の中にあることを、知っています。自分がかつてはその闇そのものであったことを、覚えています。そこから、イエスに出会って、光の中に連れて来られたというこを、知っています。闇を知るからこそ、神の光が分かるのです。
◆光から光へ
目を開いたから、闇が見えた、それもあるかと思います。でも、その考え方に支配されないようにしましょう。闇は、かつての自分の姿で十分です。だからこそ、世界に起きている闇のような出来事も、自分の罪と関係していると理解できます。テレビ局の問題がまだ話題になっています。クリスマスの話題よりも長く続いています。テレビ局がけしからん、と世間では怒号が轟いています。でも私は、そんな気持ちにはなれません。私もそれまでずっと、テレビを見ていたのです。テレビ社会とテレビの仕組みを、肯定していたのです。そこに闇があったとしても、私が黒いクレヨンで塗りつぶすことに、確かに加担していたのです。
そしてそれは、目を開いていたからとは言えない、という信仰に立ちたいと思います。私が目を開いていたら、つまり目を覚ましていたら、そこからは光が入ってきたはずなのです。見えるものは、私の中で全身を照らし、私を明るくしたに違いないのです。
私の大切なものは、どこにあるのか。この地上に、一番大切なものを擱くように、と信仰は導くことはありません。神を拝し、イエス・キリストを愛すること、大切にして宝だとすること、そこに私の信仰があるのでないといけないのです。
そのようにイエスを見上げたならば、光が入ります。私は明るくなります。神の善、神の真理が私の中に飛び込んできます。美しい神の姿が、光の中に見えます。光は、神そのものです。私は喜んで、目を開きます。目を覚ましていたいと願います。
私が仕えるのは、このお方だけです。この世で幅を利かす「カネ」を第一にし、「カネ」のために神に対して目を瞑るようなことをしません。神に目を瞑れば、自分を神とし、口先で「神」と呼ぼうが、それは神を利用する、最大級の罪となるでしょう。
このような言葉をもたらすイエスを、神は世に贈りました。それが、クリスマスでした。クリスマスは光に満ちているように人間はイメージしました。クリスマスは、年末恒例の、一過性のお祭りなのではありません。この世の「カネ」にまみれたイルミネーションが消えたときこそ、キリスト者が、目を開いて光を見ます。神から射してくる光を受けます。その光は、私の全身を明るくします。心だけ気休めで明るくすることではありません。身も心も、すっかり光の中に染まるのです。
そこから初めて、キリスト者は、「世の光」となるのだと思います。もし自分では、さしてそんなふうになったなどとは気がつかなくても、神の光が、この器の中で輝いているのだと、知っているからです。