インターネットの問題点を

2025年2月7日

「情報通信」、あるいは小中学生には分かりやすく「インターネット」という言葉で問うのだが、インターネットの問題点を挙げて論じよ、という作文課題がよくある。そして子どもたちも、よくこのように書く。嘘の情報に気をつけなければならない。
 
その通りだ。そしてもう少し論じてゆくと、多くの子が書く。いろいろな情報を見て、何が正しいかを知るようにしたい、と。
 
たぶん、自分でもどのようにしてよいのか分からないのであるが、このように書いておけば無難で、理屈が通る、という気がするのではないか。小学生のことである。それだけ書ければ十分であろう。内容よりもむしろ、主張する文章の論理立ての訓練が目的だとも言えるから、結論を伝えることができ、一定の理由が述べられている段取りがそこに表されていれば、作文としては何の問題もない。
 
言うまでもないことだが、インターネットでの多数派が適切な意見だとは限らない。ある嘘が小さな場所で生まれたとして、それをインフルエンサーが引用すると、とたんに真理であるかの如く広まってゆく。あるいは、特別な影響を与えるまでもない者たちでも、それぞれが引用を繰り返すと、完全に多数派になってしまう。こうして、圧倒的な数の嘘が蔓延する。
 
小学生が「いろいろな情報を見る」というのは、一つの情報だけではなく、別の情報も参照する、という程度のことであり、間違いに出会っても、ほかを当たればそれが間違いであることに気づくはずだ、という素朴な信頼に基づいてのことであるだろう。
 
そのくらいのレベルでの根拠と思いこみが、インターネットの世界では渦の如く沸き起こり、正論として重なって、いわゆる「炎上」が起きている、という事実を把握する必要があるのは確かだろう。深く、また広く考えるという手間を省いて、見映えのいい尤もらしい意見が、真理のすべてである、と思いこむのである。正にそれこそ、「いろいろな情報」を見ていないことにもなる。
 
多数の声があったからと言って、正しい情報だとは限らない。この簡単な原則さえ、多くの場合に気づかれていないというのは、大人社会としては危険である。「待てよ」と根柢から考え直す営みの必要性を知らない社会は、危うい。ちょっとしたきっかけで、そうだそうだ、と意見が集まってゆく。民主主義は、それを是とする制度である。
 
気づかれていない、という消極的な評価で済むなら、まだよいかもしれない。気づこうともしないで、自分の見ているものが真理のすべてなのだ、という態度が、密室の中から発信する者を支配してゆくことが、現に起こっている。そして、自分の意見に反対の考えをもつ人を、罵倒することも平然と行う。馬鹿呼ばわりをしてもなんとも思わないのは、誹謗中傷を自分がしているという意識が全くないことを表している。
 
インターネットそのものが悪いのではない、という考え方もあるだろう。こうなると、技術とは何か、という問いの領域に入ってしまうことになる。問わねばならない問題は、幾らでもある。人の心を問うことも必要であり、技術について問うことも必要である。いま、それらについて本格的に問うている本を並行して読んでいる。考える営みは、終わることがない。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります