【メッセージ】小さい者のために
2025年1月26日

(マタイ18:1-14, イザヤ42:1-8)
これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天にあっていつも、天におられる私の父の御顔を仰いでいるのである。(マタイ18:10)
◆子どもを襲う者
仮面ライダーは、初代が1971年に放映が始まっています。もう半世紀以上前のことです。そのときに熱中した世代はすでに祖父祖母の世代でしょうか。ライダーのキャラクターは変遷しながらなおも現役だと言えるし、新たな形で提供されもしている、息の長いキャラクターとなりました。
私も継続して見たわけではないので、いい加減な紹介となりますが、本来石森章太郎の漫画作品で、特撮テレビへと発展しました。悪の組織に改造人間にされた男がそこから脱出すると、このその組織の怪人たちと闘うという構成が最初でした。初代仮面ライダーの悪の秘密結社は「ショッカー」といいますが、世界征服を企んでいます。
ところが、この「ショッカー」が、幼稚園バスを襲った、という揶揄が時々言われます。世界征服の手段が幼稚園バスジャックとは何だ、などと嗤うわけです。ショッカーが幼稚園バスを襲ったことはなく、襲ったのは『秘密戦隊ゴレンジャー』だ、などというマニアックな声を聞きました。しかしどちらにせよ、特撮ものでそうした場面は描かれているわけで、さすが子ども番組だ、などと大人は見物するわけです。
子どもを襲うからこそ、視聴者たる子どもは震え上がるのであり、リアルにヒーローを待望することになります。日本の番組において怪獣がやたら日本ばかり襲うのも、そういうことになるでしょうか。
子どもを襲うとはけしからん。現実に、子どもが襲われ、殺されるという痛ましい事件が起こっています。中国の事件も悲しみましたが、私たちは先月、北九州での悲しい事件をも知りました。
子どもを憎むということは、残酷なことだと社会で認識されています。子どもを見て、微笑ましく思うのが社会常識なのです。子どもを殺める者は、鬼畜のような目で見られます。誰でも、赤ちゃんを見ると、大人はつい微笑むものです。小さな者を慈しむのは、どこか本能的なものなのかもしれません。
悪の組織は、子どもを襲います。それがフィクションの世界だから、まだ見ていられるのです。しかし現実社会は、本当に子どもを殺しています。砲弾が子どものいる場所や病院を襲い、子どもが死んだという報道が幾度も届きます。子どものいる場所をすら攻撃するのが、「戦争」です。そして、私たちはそのニュースにも、いつしか慣れて感覚が麻痺しています。時折思い出して、可哀相ね、などと言い合うことによって、互いに人間らしい心をもっていることを安心し合う程度。そんな私たちもまた、子どもを殺している一味に加わっているのかもしれません。
◆小さくされた者
子どもに対するイエスの接し方について、キリスト者が真っ先に思い起こすのは、たぶんこのシーンではないでしょうか。マタイ伝の18章です。
1:その時、弟子たちがイエスのところに来て、「天の国では、一体誰がいちばん偉いのでしょうか」と言った。
2:そこで、イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
3:言われた。「よく言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
4:だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ。
5:また、私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」
「天の国」とマタイが称するのは、「神」という言葉を表に出したくない事情があったからで、他の福音書からすると、「神の国」と呼んで差し支えないものです。そしてこの「国」というのは、土地を示すというよりもむしろ、神の支配や権力が及んでいるところ、という意味が強く、さらに言えば、「神の支配」と訳してもよいのだ、と講壇で語るのが、まるで決まりのようになっています。
問題は、神の支配を受けているその人が、「子どものように」なっている人のことなのだ、ということです。「子どもが」とは言っていませんが、「子どもの一人を受け入れる」ことの大切さも伝えられています。
イエスを受け入れる者は、「子どもの一人を受け入れる者」だと言っています。受け入れる立場に、私たちがあるのだとしたら、単に子どもを見てだけいればよいのでしょうか。
私が「小さくされた者」という言葉を知ったのは、カトリック司祭である本田哲郎さんの『釜ケ崎と福音』という本においてでした。ホームレスの人々との出会いから、福音とは何かを問うものです。人を立ち上がらせる力、人を勇気づける力は、ほんとうはこうした人たちのところから始まるのではないか。そういう視点から聖書を読まねばならない、との思いを懐くようになるのでした。
その上で、ホームレスの人々は勝手にそうなったのではない、そのように社会がしたのだ、あるいは、この差別された人々は、「小さくされた者」なのだ、というメッセージを発することにもなりました。むしろ神はこのような人々を選んだのだ、と読者に気づかせるようにもなります。
この視点は強烈でした。神の救いがそのような人々に向かうことは、少しばかり聖書を読んでいれば分かることではないか。イエスは、そのような人々のところに遣わされたことが、福音書には、これでもかというほどに書いてあるではないか。
さらに言えば、彼らはただ「小さくされた」のではない。私のような、「膨れた者」が、彼らを「小さくした」のであるに違いない、とすら私は思っています。私が膨れている分、小さくされた人々もいるわけです。
私がこの口で、「小さくされた者」と言うとき、私自身が何をしているのか、自覚しなければならない、と思います。「私」は大きくなる一方だったのです。
◆膨れる
もう少しこの点について思い直してみましょう。私がいま指摘しているのは、聖書が「高ぶり」や「驕り」あるいは「高慢」のような訳し方をしている語のことです。聖書により異なりますし、同じ聖書でも訳語が場面により異なることがあることでしょう。
破滅に先立つのは驕り/つまずきに先立つのは高慢な霊。(箴言16:18)
ここでは「驕り」という訳となっていますが、これは神の「威厳」を表すときにも用いられますが、人に適用されると「傲慢」や「虚飾」を指すこともあるそうです。それはまた、自分の実際以上に「膨らむ」様をも意味しているとみられます。私たちは、自分を神の前にすら誇り、大きくするようになることができるのです。
そんなバカな、とお思いでしょうか。聖書を自分の思うように解釈して、その意味が正しいと口にするようなことがないでしょうか。聖書の権威を利用して、実のところ自分がいちばん偉いように仕向けているようなことは、本当にないと言えるでしょうか。私はそういう嫌なものを、幾度見てきたか知れません。もちろん、いま私がそのようなことをしているのかもしれません。ひとはどこまでも、自分を膨らませることが、簡単にできるのだと私は思っています。
だから、自分がいつの間にか偉くなっているのだ、と気づかされたとき、むしろ感謝します。自分が気づかせてもらったというのは、それ以上暴走しないために、ありがたいことだと考えるからです。
誰かを「小さな者」と見るとき、私たちは、自分の方が「大きい」と考えています。自分は、相手に比べれば「大きな者」だという前提に立っています。いえ、そう覚るべきことはあるのです。自分はなんと恵まれた生活をしているのか。自分はなんと幸いな環境に置かれているのか。幸運を噛みしめる必要がある、とも言えるのです。感謝知らずでいるよりは、感謝すべきことに気づかされることは、よいことであるはずです。
だから、「恵まれない人々のために」何かを献げたり、奉仕をしたりするとき、自身への幸運を知るという意味では、悪いと言うことはできないでしょう。しかし、自分は祝福されているが、この「小さな者」は祝福されていない、という眼差しには、何かおかしなものが隠れているような気がしてなりません。
その「小さな者」は、祝福されていないのでしょうか。その人のために何かをすること、あるいは端的に「ボランティア」と呼んでもよいかもしれませんが、ボランティアそのものは尊い働きである、と言ってもそれは差し支えないもののはずです。それでも、「なにかしてあげる」という考え方が芽生えてきたなら、あるいはその考え方が最初から自分の根柢にあったのだとしたなら、私はきっと、膨れているのです。
私たちが「小さな者」を受け入れるというのではなく、私たち自身が「小さな者」であるのだ、と気づくことが求められます。幼子のようになる、と言えるのかどうかは分かりません。しかし、私は自ら「小さな者」なのだ、とつくづく思い知らされる経験を、キリスト者はおそらく、知らないはずはないのです。神の前に小さくされた経験がなければ、恐らく「救い」の感謝と喜びを知ることがないからです。
私たちは小さい。そして、神は大きい。大きいなどというものではなく、あまりに大きすぎて、無限の前に有限の数が比較の対象にならないように、私たちは存在の場所すらもたない塵芥であって、神こそが偉大な全能者として、大きな存在である、と思うのが、信仰というものでしょう。
◆くすぶる灯心の火
イザヤ書は、新約聖書に非常に多く引用されたり言及されたりしている本です。私も度々開きます。今日も、旧約聖書の箇所から開くとき、イザヤ書42章を適切だと思いました。そこには、「小さな者」と呼ぶべき者のことが描かれていたためです。
1:見よ、私が支える僕/私の心が喜びとする、私の選んだ者を。/私は彼に私の霊を授け/彼は諸国民に公正をもたらす。
2:彼は叫ばず、声を上げず、巷にその声を響かせない。
3:傷ついた葦を折らず/くすぶる灯心の火を消さず/忠実に公正をもたらす。
4:彼は衰えず、押し潰されず/ついには、地に公正を確立する。/島々は彼の教えを待ち望む。
5:天を創造し、これを延べ/地とそこから生ずるものを広げ/その上に住む民に息を与え/その中を歩む者に霊を授けられる方/主である神はこう言われる。
6:主である私は義をもってあなたを呼び/あなたの手を取り、あなたを守り/あなたを民の契約とし、諸国民の光とした。
7:目の見えない人の目を開き/捕らわれ人を牢獄から/闇に住む者を獄屋から連れ出すためである。
8:私は主、これが私の名。/私の栄光を他の者に/私の誉れを偶像に与えることはない。
これは、イエスもまた、マタイ伝ではその12章において、ここを引用していました。イエスが主の僕としての自覚を告げる場面でした。つまり、このイザヤ書の描写が、ご自分のことだと知らしめたのです。
イエスは、決して叫ばない、と言います。巷におおっぴらに響かせる声をもたない、と言います。そしてイエスは、「傷ついた葦を折らず/くすぶる灯心の火を消さず」という心を以て動きます。私はそれを聴いたのです。私は傷ついていたのではないか。私こそ、消えそうな炎だったのではないか。私が「小さな者」そのものであった、ということを思い知らされた中で、私は自分を「葦」と認め、「くすぶる灯心」のように鏡の中に見たのです。私たちも、そのような時がなかったでしょうか。誰にも、そのように思えるときが、あったのではないでしょうか。
キリストから見れば、ひとはどんなに小さいものでしょう。限りなく小さいということを、そこで痛感したのだとしたら――きっと、福音は、すぐそこまで来ていることに気づくことでしょう。
◆天使たちがいる
今日は、新約聖書では、マタイ伝の18章をメインとしました。先に、その初めの部分に目を留めていました。いま、その後半のところを見たいと思います。
10:「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天にあっていつも、天におられる私の父の御顔を仰いでいるのである。
11:人の子は、失われたものを救うために来たのである。
12:あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残して、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
13:よく言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
14:そのように、これらの小さな者が一人でも失われることは、天におられるあなたがたの父の御心ではない。」
一部、古い写本に書かれていない句があるようですが、文献調査をしているわけではないので、気にせず、伝わっているこのままにお読みします。「小さな者」についての言及が続きます。「小さな者」として相手を見る眼差しから、その「小さな者」が自分自身ではないか、という視点を与えられた私たちでした。
その目で見ると、その「小さな者」には、その「天使たち」がいる、という言葉を見逃せません。その「天使たち」は、「天にあっていつも、天におられる私の父の御顔仰いでいる」と言っています。
それに続いて、百匹の羊のうち一匹が迷い出たら、それを探しに行くに違いない、という話が出てきます。それは、ルカ伝15章で有名になったたとえ話でもありますが、そこでは、たった一人のためにそれを探しに行く神の姿を強調しているように見えました。ここマタイ伝での引用は、「小さな者」という前提を突きつけます。単に一人ではないのです。「小さな者」であり、さらにそこには「天使」が付いているのです。
「天使」と聞くと、どうしても白い羽の生えた、多くの場合は子どもの姿が想像されるでしょうか。西洋画でもしばしばそのように描かれているのを、私たちは見ました。「使」とは、「使者」のことです。ギリシア語の意味からしても、英語的に言うと「メッセンジャー」という響きがぴったりきます。
中東地域では、それはあたりまえの存在だったようです。神と人とが直接触れあうことは概してタブーでしたから、その間をとりもつ者が想定された、とも考えられます。人が神となることが常態であるような文化だと、このような存在は必要ないのでしょうが、神と人との間の断絶が前提の文化だと、その間をつなぐ者が要請されたのだ、とも理解できます。
えてして西洋文化は二元論をベースにしている、と言われます。デカルト以来の近代の二元論はもちろんですが、古代から何らかの二元論を想定しているように見受けられます。そのとき問題になるのは、それら二つの原理がどうつながり、関わるか、ということです。「天使」は、神と人とをつなぐ重要な媒介となるわけです。
「天使には重さがあるのか」とか「針の先で天使が何人踊れるか?」とかいう問題が真剣に問われたとも言いますから、ユダヤ文化を受け継いだ西洋人は、天使の扱いには苦労したようです。
私たちには、それほどピンとこないかもしれません。そして無邪気にも、恋人のことを「天使のようだ」と簡単に形容さえしています。だったらいっそ開き直って、私たち自身が天使のように、神と人との仲介を果たしてみるのは如何でしょう。神の言葉を伝え、神が助ける業の一端を担う、というのは。
◆できることをなす
今日は、「小さい者」というモチーフで、聖書の言葉を聞いています。そう考えると、私には、どうしても心から離れない、同じマタイ伝の話があります。恐らく多くのキリスト者が胸を痛めるであろう、有名な25章でイエスが語った話です。
31:「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
32:そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
33:羊を右に、山羊を左に置く。
34:そうして、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。
35:あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、
36:裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
37:すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、喉が渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
38:いつ、見知らぬ方であられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
39:いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
40:そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。』
恐らく、なんの説明もいらないことだろうと思います。いまここには、良い方の例だけをお読みしましたが、これに続いて、正反対の、厳しい話も載せられています。つまり、「最も小さな者の一人」に何も手を貸さなかったが故に、裁きを受けるのです。
しかしここは、自ら善いことをしたという意識すらないで「最も小さな者の一人にした」ことが、実は「王」に対して、つまりは「神」に対して善いことをした者が褒められている場面となっています。私たちもそうありたいと願うと同時に、誰彼を助けることなく自分本位で生きていることは怖いことだ、と思い知らされる聖書の箇所となっています。キリスト者は、心のどこかで、こうならないために、人助けをしなければならない、という心理を宿しているはずです。
そのような脅しめいたことはさておき、私たちは、「できることをなす」という言葉をよく使います。先日も、朝ドラ「おむすび」で、東日本大震災の姿を見た主人公たちが、「何かをしたい」と相談する場面で、「できることをする」という理解を示すことがありました。すぐに行動に移せる人のことを、私は羨ましく思いますが、「できること」とは何か、それを言い訳に尻込みするようなことも、人間心理にはあるでしょう。
聖書の中から、「小さな者」という言葉を取り出して、私たちは今日、そうした事柄へ問い直すひとときをもつことが許されたのだ、と考えています。ただ、今日は中心に置くことはしませんでしたが、いちばん大切な「小さな者」がいることを、キリスト者は知らないはずがありません。いちばん大切な「小さな者」は、本当はいちばん大きい者であるのに、とんでもない仕方で「小さな者」になったキリストです。限りなく大きな神が、人間の中でも最も小さな者として生まれたことを、私たちはクリスマスで心に刻んだはずでした。私たちがいじめ抜いて殺した、その「小さな者」のことは、私たちは片時も心から離してはならないはずでした。
◆あなたへの福音
キリストという「小さな者」を通じて、私たちには福音がもたらされました。あるいはまた、私たちはキリスト者としてまた福音を誰かに届けることが、大切です。もう一度、最初の仮面ライダーや戦隊ヒーローの風景を思い起こしましょう。世界征服を企む悪の秘密組織が、幼稚園バスを襲う、というシチュエーションを考えました。それは、子どもにとっては真剣なものでしたが、大人から見るとユーモアたっぷりのようにさえ見えました。
でも、それを嗤っていてよいのでしょうか。私たちはそのストーリーに怯える子どもたちを、小馬鹿にしていたのでしょうか。たぶん、そんなことはないと思います。大人は、赤ちゃんを見て、つい微笑んでしまう、ということを確認していました。可愛いからです。小さい者を守ろうとする心が、根柢にあるのです。
人間でさえそうなら、神はどうでしょうか。弱い人間を見て、微笑んでくださらないでしょうか。微笑みたく、ならないでしょうか。
少なくとも、神は、私に向かって、戦争を仕掛けようと求めているのではない、と信じます。
そのために、イエス・キリストという御子を送ってくださいました。ただ、イエス・キリストは、二千年前の特別な時代と場所に、神が遣わした、これまた特別な方でした。そこで、イエスの姿が地上で見られなくなってからは、神自らが「聖霊」という形で、人を神に結びつけてくださることになりました。
もしかすると、その「聖霊」という神ご自身の働きを、私たちは「天使」と呼ぶことがあるのかもしれません。神学的には、それらは別の存在です。でも、実質「天使」は「神の使い」として働きますから、「神」そのものに限りなく近いものとして、人間に近づいてきてくださるようにも思えます。実際、旧約聖書の時代には、天使が遣わされて人に言葉を与えるとき、人のほうは、「主よ」と言っています。
イエスも、「天使」のことを告げ知らせていました。
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天にあっていつも、天におられる私の父の御顔を仰いでいるのである。(マタイ18:10)
そうして、やがて世の終わりにイエスが再びここに来るとき、「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る」(マタイ25:31)とも言っていました。
天使はいます。天使がいるのです。「守護天使」などと呼ぶ伝統に囚われる必要はありません。あなたにも、神との間をつなぐ「天使」が、いるのです。「聖霊」がいるのと同じくらい当然に、「天使」がいるのです。「小さな者」であるあなたを守るために。そして、あなたが「小さな者」を守るために、「天使」はいまもいつでも、あなたのところに、いるのです。神とつながっている「小さな者」すべての上に、確かに天使がいるのです。