霊的な解釈の意義
2025年1月22日

新約聖書は、ギリシア語で書かれている。どうしてか。そんな考察や研究もある。いまは拘泥しない。イエスがギリシア語を話していたようには、通常考えられていない。相応しい喩えかどうか分からないが、日本語で話していた知者の言葉が、英語で遺されているのが、新約聖書という文献である、となぞらえると近いような気がする。
「源氏物語」を英訳したものがある。その英語だけを読んだとする。「あはれ」という語が、たとえば「strangely stirred」と訳されているのを見る。この英語の意味を分析して、「奇妙な具合に掻き回されることだ」と言い直して、それが「あはれ」の意味なのだ、と断言したらどうだろう。
もちろんそのようなニュアンスで説明できる、と信じて訳者はその語を検討したのであるし、大きく的外れであると言うことは当然できないであろう。だが、その意味に限定してしまって、それこそが「あはれ」の本質だ、というように決めつけてしまうのは、ためらうのが普通ではないだろうか。(実際は、同じ「あはれ」を、様々な英語表現でその都度訳しており、原語の「あはれ」がどこにあるのか分からないほどである。)
福音書のギリシア語の意味を根拠に、聖書はこれこれのことを言っているに決まっている、と断言する勇気は、私にはない。聖書の意味はこれだ、とギリシア語から斬り込むのには、ひとつためらいをもつのである。
もちろん、学者は、邦訳しか読まない人に対して、原語がもつ特別な意味を提供してくれるという、特別な仕事をしてくれる。日本語だけのイメージで捉えていた私のような者は、原語のもつ豊かなイメージに、目を覚まされるような気がすることがある。多くのキリスト者にとっても、そうであろう。
だが、そのギリシア語解説ですら、日本語ほどではないかもしれないが、元来のものとはズレがあり得るのだ、という構えは、やはりどこかで必要だろうと思われる。
たとえば「十字架の救い」というような言い方が原文にあるわけではない、と指摘することがあるとする。それだからと言って、新約聖書が「十字架の救い」というものを否定している、と結論づけるのはどうだろうか。あるいは「贖罪の救い」を説明していないのだから、そんなものはない、と言い切ってしまうのはどうだろうか。
聖書は、聖霊の助けを証言している。聖霊が、イエスのことを教える、という証言が聖書の中にある。だとすれば、聖霊により教えられることもあるだろう。曖昧な表現だが、「霊的」な読み取り方があることは否めない。キリスト者は、聖書を通じて、イエスと出会う。イエスの十字架の前に打ちのめされて、自分の罪を赦される経験をする。この経験自体は、聖書をいくら原典で読んでも書かれていない。私自身の中での出来事は、私と聖書との出会いを通じて生まれるものである。
罪を赦された経験がない人、自分の罪と向き合ったことがない人は、聖書の言葉を文字面でしか理解できないし、表面のことだけしか語れない。せいぜい聖書学習会か、聖書講演会しか実施できない。それに対して、霊的な罪と救いの経験をもつ人の口からは、命をもたらす神の言葉が発される。そこから、神の国の出来事が生まれてくる。それは、人を生かすものである。
聖書には、そういう力があり、いまも働いている。私は、そのために証言をしている。