聖書の言葉を希望のために

2025年1月20日

以前、ペットの死を心配している、地震の被災者がいた。心細くなっているときに、ペットが老齢化していたのだった。若いクリスチャンだった。つまり聖書からすれば、動物がともに天国に行けるという話は、あまり聞かれなかったわけである。
 
しかし、人間が読み取って教義に仕立て上げたものが、聖書の言おうとしていることであるのか、そんなことは分からない。聖書には様々な読み取り方がある、というのは常識である。私はその人に、祈って希望をもちましょう、という方向で声をかけた。SNSを介して、こうしたつながりができるのは、時に心強いことと思えるであろう。実際、教会が被害を受けたその人にとり、必要なことは慰めの方向であることは明らかだった。
 
ところが、他の投稿者が、その人に意見を言い放った。聖書にはこれこれと書いてあり、動物は救われないのだ、というようなことを、断定的な、きつい言い方で突きつけてきたのだった。
 
そのため、その人は「そうですね」という言葉を返し、やがてそのアカウントが消えてしまった。
 
聖書の言葉を、自分の信念に従って理解すること自体は、もちろんひとつの信仰として、握りしめたらよいだろうと思う。しかし、自分の理解を唯一絶対の教義であり真理であるとして、他人に押しつけることについては、私は賛成しない。それにより相手が希望をもつことであるなら、それはそれでいい。相手が生かされてゆく方向であれば、声をかけて励ましたらいいと思う。恐らく新約聖書の「手紙」にある言葉は、その方向で記されたものではないか、と私は受け止めている。
 
だが、聖書の告げていることは、必ずしも数学の公式のように誰が見ても同様に定められているものとは言えない。諺には、「急がば回れ」もあれば、「急いては事をし損じる」もあり、正反対の知恵をもたらすものがある。私はそれを矛盾だとは思わない。聖書も同様に、人間には何かしら逆のように見える知恵が鏤められているように思われる。それを、自分に都合の好い一方向のものを、唯一の真理であるかのように掲げて、人の心を痛めつけるように用いることは、少なくとも「愛」という聖書の原理から最も遠いことではないか、と捉えている。
 
不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。(マタイ24:12)
 
これも終末のしるしであるのかもしれないが(それを私は決めつけはしないが)、聖書の言葉は、それを信じることで希望をもたらすものだ、ということを伝え続けたい。他方、それを潰すような聖書理解を強弁する人や、なんら命をもたらすことのない聖書説明会を礼拝と詐称するような人に対しては、厳しい態度で臨みたいと思っている。



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