無神論についてのひとつの思い

2025年1月10日

「ぼくは無神論者です」と公言する人がいる。日本人はそのように口にすることが多いらしい。しかし、海外のポピュラーな文化からすれば、それは人間として大丈夫か、と見られことすらあるらしい。いまは昔ほどではなくなった、とも見られるけれども。
 
日本人の口にする「無神論」という意味は、特定の宗教宗派の信仰をもち、勤めているわけではない、という意味のことが多い。「無神論」と標榜する人が初詣に出かけたり、亡くなった人に手を合わせたりする。たいへんな自体に遭遇したら、祈ることすらする。パワースポットだのスピリチュアルだの、霊的なことを否定しないで、「無神論」だと称することに、何の齟齬も見出さない場合があるのである。
 
厳密な意味で論ずる立場の人からすると、無神論であることは、非常に難しく厳しいのではないか、とも言われる。少なくとも、何かを「信じる」ということについては、ひとはそれなしでは生きてゆけないはずである。問題は、その「信じる」対象が「神」であることはできない、という点である。
 
それではその「神」とは何か。国語の読解のための文章で、プラトンが神の真理を云々、というような件があった。中学生がそれを読み解くのだが、そこだけ読むと、誤解を招くかと思い、私は少しばかり立ち入った解説をした。
 
ここで「神」と呼ぶのは、キリスト教の神をイメージすることのできない存在である。強いていうなら、何かしら絶対のもの、物事の根拠になるものを想定して、「神」と呼んでいるような具合だ。そもそもプラトンは、ソクラテスに言わせているところによると、せいぜい「神々」というレベルであり、その意味では、日本人が素朴に頭に思い浮かべる神々のほうに近い、とも考えられる。
 
そもそも「神」という言葉でキリスト教の神を呼ぶことに、問題があった、とも言える。日本語で「カミ」と呼ぶものは、決して聖書の神ではない。あまりにもかけ離れた対象である。それが、明治以降、キリスト教がそれなりに社会の中に位置し、時に社会や文化、あるいは教育をリードするようになってからは、キリスト教の「神」という語が、その言葉のメインになりかねない勢いである。
 
それは、例えば「愛」という語を頭に置けば、それなりに理解できる。「愛」とは本来、言うなれば「自己愛」のようなことだった。しかし聖書でいうそれは、全く反対のことだと言えよう。そしていまの社会で「愛」というとき、ベースはこちらのほうにあると思われる。
 
「神」は微妙である。神社を想定して「神」というのは、まだ日本人の生活のベースとなっているように見える。他方、わざわざ「神」と呼ぶとき、それはキリスト教的な神をイメージさせる力もあるようにも思われる。つまり、観念的には後者だが、生活に根づいた根本的なところでは、神社の神々である、という印象がある。
 
「無神論者」というとき、この神社的なものを排除しているようには思えないのが、私の見立てである。もちろん、個人差が大きいだろう。一人ひとり、神観念は異なっていてよい。また、異なるというそのこと自体が、日本古来の「神々」の思想のなせる業でもあるだろう。一神教的な方面だと、一定の理解を外れた信仰は、「異端」として弾かれやすくなるからである。しかし日本では、どれをも受け容れる素地がある。
 
但し、神々を受け容れるならば、キリスト教の神をも最初から受け容れたはずだが、政治的にはそうではなかった。そして、それを迫害したのも事実である。他方、教会にこそ神があり、神が味方をする組織なのだ、という「信仰」が力をもつ支配の仕方をするようになって、今度は教会が、迫害を加える側になってしまった歴史も、確かにあった。
 
このとき、教会こそが、「無神論」を信奉していた、と考えることは、不適切だろうか。その危険はまた、組織だけに限定されるものではない。組織そのものも、人間がつくったものである。私たち一人ひとりが、自分を神とし、またそのことに気づいていないでいると、ひたすら暴走をすることになり、神が無いものとして振る舞う一方になるであろう。確かに、これは「無神」状態である。それを正当化するようであると、まさに「無神論」ということになるではないか。
 
まるで、「無神論」のほうが少数であるかのような扱いがあると思われるが、むしろ、「有神論」であることのほうが、人間にとり、大きな目標であると見たほうがよいのかもしれない。



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