死せる教会とは
2025年1月8日

「死せる教会とは、殺された教会に他ならない。教会を殺す者は、説教壇に立っている。しかも、それを知らないのだ。」(イーヴァント)
年頭からきつい言葉を、或る本の中に見出した。教会を殺す者が誰であるのか、これを、神学者とは言いながら、自ら説教を語ったイーヴァントが語った。自分自身への警告でもあっただろう。だがまた、「教会」という世界が、瀕死でいることから命を得るために必要なものを指摘することに必死だった、とも言えるだろう。
とくに、自分のことがちっとも分かっていない、という締め括りがまた強烈である。だがそれは仕方のないことだ。教室で小テストを実施し、生徒に自己採点をさせると、自分のためにならない粗い採点が多くなる。間違った漢字でも丸をつけているし、英字で「v」にしか見えないものでも、自分では「r」と書いたつもりで丸にする。まして、自分が神の言葉を語っているかどうか、ということになると、語っていない、という評価は基本的にできない。本物を知っているからこそ、偽物が判別できるのであって、しょせん偽物しか知らない者は、偽物だと気づくことはできないのだ。
だから、周囲の者が、気づいてやらねばならない。牧師のために祈る、というのは当然適切なことなのであるが、牧師が福音を語る能力がない、という点については、信徒の側が本来分かるはずである。教会組織の制度にもよるが、信徒が牧師を招き受け容れるという形の場合には、その牧師に改善を促した上で、いよいよそれができないような人間であるならば、退いてもらわなければならないであろう。
「この聖書の言葉の意味は◯◯です」
「ここから、◯◯であることが分かります」
「私たちも◯◯しましょう」
教会というところで実際に私の体験したことのある、「ベタベタ三段論法」である。ひたすらこれが繰り返される。毎回、これでしか話すことができない人がいる。この人はダメだ、と指摘したが、どうやら他の信徒はこれをありがたがっているらしく、どこに問題があるのか、全く気づかないのであった。以前の牧師は、もう少し口が巧かったが、本質的には同様であったようだから、信徒はこういうものが説教である、と思いこまされてしまっているらしい。福音や救い、恵みというものにもはや関心がないように変えられてしまっており、仲良し倶楽部を楽しんでいればよい、いうことになっていたようである。
話す方とすれば、罪とか救いとかいうことがよく分からないでも、たとえば親が牧師であり、小さな頃から教会にいれば、いくらかの知識も増えるわけで、これまた罪とか救いとかいうことに関心のない「神学校」を出れば、牧師という地位が手に入るということになる。教科書を棒読みするような「ベタベタ三段論法」で説教というものはうまくできたと思うらしく、時折、間に政治の悪口でも挟んでおけば、どうやら洒落た講演会が完成すると信じているように見える。
仲良し倶楽部の教会は、仲良しになれない人をいじめることも平気であり、教会の規則を掲げて、心を傷つけることも正義だと考えている様子も見られる。誰の良心も痛まないようであった。命を与えるどころか、傷つけている自分の姿すら感じ取るほどの心も持ち合わせていない。それほど、人は自分のしていることが分からない。もちろん、私はその最たる者である。
聖書の言葉は、ひとを生かすものだ、と私は信じている。ひとを生かすその言葉を、生かすために用いることのできない語り手と教会組織は、命をもたらすことができなくなってしまう。イーヴァントの言う「死せる教会」とは、こういう事例に尽きるものではないと思うが、黙示録にもある「実は死んでいる」(3:1)という指摘は、決して比喩的なものではなかったということを、私は肌で感じたのだった。それも、一度や二度ではない。
あなたの教会の説教壇から語られる礼拝説教は、命をもたらすものであるだろうか。信徒の覚醒があれば、教会は復活する。「まぁこんなものだろう」とか「波風を立てないようにしよう」とか思っているうちに、あなたも命を失うことになるだろう。新たな年、確かな希望を与えられるように、共に光を受けたいと願うばかりである。
そして、命の言葉が常に語られている教会には、その命が一人ひとりに行き渡り、地域や周囲の人々までもが、喜びに満たされることを祝福したい。