冬至とクリスマス

2024年12月21日

2024年は12月21日が冬至であるという。しかもその18:20頃が、真の「冬至」と言えるらしい。天文に関する計算をする人には、頭が下がる。尤も、近代において、天文学を確立した人々は、コンピュータもない時代に、大した観測機もないままに、よくぞ星の軌道を計算したものだと思うし、振り返れば古代ギリシアや中東の文明においても、天体については実によく調べられていたというから、人類の知恵には驚かされるばかりである。いったい自分には何の知識があるのだろう、と哀しくなる。
 
ちょうどいま、NHKで「チ。」というアニメが放映されている。あまりに怖い画なので、私は正視できないのだが、津田健次郎の声だけでも、震え上がってしまう。カタカナの「チ。」というタイトルは、この物語の中核をなす「地動説」の「地」を第一に表すものであろう。が、そこに人類の「知」の挑戦があり、そのために「血」が流されたという意味がこめられているのだと思われる。
 
もちろんフィクションであるのだが、「天動説」が常識だった、という点はまだ理解できるとして、どうして「地動説」を研究する者が直ちに否定され、命すら狙われたのだろうか。それは、「神の教えに反する」という建前を理由としたからである。教会が権力をもってしまうと、それは暴力にすらなるということの実例である。同性愛者に対する迫害もそうだ。
 
いま日本の教会には、そういう社会的権力はない。それならば暴力はないのか、というと、必ずしもそうではないように思う。人間が集まるところ、必ずしも理想郷とはならないものだ。「教会」というところに過大な期待をすると、辛い思いをさせられるかもしれない。しかしまた、ずっと安心できる、平和な場所であることも十分可能であるので、何も悲観ばかりする必要もない。
 
クリスマスシーズンである。クリスマスは、イエス・キリストが人となってこの世界に生まれた、ということを記念する礼拝である。聖書の中には、イエスが生まれたことについての有名な記事がある。だが、その時期についての記述はない。どうやら、ローマ帝国にあった冬至の祭りをキリスト教のために利用した、という事情があるらしい。最も昼の長さが短い時季を、闇の時代に喩え、この後昼が次第に長くなること、つまり希望の光が射してくることを、願うような心なのだろうか。
 
イエス・キリストの現れによって、人類には平和が始まるはずだった。だが、人間の罪は、それを妨げ続けてきた。私たちは、それを食い止めることができないのだろうか。それだけの知恵をも、もはや持ち合わせていないのだろうか。
 
自らに憤りながら、クリスマスを想う。



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