「正しさ」へのひとつの考察
2024年12月13日

悪口めいた書き方はしたくないが、ここから見える事実は示す必要があると思い、記す。事実に反することにお気づきのときには、お知らせくだされば修正したい。私の直接的な体験でないことについては、訂正することに吝かではない。
それは、「統一協会」のことである。いまはいろいろ呼称が変わっている。ここで触れるこの団体の過去のことは、現在のその団体と同じであると決めつけているわけではない。確かに大学サークルで名を隠して活動しているという報告もあるが、ここに挙げたのは、さしあたり少しばかり遠くなった過去のことである。そのとき、あるいはその後現れる関係諸団体の一つひとつを区別して紹介するつもりではないため、この呼び方でまとめて言わせて戴くことにする。なお、キリスト教関係から呼ぶときには、世間でしばしば表記される「統一教会」というものでなく、本来その団体が「協会」と名乗っていたことと、キリスト教会とを区別するために、「統一協会」と表記することが多いので、ここでもそれに従うことにする。
私が教会に行き始めた頃のことである。世間で少しずつ、その活動が問題視され始めていた。それまでも、一部で社会問題として取り上げられていたことも、私は教会に行って初めてその意味が分かってきた、という具合だった。
若者が家を出て花売りに勤しむ、といった報告があった。実際妻の知人にそうした人がいた。私の触れた相手は、四つ葉のキーホルダーやハンカチを訪問販売していた。それは私が京都から福岡に戻ってからも出会った。実際、職場に現れたのだ。受付の職員が対応に困っていたが、事情を知る私が助言して帰ってもらった。
その売り込みは、福祉目的という言い方だった。そして、確かに表向き福祉事業をしていますよ、という宣伝はしていたのだが、調べてみると、その会計はとても全国でこの物売りをして集めたと推測される額全部とは思えず、そのうちのわずかだけ寄付しているとしか考えられない報告が出ていた。気の毒に、末端の信者というか部下たちは、教団に金を渡すために、なんの報酬もないこうした働きを、一日中させられているのだった。
それが信仰だ、と思いこまされてしまうと、社会常識はすべて悪魔の仕業として退けるように心が働く。確かに、キリスト教にはそういう側面がある。「正統的」と称している教会や信仰の考え方からしても、世との軋轢を生じているケースがないわけではない。古代ローマ帝国でも、そこが迫害の理由になっていたことがあるし、本質的にそういう傾向があって然るべき、という点も私は認める。しかし、統一協会は、金を集める目的がはっきりしていた。それは政治的な目的だ、と言ってもいい。実際、アメリカでもそれは宗教団体というよりは、政治団体として認識されていたことがある。
だから、安倍元首相も、その一族からしてかねてから統一協会と深いつながりがあったのであり、それがなかったらあのような形で命を落とすこともなかったであろうと想像される。これもまた気の毒なことであった。
京都では、当時ビデオルームに誘う手法も実際行われていた。アンケートと称して通行人を立ち止まらせ、心の問題に関心があったら、いいビデオがあるのだ、と四条烏丸にあるビデオセンターに導くのである。これは、実際私もそのアンケートを受けたことがあるから、単なる噂や又聞きではない。
芸能人を加えての、「合同結婚式」もあった。これは、マスコミを大いに賑わせた。宗教的背景がよく分からないマスコミは、ただその異様な風景をセンセーショナルに報道していた。また、「霊感商法」という言葉が人々に知られるようになったのも、この頃からであっただろうと思う。これもまた、マスコミにとっては恰好の取材材料となっていた。「マインドコントロール」という言葉も、マスコミがしきりに宣伝していた。そこで、家を出た若者をその家族がキリスト教の牧師などのグループに頼み、統一協会組織から連れ出して「救出」するようなこともあった。が、それは統一協会側からすれば、自分の意志でそこに来た若者を、家族が「拉致」したのだ、と訴える口実にもなった。何が正しいか、というのは判断しづらいことのようだ。
マスコミの報道の功罪はともかくとして、やはり人々が意識したり考えたりするようになったのは、意義はあっただろうと思われる。
原理研究会という名前で、大学生を集めていたのもその頃であった。私は当時、京大会館の近くに下宿していた。その会館で、時折原理研究会の集会が開かれていた。その会の学生たちが周囲を見張るような形で、ものものしい雰囲気があった。そして近くにいる若者をそこへ誘おうと、下宿を訪ねてくることもあった。
これも私が直に体験したので間違いのないことだが、深夜に学生マンションの三階の窓から入ってきたその学生は、私に議論を挑んできた。私がドアに十字架を掛けていたいたからであろう。私も若かった。部屋には入れなかったが、ドアの外で、彼と議論をしてしまった。なんとかこの学生に、聖書を分かってもらおうとしたのである。他の部屋の住人は、真夜中にきっとうるさかったことだろう。よく文句を言ってこなかったものだ。いまとなっては赤面する。
もちろん、完全に平行線であった。聖書がどう言っているのであれ、彼らは『原理講論』を聖書の上に置いていたから、それが聖書を正しく解釈している、という点についてブレることがなかった。
家庭平和を説く団体も、このグループのひとつだった。「純潔」を掲げると、そうしたことに惹かれる人は一定数いるわけで、これもまた政治家の一部を巻き込む力をもっていた。
そしてここから言いたいことのひとつは、正統的と称するキリスト教が、こうした一途な「原理」や「純潔」といったものについて、太刀打ちできない、という現実である。統一協会関係の団体やその教えのほうがよほど美しく、正しいように見える場合があるのは、キリスト教会一般が、正しく美しいものとして見えなくなってきている、という実態があるのではないか。
もちろん言葉としては、常套句として「敬虔なクリスチャン」という言葉がある。実際、そうした尊敬すべき人もたくさんいる。しかし、百年近く遡ると、キリスト教会の語り方は、もっと厳しく激しかったのは確かだろう。名説教者の語ったものや、当時の記憶の証言からすると、信仰の指導がずいぶんと荒々しかったのを見ることがある。現在それがなされていたら、完全に「ハラスメント」とされるようなことも当たり前になされていた。
また、これは牧師から聞いた話ではあるのだが、福音派と呼ばれる教会の中でも、信徒との意見の相違が出たときに、これまで献金してきたのは騙されていたのだ、と訴えられる、そういうケースもあったらしい。
こうなると、何が正しくて何が正しくないか、ということなど、客観的な基準など分からなくなってくる。そう、哲学的な指摘からすれば、「正義」が一意的に、あるいは原理的に決まることはたぶんないのだ。信仰は、正しさを決定するものではない。聖書が正しいとするのは、神のことに限る。
しかし、ひとは自分が正しいと考えているからこそ、行動できる。一旦はそのように考えていないと、行動はできないものである。問題は、それが絶対化することである。さしあたりの正しさは必要だが、それが絶対化すると、危険に変わる。独裁主義も、そのように何らかの「正しさ」を示したために人々が賛同したわけであるが、それがやがて絶対化することによって、暴走が始まった、と言えるかもしれない。
また、それは一部の権力者や独裁者だけの責任にしがちなのが、歴史を眺める私たちの「癖」だが、これも自覚しておかなければなるまい。悪いのは政治だ、悪いのは独裁者だ、こう言うといかにも「正しい」ようだが、自分だけはつねに現場の外にいて、責任がないように振る舞うのが、人間の「癖」である。自分は例外だ、とするのが、近代的自我であった。私たちは、神を基準に置かなくなった近代的自我という標準を基礎に、世界を見る「癖」に染まってしまった。こうして呟く私もまた、その一人である。