主語と述語

2024年12月9日

国語では、小学校の低学年から指導される。主語と述語という考え方である。日本語には主語と述語がある。そのように学ぶのだが、省略されている場合には「×」を入れなさい、などと言われて戸惑う子どももいる。
 
解き方は、先ず述語から探す、というのがセオリーである。日本語では、「普通」文の最後にくるのが述語だ。それを確認したら、それがいったい「何が」「誰が」そうなのかを考えなさい。それが主語なのである。このように教えて、だいたい理解できるようになる。それはそれでよいと思う。
 
日本文化は、述語を後回しにする。韓国語などもそうだというが、この述語の後回しは、日本人のものの考え方に大きな影響を与えていると考えられる。相手の顔色を窺いながら、結論を変えることすらできるのである。自分の意志よりも、その場の雰囲気や相手の反応を優先することが可能な構造になっている。そうやって日本人は、相手との関係を築くことを重視する場合があるのである。
 
だが欧米語は一般に、主語に続いて述語を先に言い切ってしまう。結論について、自分の主張を相手にぶつけることを厭わない。忖度よりも、まず自身の意志を表すことが優先する場合が多いように思われる。但し以下、私の拙い知識が混じるので、内容については眉に唾をつけてお読みくだされば幸いである。
 
このことは、英語教育の場合によく伝える必要のあることである。信じられないような問題が、英語の問題の中に必ず出てくる。単語がばらばらに並べられていて、それらの単語を並べ替えて、英文をつくれ、というものである。英語の実用上、このような作業をする機会はまずない。何故こういう奇妙な出題をする必要があるのか。それは、英語の語順が日本語と大きく違うからである。そして、英語という言語が、語の順序を以て意味を伝える仕組みになっているからである。
 
それは、英語の単語から、「格」を示す語尾が抜け落ちていったことに関係すると思われる。日本語で言えば、助詞のような働きをする、「格」を示す語尾がなくなると、語を並べる順序で「格」を伝える必要が出てくるわけである。
 
この英語が、基本的に、主語・述語をまず置く構造になっていることを、よほど滲透させなければならない。あの不思議な問題は、そのために考えさせるのではないか、というのが私の個人的な想像である。
 
このような文化理解のために、日本語にも「主語と述語」という構造を当てはめたのではないか、というのが、無知な私の見解である。本当は、この「主語」という問題には様々な側面があり、こんなに単純な議論でなんとかなるものではないから、関心をもたれた方は深く学んで戴きたい。
 
英語は様々な言語が雑多に入り混じってできており、決して西欧語の代表として機能するものとは思えない。西欧語のルーツとしては、アルファベットが言語として成立したギリシア語が想定されている。ギリシア語は、「格」が実に多様に設定されている。「格」や「数」と「時制」とで様々に語が変化するので、ギリシア語の学習のためには活用表が膨大な形で用意されている。私が途中で挫折しているのは、そのためである。
 
このギリシア語は、「格」が全部備えられているので、語順は自由である。もちろんある程度型というものはあるのだが、日本語と同様に、順序は自由に考えられていると言ってよい。何が言いたいかというと、このギリシア語は、代名詞の主語は省略するのが普通だ、ということである。日本語と同様なのである。確かに「主格」というものはあるのだが、「主語」が必需とされていないわけである。西欧語は「主語」が絶対に必要だ、という考え方は成立しないのだ。
 
だとしたら、日本語にも、どうしても「主語」と呼ばねばならない文法が構造としてある、と決めなくてもよいかもしれない。実際、「日本語に主語は必要ない」という路線で考えを述べている人もいる。
 
しかし私は、この「主語」という捉え方が、極めて近代的な世界観を反映しているのではないか、と思うようになった。哲学の世界では常識的なのだが、この「主語」という語は、時に「主体」と訳すものである。「主体」と「客体」との対比の中で、「主体」は行為的な意味合いを含んで用いられる。行為を意識せずに認識だけで捉えると、「主観」である。これもまた、同じ語である。そして、「主観」と「客観」を厳しく対立させる世界観は、デカルトの時代以降の近代の特徴だとされている。
 
中世の、神主体の世界観から、人間主体の世界観への変革が、その背景にある。もちろん、その是非を問うているのではないが、「主語」という意識を強く立てることで、私たちは益々、人間中心の思想を助長しているような気がしてならない。
 
ギリシア語には謎の「中動態」ではない。以前から「自身」と訳すものだ、などと教えられてきたが、最近、「行為が自分に還ってくる概念」として捉える考え方が注目されている。そうすると「能動態」は、「行為が自分の外へ向かうだけの概念」となるのであるといい、本来この二つの「態」が対比されるものであった、ということになるらしい。
 
「主語と述語」は、必ずしも当然のもので、前提とされるとは限らない。だから、人間が主体であるに決まっている、という前提でよいのかどうか、問い直す必要があるように思えてならないのである。



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