【メッセージ】神の形でありながら

2024年12月8日

(フィリピ2:6-7, イザヤ52:13-15)

キリストは
神の形でありながら
神と等しくあることに固執しようとは思わず
かえって自分を無にして
僕の形をとり
人間と同じ者になられました。(フィリピ2:6-7)
 
◆幸福な王子
 
いまは流行らないのでしょうか。昔は童話の定番でした。『幸福な王子』というお話です。オスカー・ワイルドという作家を、キリスト者でも意識しないことが多くなったかもしれません。そう、『サロメ』という戯曲の作者です。ビアズリーのイラストもショッキングでした。
 
町の中心に、きらびやかな王子の像がありました。「幸福な王子」と称されています。王子は、町の不幸な人々をそこから見渡していました。なんとかしてあげたいという心で。そこへ一羽のツバメが来て、王子の像の足元で休息をとります。そこで王子は、ツバメに頼みました。この剣についた飾りのルビーを、あの貧しい母親に届けておくれ。すると次々と、ツバメは用事を託されます。王子の目のサファイアも運ばせます。ツバメは意を決し、もはや見えなくなった王子に、町の様子を語って聞かせました。王子はその度に、自分のからだについた宝石や価値あるものを全部ツバメに持って行かせます。ツバメはついに冬に耐えきれず死に、王子ももう意識がなくなります。人々は、王子の像とツバメを、ゴミ溜めに棄ててしまいます。
 
実はこの最後の場面で、神の報いが描かれるのですが、それはここでは明かさないように致しましょう。気になる方は、ぜひお読みください。さほど長いお話ではないので、すぐに読み終えるだろうと思います。
 
みすぼらしくなった王子の像を、人々は、町の恥だと壊して棄ててしまいました。そうです。私もそうしていました。私はイエスの愛に気づかず、粗末に扱ってきました。イエス・キリストの業を無にして生きていたのであり、イエスの犠牲を蔑ろに棄てていたのです。
 
日本人がこの物語をどう思うか、気になります。概して、「なんと馬鹿なことをしたんだ」と思うのが本音ではないでしょうか。表向き、「立派だねえ」などと同情するかもしれませんが、「自分もそのように生きたい」などと考える人は滅多にいないでしょう。自分とは関係がない、そんなことはできない、このひと偉いねえ、それくらいで通り過ぎてしまうのではないかと思うのです。
 
ワイルドは、アイルランドからイギリスに住んだ人で、19世紀最後の年に亡くなりました。ワイルドは、ゲイだということで犯罪者とされ、投獄されてしまいます。病気のため46歳という若さでこの世を去りました。彼を死に追い込んだのは、教会が定める道徳に包まれた社会でした。あるいは、教会だった、と言うべきではないでしょうか。
 
そのような境遇の中で、ワイルドが遺した珠玉の作品が、この『幸福な王子』であったと言えます。まるで、そこに描かれた姿に、自分自身を重ねるような気持ち、あるいは憧れというものを、ずっと抱きしめていたのではなかったか、と私は空を見上げて思います。きっと自分にも、神の報いが最後はあるだろう、と希望を懐きながら。
 
◆モルフェーと無
 
神が登場するという点もそうなのですが、この物語のモチーフ自体が、聖書に基づいていることは、お分かりだろうと思います。いえ、神が最後に登場するから、という意味ではありません。この王子の姿です。自分の身を削ってひとの幸福のために尽くす姿は、福音書のイエスを彷彿とさせるような気がしてなりません。
 
貧しいひとを救うために、自分の身をぼろぼろにした王子。王子の魂を宿した立像でした。それは、すべての人に救いの道を敷くために、ぼろぼろの姿で十字架の上で残酷な死を遂げた、イエスの姿と重なります。人に棄てられた王子の像は、人間たちに殺されたイエスの姿と似たところがあるとは言えないでしょうか。
 
そのイエスが、キリストだ、というのが私たちの信仰です。キリストとは「救い主」というような意味です。そのようなキリストの姿を、キリスト教の最初の偉大な伝道者パウロは、伝えるために簡潔な表現を調えていました。今日開いた新約聖書フィリピの信徒への手紙2章の6節と7節です。
 
6:キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず 7:かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。
 
キリストは「神の形」であったといいます。それが、人間と同じになった、つまり「僕の形」をとった、と言っています。少し分かりにくい言葉が混じりました。「形」とは何でしょうか。これは、新改訳聖書では「姿」のように訳し、カトリックのフランシスコ会訳では「身」という訳語にしていました。同じ日本聖書協会でも、新共同訳では「身分」です。面白いと思いませんか。最近の代表的な訳が、すべて違う言葉で訳しているのです。それほど、訳しにくいという証拠だと言えましょう。
 
ギリシア語の原語では「モルフェー」という語が使われています。哲学の方面では時折注目される語です。元来ギリシア神話の「夢の神」の名に使われるようになった語で、元々は「形作るもの」「形式」といった意味で使われます。ギリシア哲学で「形相」という日本語訳のつく言葉は「エイドス」ですが、感覚的な事物のエイドスについて、モルフェーと呼ぶことがあります。やたら解説めいたことはしませんが、「目に見える形」だと言っておくと、ここでの意味は非常に明確になろうかと思います。
 
キリストは、神そのものとして目に見えてもよかったはずなのに、実際のところ、見た目は全く奴隷としてこの世界に現れたのだ、というのです。「僕」とやんわり訳されている語も、私たちの感覚からすると「奴隷」と呼んだほうがしっくりくると思います。
 
ここでもうひとつ、「自分を無にして」という言葉が気になります。
 
7:かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。
 
僕の形、姿をとったのは、自分を無にしたからである、というのです。新共同訳も同様ですが、新改訳とフランシスコ会訳では、「空しく」(後者はひらがな)としてあり、フランシスコ会訳には注釈で、他の訳もあることが載せられていました。
 
「無」というと、日本思想では独特の意味合いをもち、西欧哲学では捉えきれない概念となりかねませんが、訳語の他に、空虚なもの、無効なもの、のようなニュアンスを思い描いておくと、考える助けになるかもしれません。
 
◆イエス・キリスト
 
今でこそ、少子化が問題となり、生まれた子どもは社会の宝であるかのようにも見られていますが、昔は、子どもが健康に成長するということは、簡単なことではありませんでした。また、子どもという存在は、不完全なものとも見なされ、そもそも「子ども」という捉え方すらまともになされていなかったのが当たり前でもあった歴史も遺されています。正に子どもは「無」であったようなものです。
 
幼子のようにならなければ神に国に入れない、という新約聖書の教えは有名ですが、子どもは実に無価値なもの、粗末に扱われて当然のもの、という社会認識があった中で言われたことだったからこそ、この教えは衝撃的だったかもしれません。
 
その背景を考えれば、イエス・キリストについて、マタイ伝やルカ伝が、無力な赤ちゃんとして生まれたことを記すことには、特別な意味が伴っていた、と見ることもできるでしょう。イエスは赤児として、無力なものとしてこの世に来た、というわけです。
 
さらにイエスは、福音書の中では、確かに弟子たちからすれば師ではあったのでしょうが、社会的権威のある人々からは軽く扱われていたように見えます。時に石を投げられ、パンをくれる便利な人という程度にさえ見られ、言うなれば軽く見られていたのではなかったでしょうか。反社会的な言動もあったわけで、弟子たちは、こうして見るとよくぞイエスについて行ったものだ、という気がします。いまで言うなら、奇妙な新興宗教に出家するようなものではないかと思えるのです。
 
ただ、当時でも、旧約聖書は神の言葉として権威のあるものでした。イザヤ書52章が次のように宣言しています。メシアの預言をしていると解釈されますが、イスラエルの重要な登場人物が、損なわれた姿を呈しつつも、人間が思いもよらない結果をもたらすというのです。
 
13:見よ、わが僕は栄える。/彼は高められ、上げられ、はるかに高くなる。
14:多くの人が彼のことで驚いたように/その姿は損なわれ、人のようではなく/姿形は人の子らとは違っていた。
15:そうして、彼は多くの国民を驚かせる。/王たちは彼について口を閉ざす。/彼らは、自分たちに告げられていなかったことを見/聞いていなかったことを悟るからだ。
 
決してヒーローではありません。カッコいい姿を見せはしません。ただ神が認めています。神はメシアを知り、メシアは神の言葉を告げ、神の意志を実現します。イスラエルの救いのために立ち上がります。
 
キリスト者は、このような存在として、イエス・キリストを理解します。それが、キリスト教の信仰というものです。
 
◆偉いねえ
 
さて、いま私たちは、おもに日本人に向けて、伝道の思いを抱き、現実に伝道していますが、果たしてイエス・キリストは、日本人にどのように映るものでしょうか。キリスト者が慕い誇るようなイエスの姿を知らせても、このイエス・キリストの生涯に対して、日本人が心を打つというようなことが、あるのでしょうか。
 
具体的には、先ほどの「幸福な王子」についてはどうでしょう。確かに、「偉いねぇ」「真似できないねぇ」との声は出てくるだろうと思います。しかし、「私もそのようにしよう」という思いが芽生える気配はないような気がします。美しい物語としては認めるし、涙のひとつも流すかもしれません。でも、お話を読み終われば、脇を通り過ぎて、過去の池の中に沈めるような代物でしかないのではないでしょうか。
 
立派な行為だとは認めます。しかし、幸福な王子もツバメも、可哀想な存在でしかなく、結局私たちは、それを遠巻きに眺めるだけで終わるように思うのです。胸を打つかもしれませんが、それで自分が変わるという経験をすることもなく、自分とは関わりをもつ気持ちにはなれないのです。
 
キリストの十字架。信徒は、それを自分のためだと捉えます。しかし、関心のない人には、何の意味もない、ただの歴史めいた事柄なのでしょう。たとえ自分は信徒です、という顔をしていたところで、遠い他人事のように感じている人もあろうかと思います。
 
信仰が分かる、などというと少し高慢なように聞こえるかもしれませんが、「信じる」というのは、要するにそこのところに関わるものだと言えるでしょう。キリストの十字架が、自分と関係があるかどうか、です。仮に、「気の毒に」という感情が芽生えたとしても、幸福な王子の物語を読んでいる程度の感覚であったら、果たして「信じている」と言えるのかどうか、疑問です。「偉いねぇ」と、遠巻きに見る群衆と、さして変わらないままでいるような気がします。
 
日本人の中には、我が身を犠牲にしたクリスチャンや、聖書を読んでいた人がいて、その話が伝わっています。田中正造もそうでしょう。足尾銅山の鉱害に苦しむ人々のために、全財産と命を懸けて議員として果てました。石井十次は行く宛のない孤児たちを育てました。北原玲子(さとこ)は「蟻の街のマリア」とも呼ばれ、短い命を貧困の人々のために尽くしました。賀川豊彦とその妻が、貧民の中に暮らし、生活を全うに立ててゆくために生涯を用い、いまの生協活動の基本をつくったことも、よく知られています。でも、私たちはその人たちのことをどう見ているでしょう。「偉いねぇ」で終わっているだけではないのでしょうか。
 
もちろん、同じことをしないからダメだ、というようなことを言っているのではありません。そうではないのです。遠巻きに眺めているだけになっている自分に気づこう、ということが言いたいのです。なぜなら、このとき恐らくその人は、キリストに対しても、遠くから見るだけで、「偉いねぇ」と溜息を漏らしているだけだからです。
 
繰り返します。イエスと同じことをしろ、と言うのではありません。そこに関わっているかどうかが問題なのです。イエスとの関係性があるのかどうか、です。遠くから他人として見る眼差しになっていないか、問い直すことが必要だ、と言っているのです。
 
そう。私たちはその意味で、「イエスに従う」ことを思わなければなりません。「そんなことできない」と言えば済むのではありません。「できない」のではなく、「しない」ことが問題なのです。「したくない」で終わっていること、しかもそれを仕方がないと自己義認していることに、気づきたいのです。私はこれを自分自身に向けて突きつけながら、語ります。
 
◆クリスマスが刻む物語
 
この冬の始まりにおいて、私はある意味で暴言を吐きました。「クリスマス」など要らない、という意味のことを言いました。聖書に12月だという根拠はないし、そもそも「クリスマス」という言葉も聖書にはありません。説教では毎年定番の場面が語られますが、信徒はもう飽き飽きした心で、しかし顔だけは笑って楽しく過ごす。世間ではキリストのことなど誰も考えない「クリスマス」が、欲望と物品や経済だけのために利用されている。
 
加藤常昭先生が、日ごとの黙想のために発刊した本があります。『み言葉の放つ光に生かされ 一日一章』という本です。毎日、短い黙想が聖句と共に掲げられています。もう何度これを年間の祈りとして読んだでしょうか。
 
その11月19日の頁に、このようなことが書いてありました。ある年の降誕祭の主日礼拝で、ちょうど連続講解説教の箇所だったために、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている」(マタイ21:13)が開かれ、それについて語った――しかし、このことを、世間のクリスマスを批判するようなことは、そこには書いてありませんでした。「単なる宗教的享楽に過ぎない祭り」という言い方をして、「クリスマスを絶好の稼ぎ時とする誘惑のなかにある私たち(、即ち教会につながるキリスト者自身が)もまた厳しく聴くべきであろう」と書いているのです。「これはただデパートや商店街だけのことではない」として。
 
さあ、クリスマスだ。一般の人を教会に呼ぶのに絶好の機会だ、どうやって宣伝しようか。この姿勢に、そこに「キリスト礼拝」がなされているのかどうか、を問うたのでした。
 
それは私の問いと、別のものではない、と思います。しかし、加藤先生も、そして私も、エホバの証人のように、クリスマスを祝わないことを勧めているわけではありません。キリストが来てくださったことをしみじみと思う礼拝や時期があってよいのです。それを、最も夜の長いこの時期に設定し、ここから光の射す時間が延びてゆく冬至の頃としたことは、人類のなかなかの知恵であったかもしれない、と思います。
 
ですから、もしこのせっかく知られるようになった「クリスマス」という言葉を用いて、しかしそこで私たちが信仰として噛みしめるべき大切な物語を刻むのだとすれば、今日の聖書の物語はどうだろうか、と言いたいのです。
 
6:キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず
7:かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。
 
神が人となったのだ。そういう物語を、噛みしめましょう。どこまでも、その深い神秘について黙想しましょう。
 
神の形でありながら、自分を無にして僕の形をとった方。それがイエスという名で、二千年ほど前に現れた方でした。この方は、単にイスラエルの王国を再建するというばかりでなく、人間の罪を思い知る者の罪を赦し、イエスに従わせ、永遠の命を与える「救い主」でありました。「救い主」という意味が、「キリスト」という称号です。
 
さあ、そのイエス・キリストとは、誰なのでしょう。新約聖書は、このイエス・キリストのことを描いた書物です。新約聖書は、イエス・キリストについて、何を綴っているのでしょうか。
 
◆自分を見てキリストを見て
 
先ほど、石井十次や北原怜子の名を出しました。賀川豊彦とその妻ハルも思い出して戴きました。確かに、同じことをしろと言われても、できません。この私などは、真っ先にその候補から逃れることでしょう。もしかすると、これを聞いて、とくに若い方の中には、では自分はそれをぜひしよう、と奮い立つ人が現れるかもしれません。素晴らしいことです。しかし、なにもそのようにけしかけているわけではないのです。
 
そのようにしてけしかけることが上手いのが、カルト宗教です。幹部なる者が、一般信徒にけしかけて、こうしなければ信仰深いとは言えないぞ、と脅して、無茶な人生を強要したり、金品を巻き上げたりする例が、この世にはあります。金や財産目当てではないにしても、純朴な人間を支配してコントロールしたいからやっている、という構造ができています。
 
よいのです。「自分にはできない」のです。「自分は無力だ」と、自己嫌悪するくらいがちょうどよいのです。但し、そこから無茶で極端なことに飛び出す必要はありません。ただ、「自分にはできない」ことを噛みしめて、ある一点を見上げるのです。
 
十字架のキリストです。
 
この方のことを、新約聖書は書いていました。神の形でありながら、人の形となったお方です。このイエス・キリストを見上げるだけでも、クリスマスの本筋であるのだ、と私は確信しています。
 
もう一度問いましょう。イエス・キリストとは誰ですか。新約聖書は、何を描いているのですか。
 
神の形でありながら、人の形となりました。しかし、人となったイエスを、人間たちはなぶり殺しにしました。その「人間たち」の中には、この私もいました。私も、罵声を浴びせ、「十字架につけろ」と叫び、イエスを死へ追いやりました。
 
しかし、イエスは三日目に復活させられます。そして今も生きています。いまここで、私に光を注いでくださっています。どこか寂しい眼差しで人間を見つめつつ、しかし救いを与え、人に喜びを授けてくださいます。人間一般を見ているのではありません。私を、この私をいまも、これからも、見ている方なのです。
 
◆自分への固執を超えて
 
イエスは私を見ています。でも、その見られている私は、なんとざまぁないのでしょう。あの「幸福な王子」のことを、私は最初他人事のように見ていましたが、イエス・キリストと出会うと、そうは思えなくなってきました。そんな自分を、キリストが見ている、となると、かなり緊張します。
 
でも、心配には及びません。私という存在は、私が思う程度の存在ではないのです。確かに、私たちは固執しています。自分とはこういう者だ、と自分の像を決めてしまいたくなります。どうしてでしょう。自分はこうだ、と定めたいからです。それがよいものである、としなくてもよいのです。何かしらわるいもの、ということでもよいのです。自分は何かしら、こういうものだ、と言葉にしてみたいし、形にしてみたいのです。それで、自分は安心するわけです。
 
それは、自分を「偶像」にすることではないでしょうか。自分から見て、これこれの形である、と自分を決めることは、自分という像を定めたい、という心理に基づいているものと思われます。しかし、イエスは私を見ています。一体どのように見ているのだろう、と不安になるかもしれません。でも、それは定めてはならないのだ、と感じます。私はこのような者だ、と決めてしまおうとするのは、私を私の思う枠に定めてしまうことだからです。自分の姿に、固執するからです。
 
6:キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず 7:かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。
 
今日はこの言葉を中心にしてきました。キリストは、神の形に固執しませんでした。自分で自分を定めようとせず、人間の形、人間と同じ者となりました。それが、クリスマスの核心であるものとして、今日はこのひととき、神の言葉を受けてきました。
 
あなたが思う自分の形に固執する必要はありません。むしろ、あなたを見つめている、あのキリストを見上げましょう。キリストが見つめていて、私もまた、キリストを見上げる。その関係を、そのつながりを、心で握りしめましょう。
 
そうして、新約聖書をさらに読み続けましょう。イエス・キリストとは誰であるのか。新約聖書は何を描いているのか。そう問い続けながら。



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