文武両道とは何か

2024年12月7日

高校への推薦入学の指導も、学習塾は営む。私は作文と、志願理由書の面倒を見ることとなった。模試や学校の定期試験など目白押しの中三生。多少の情けをかけて、提出期間には猶予をもたせた。中学校に一旦提出するというが、それより40日以上前から、都合の好いときに、と提出を求めた。だが、提出日になっても、本当に僅かなメンバーしか提出しなかった。2回目はその4週間後に定めた。ようやくちらほら出てきた。
 
最初は、さほど問題にしていなかった。多くの生徒が、判で押したように「文武両道」という言葉を、「志願理由書」の筆頭に挙げた。中には、「志願理由は文武両道です」と、訳の分からない宣言をする生徒もいた。
 
「文武両道」は、果たして志願理由なのだろうか。
 
確かに、高校には、我が校は文武両道を教育の基本にしている、と宣言しているところがある。そこで、それを見て「これだ」とでも思ったのだろうか。自分の中でさしたる理由のない生徒が、飛びついた――というのは、分からないでもない。
 
だが、やはり私は不思議に思う。どうして「文武両道」が志願理由になるのだろうか。そもそも、「文武両道」とは何であろうか。歴史的に繙くつもりはない。いまここで使われているこの言葉は、学業だけではなく、部活動、特にスポーツにも優れた学生に適用されるようになっている。
 
高校が教育の目標のようにして、この言葉を掲げるのなら分かる。だが、学生の側から、それを理由に志願する、というのは、どういう意味なのだろうか。
 
志願理由としては、たとえば将来何々の仕事をしたいがそのためには貴校での学びが必需である、というようなものがあるだろう。部活動で優れた生徒ならば、貴校の何々部で活躍したい、というのもあるだろう。そしてそれらをどちらも成し遂げたときに初めて、「文武両道」が達成できた、というものではないだろうか。つまり、「文武両道」とは目標ではなくて、結果なのだ。
 
中には、「文武両道」が理由だとした上で、自分の部活動への熱心さや中学での、さほど大きな成果ではない成績を挙げる生徒もいる。否、それが多い。そして、勉学については、何の説明もしないでいる。将来の夢ももちろんそこにはない。学業はもう何も言わないでも当たり前にできるはずである、とでも言いたいかのようである。これでは、「理由」の説明が、「両道」には決してなっていない。
 
さらに言う。スポーツ推薦というのでなかったら、学生の本分は学業と言ってよいであろう。つまり「文」という本分をどれほど真摯にやり抜くか、が中心であるはずである。しかしそれに加えて、「武」のほうでも力を惜しまず立派な成績を収める成果を出す、というところに初めて、「文武両道」ができた、ということになるはずである。本分の学業について一言も触れないで、どうして「文武両道」が自分に合っている、などというお気楽なことが言えるのであろうか。
 
さて、これで終われば、ただのぼやきである。せいぜい中学生の皆さんが、推薦入学を考えるときに参考になればよいだけのことである。だが私には悪い癖がある。これを信仰の問題と重ねてしまうのである。
 
「文武両道」という言葉は、キリスト教信仰において、何と比較できるのだろうか。私の中で結びついたのは、「信仰と行為」という問題である。短くしてみると「信行」とでも言えばよいだろうか。元来仏教用語であり、それ相応の深い意味があるのだが、キリスト教は元々仏教から、「礼拝」など数多くの言葉を戴いている。いまは仏教の方々に失礼を承知で、ここでのみ、「信行」という短い言い方をお許し戴きたい。
 
「文武両道」に相当するには、「文」が「信」であり、「武」が「行」である、とでもしておこう。これはプロテスタント的理解であることをご了承戴いて説明してみると、キリスト者にとっては「信仰」が本分である。だが、それを口先だけで言うことで終了ということではないかもしれない。それを何らかの「行為」として実現してゆくことも求められる。ただ、最初からこれらがどちらもできることを目標に掲げるというのは、信仰生活とは少し違うであろう。まず軸として信仰があるべきで、その上で行為に表していくことができた、とする。そのとき初めて、結果として、「信行」の両道が成立した、というふうに捉えることができる、と考えるのである。
 
キリスト者として生きて行くのだ、と宣言したところで、「善いことをします」が第一にあって、聖書も神も知らないのだとしたら、少し違うような気がしないだろうか。もちろん、「信仰だけはあります」と威張ってみても、何の行いもなかったら、ヤコブ書がせせら嗤うかもしれない。信仰には実りというものもあることが、パウロによっても言われているのだ。
 
それでも、やはり「信行両道」を最初から信仰するための「理由」にするというのは、なんだかズレているような気がしてならない。
 
尤も、「文武両道」には、結局それはどちらか一つに集中できずに、何かができないことの言い訳だとして批判されることもあるらしい。確かに、「二刀流」は、誰にでもできることではないはずである。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります