それはAIだからではない
2024年12月3日

11月13日の河北新報のコラム「河北春秋」に、AIの話題が綴られていた。
それは「古代エジプトの神テウトは、算術や幾何学、天文学、さらに将棋やすごろくを発明した神として知られる。中でも注目すべきは文字の発明という」という文から始まっていた。「文字を読む」ということは、実は人類史の中でも非常に新しいことであって、生物学的に遺伝子に刻み込まれているのではないのだということが、『プルーストとイカ』(マリアン・ウルフ)で指摘されていた。非常に興味深いことを正面から論じた本だった。文章を読解できない一種の障害とされる現象がいま一定の割合で見られるのだが、文字を読むということのためには、訓練が必要なのだと言い、それも生まれてからの2000日が重要だ、という実証を試みたものだった。
この神テウトが、文字を学ぶことの効用を語ると、別の神タモスが答えたという。「文字を学ぶと記憶力の訓練を怠って、忘れっぽくなる。見かけは博識になるが、書いた物を信頼し、自分の力で思い出さなくなる」のだそうだ。かの本にも、ソクラテスが自身、このことを強く主張していることが書かれていた。書き記すことで、ひとは安心して覚えなくなる。ソクラテスは、それでまた、ひとが考えなくなることをも知っていたのだろう。そのソクラテスの言明が、弟子プラトンが書き遺したことで伝わっているというのは、皮肉なことなのだろうか。この話も、プラトンの『パイドロス』から採られている。
コラムの筆者は、この「文字」を「人工知能(AI)」に置き換えて考えるべきではないか、と問題を投げかけている。
ついに、ノーベル賞までが、AI研究者に今年授与されたのであるが、「AIの危険性を発信するため」に、アメリカのグーグル社を退社した、というわけだが、「AIを心から信頼できないのに、私たちはもはやAIなしではやっていけない」という点を指摘して、文章を結んでいる。
AIのせいで考えなくなる。このような問題であるとも読めるのであるが、私は順序が逆だと思う。考えなくなったからこそ、AIが登場した、と見ることこそ必要ではないか、と考えている。もちろん、それは因果関係を表しているというよりは、レトリカルな意味においてであるけれども。
このとき、「考える」ということは、実のところかなり高い壁のことを指していることになるかもしれない。人類が書く文字を発明してからの歴史は、かの本も指摘している通り、そう古くない。そして、口承で受け継いできた文化は、文字で記録されるようになった。それにより、人類の知識は加速度的に増大した。と同時に、「考える」ことの必要度を減じてきたのも確かであろう。
しかし、その文字を使うことができたのは、人々の中でもごく一部の、いわばエリートたちであった。古代エジプトの「書記」については、比較的多くの情報が伝わっている。書記とは、高級官僚に相当する、という理解が一般的である。文字を使うことができるからである。だとすると、書記は「考える」ことをしなくなったのであろうか。むしろ庶民の方が、文字が使えないだけに、「考える」ことができていたのだろうか。
そうでもないだろう。文字を使うことによって、「考える」ことが膨大に増えたと思われるからである。そして、文字で記録すると共に「考える」ことをしたからこそ、人類の文明の発展も加速した推測できるのだ。尤も、この加速度的な文明の発展は、現代の科学文明をついに生み出したことで、地球環境を急激に破滅的情況へ追い込んだのも事実と言えるだろう。そして、それに比例して人間性そのものをより善へと導いたと見なすこともできないだろうと推察する。
確かに、教育が進んだのはよかった。文字が読める人が増えたことは、身分が低かったり貧しかったりして、かつては教育を受けることのできなかった人々の中に一定数いるはずの、優れた能力の持ち主がその才能を発揮する機会を与えた。そして、それほど優秀な人材でなくても、一人ひとりが、自分の生きる意味を考え、文化に寄与することができる道を大きく拓いたとも言えるだろう。
しかし、必ずしもそれは、「考える」ことが行き届くことを意味するものではなかった。逆に、自分は「考える」ことができている、という思い込みが、もっと「考える」邪悪さによって利用される、という事態をも招いたかもしれなかった。
私たちは、ドイツ国民が、どうしてあそこまで平然と人を殺すことに加担してしまったのか、学ばなくてはならない。否、日本も同様である。もちろん、戦勝国が正義だ、などと言いたいのでもない。民主主義という「正義」は、かのような歴史を生み出した、ということをも、学ばねばならないと思うのだ。
問題を、AIだけのものとすることによって、また新たに、自身を問わないままでの「正義」が権力を揮うようになることが、懸念されて然るべきだ、と考えられるのである。