(ヨハネ21:15-19, ルカ22:54-62)
このように話してから、ペトロに、「私に従いなさい」と言われた。(ヨハネ21:19)
◆ペトロの失敗談
やがて十字架にて死ぬことになる。他の福音書では明言していましたが、ヨハネ伝では、イエスが婉曲ながらも伝わるように語る場面があります。これを聞いてペトロは不安に感じたのでしょう。
シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「私の行く所に、あなたは今付いて来ることはできないが、後で付いて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今すぐ付いて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスはお答えになった。「私のために命を捨てると言うのか。よくよく言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう。」(ヨハネ13:36-38)
そして事実、ペトロは三度、イエスのことを知らない、と口にすることになりました。イエスが逮捕され、後を追って遠くから見つめていたのまではよかったのですが、周囲の人々に、おまえもあの一味だろうと迫られて、三度も違うと言うのです。そのとたん、朝方の鶏が鳴きました。イエスの言う通りになったのです。
いわばペトロの黒歴史でした。だらしない話です。ヨハネ伝は、もうペトロがこの世にいないときに書かれたものだと研究されています。だからこそ、福音書に遺されたのでしょうか。
ペトロが三度目に否定した正にそのときのことを、ルカ伝が印象的に記しています。
主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(ルカ22:61-62)
映画のワンシーンのようです。否、映画に描くなら、音楽入りで非常にドラマチックに映し出されるであろうシーンです。恐らくペトロは、生涯このときのことを忘れることがなかったと思われます。
ペトロは、たとえ牢に入れられて一緒に死ぬことになっても構わない、とイエスの前で息巻いた人です。けれども、三度も、イエスのことなど知らないと言って逃げようとしました。これはペトロの「裏切り」と言っても差し支えありません。ユダの裏切りに匹敵すると言ってもよいくらいのものです。けれども、ユダとは運命を分けました。
これほどのペトロの失敗談が、すべての福音書に掲載されているのです。私は想像します。ペトロ自身が、この話を、教会の中で、繰り返し繰り返し話して聞かせていたに違いない、と。教会の中では、知らない人がいない話だったに違いない、と。自分はイエスとこのように出会い、このように裏切り、そして赦された。ペトロは口を開く度に、そのことを語っていたと思うのです。
◆失望か諦めか
今日はそれに加えて、ヨハネ伝の21章をお読みいたします。ヨハネ伝には、おもに2人の著者がいるのではないか、と推測する研究者がいます。まず一度できていたヨハネ伝に、後から誰かが随所に記事を書き入れている様子が窺える、というのです。特にこの21章は、素人の私から見ても、付け足し感の強いところです。20章で一旦終了しているように見せておきながら、さらに1章を置きにかかるのです。
しかし、この加えられた章に、とびきりのエピソードがありました。私たちはいま、その場面にタイムトリップしましょう。
ペトロなど、主立った弟子たちは、元漁師です。復活のイエスに会った弟子たちは、他の福音書によると、エルサレムに留まった、とか、ガリラヤでイエスに会った、とか、記事が錯綜しています。もうひとつ判然としないのですが、ヨハネ伝は、ガリラヤへ戻ったような書き方をしています。ヨハネはマルコ伝を知っていたのではないか、と推測する研究者がいますが、この点からもマルコ伝を踏まえていると理解できそうです。
元漁師の弟子たちは、イエスに従う信仰生活を諦めたかのように見えます。ガリラヤ湖、但しヨハネ伝はティベリアス湖と呼んでいますが、同じ湖に戻り、漁をしています。人を漁る漁師にしよう、というイエスの言葉をも、忘れてしまったのでしょうか。
イエスは、殺されました。人間の正義の理屈によって、合法的に、殺されました。法は、人を生かしもするし、殺しもします。そしてこのとき、神を殺したのです。イエスを取り囲む弟子たちにも、捜査の手が及ぶかもしれません。危険を感じて、逃げたのでしょうか。もしまた地方で、何か立ち上がる気配でも見せたら、あのイエスと同じように殺されるかもしれません。
隠れて生きよう。弟子たちは、表だって議論をせずとも、暗黙のうちに、そのように道を選んだのではないか、と想像してみます。元の漁師の生活に、密やかに戻ろう。史実とはズレがあるかもしれませんが、いま私はそのようにして、ここからの物語に浸っていこうかと思っています。よろしかったら、皆さまもしばらくご同行願いたいと思います。
◆イエスが提供する食事
元漁師の弟子たちが漁をしているところへ、まずイエスが現れます。パンと魚を手にしているのを見て、彼らはそれがイエスだと分かります。筆者ヨハネは時折解説として口出ししますが、イエスが現れたのはこれで三度目だそうです。トマスの疑いの場面に、二度現れたのは確かです。その後、少し時間を置いて、ここに現れたような感じがします。
食事を共にすることは、仲間であることを表します。旧約以来の大きな原則です。仲間とならば共に食事をします。別種の民族とは、そんなことはしません。イエスにしても、律法を守れぬ「罪人」たちと共に食事をしていることが、律法のエリートたちから見れば、ありえないことだったのでしょう。
ここではイエスと弟子たちの、仲間であることの証しであるような食事となったことだと思います。パンと魚は、イエスのからだということや、イエスが救い主であるということを象徴することが、ヨハネ伝ではここまでにも綴られていました。
私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンは、世を生かすために与える私の肉である。(ヨハネ6:51)
この言葉は、いまのキリスト者からすれば、なんということのない教義の一つです。しかし、これを当時直に聞いたユダヤ人は、どう感じるでしょうか。文字通り受け止めると、カニバリズムそのものです。それはレトリックだと解釈したとしても、イエスが天から降ったパンであるのは、当然あの出エジプトのときの「マナ」としか考えられません。イエスは、訳の分からないことを口にしているようにしか、思えなかったことでしょう。
ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。(ヨハネ19:19)
この罪状書きは、イエスに対するひとつの信仰告白のようになっています。もちろん、本当の信仰告白は「イエス・キリスト・神の・子・救い主」だとされていますが、これには、これらの5つの語の頭文字をつなぐと「魚」を表す言葉になるという謎が隠されていました。十字架が教会のシンボルのようになるのは、ずっと後のことです。それまでは教会では初期から、「魚」を以てキリスト者仲間の信仰告白を象徴するシンボルとして、用いていたと考えられています。
こうして、パンと魚の食事は、イエスに対する信仰を表すものとして受け取られていたように思われるのです。そしてこの「食事が終わると」、イエスとペトロの対話が始まります。
15:食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」と言われた。
なんとも唐突な質問です。「私を愛しているか」ということだけでも、ドキリとする問いです。しかも、周りにいる他の弟子たち以上に、という比較の重みが伴います。もしかすると、イエスがこのティベリア湖畔に現れたのは、この問いを突きつけるためだったのかもしれません。
◆差し向かい
ここから、イエスとペトロとが、サシで対話をしてゆきます。それは、息を呑むような緊張感を伴うものです。イエスは淡々と突きつけますが、ペトロはドキドキです。そのペトロの必死の返答を、イエスは恰もまるで聞いていないかのように、同じようなことを繰り返し問います。ペトロは、針の筵の上にいる心地だったことでしょう。
このとき、少し私たちのことを考えてみます。私たちは、この張りつめた場面を、どこに居て見守っているのか、ということです。私たちはどこに居たらよいでしょうか。否、むしろただ「私はどこに居たら」とするのが私個人にとっては大切なことなのですが、やはり皆さまを巻き込まざるを得ません。あなたはこの場の、どこにいるのでしょうか。
イエスに問われているペトロの身になって読んでいくのがよいでしょうか。ふつうはそう考えて然るべきでしょう。あるいは、「この人たち」と称された、周囲の弟子たちの立場でしょうか。他の弟子たちは、イエスからこの問いをぶつけられません。もしそうだとして、そこからこの情景を見ていたとすると、教会の代表者となってゆくことになるペトロが、傍観者たる自分以上にイエスを愛している、と返答する場面を見てしまうことになるでしょう。そのとき、どんな気がするでしょうか。
15:食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「私の小羊を飼いなさい」と言われた。
そう。ペトロは、他の弟子たち以上にイエスを愛しているのか、と問われて、「はい」とストレートな答えを返したのです。なんと大胆な、とも思えますが、信仰というのは、人目を気にして遠慮する場ではない、とも言えます。ペトロはイエスと差し向かいになっていたのです。「私があなたを愛している」ことを明言します。しかも、そのことをイエスが知っている、というところにまで踏み込みます。つまり、これはペトロが勝手に思いこんでいることではなく、イエスが保証する真実なのだ、と言い切っているわけです。これは傲慢という次元のものではなく、神の手の内での出来事なのだ、と委ねているようなものとして受け止めたいと私は思います。
ただ、ペトロは、イエスの問いのある部分を繰り返しませんでした。「この人たち以上に」の部分をスルーしたのです。それなのに、返答は「はい」という肯定でした。ペトロは、自分が一番イエスを愛している、という部分については、イエスが知っている、とまでは言えなかったのかもしれません。イエスを見棄てて逃げた自分が、他の弟子たちよりもなおイエスを愛することにかけては勝っている、という信仰を避けたように見えます。
イエスを愛していることについては、神はご存じ。しかし相対的に他人よりもなお、という点にかけては、自分は分からない。そんな気持ちだったのだろうか、と私は想像しますが、こうなると、周囲の弟子たちの視点を以てこの情景を見ている私たちとしては、自分以上に、という断定がなかったことで、ペトロに対する妬みのような感情は、一応気にせずに済むような気がします。
◆愛を問い直す
「私を愛するか」の問いに対して、ペトロは肯定する返答をしました。この返答に対して、イエスは「私の小羊を飼いなさい」とだけ言いました。肯定も否定もしていないような感じです。あるいは肯定して、ペトロに、リーダーとなるよう使命を与えたのかもしれません。ただ、それ以上その問題に立ち入らず、また話を展開せず、まるでペトロの返答を無視するかのように、イエスはまた振り出しに戻すような質問をします。
16:二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」
お気づきのことと思いますが、今度は「この人たち以上に」とは言いませんでした。端的に「私を愛しているか」と問うたのです。そうすると、まるで「愛している」こと自体を疑っているかのようです。二度目に同じ質問をするということは、ペトロの応えを認めていなかったというふうにも解釈できるでしょうか。
16:二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「私の羊の世話をしなさい」と言われた。
ペトロは戸惑ったと思います。イエスが、ペトロの先ほどの回答を聞いていないはずはありません。それでもなお聞き直した。しかも端的に「愛しているか」と尋ねた。自分は試されている、とペトロは思ったのではないでしょうか。しかし、余計なことを冗舌に語る気持ちにはなることができません。先ほどと同じ返答をしました。そして、イエスも、ほぼ同じ反応を示しました。「飼いなさい」と「世話をしなさい」というように、言葉は異なりますが、ここをあまり問題にする学者はいないようです。同じ意味なのに言葉を換えるということは、よくあることだからでしょう。
二度あることは三度ある。イエスはペトロの返事がまるで聞こえなかったかのように、三度目に、そして最終的に、問いかけます。
17:三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」
これはペトロには堪えました。イエスを知らないと三度否んだ疵が、胸にあるからです。筆者は説明しませんが、読者にそれを思い起こさせていると思います。
17:三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
私があなたを愛していることを、あなたはご存じです――それだけでは済まなかったのです。「あなたは何もかもご存じです」と、全面降伏の姿勢を示しました。
さあ、私たちは横から、この対話を傍観していました。それまでは、ペトロがスタンドプレイしているかもしれない、と少し妬ましく思ったかもしれません。しかし今、弟子たちは誰もが分かっています。これはペトロが責められているのだ、と。三度イエスが問いなおしたのは、ペトロが三度イエスを否んだことを、一つひとつ思い起こし、それらを打ち消していこうとしているのだ、と感じたことでしょう。ペトロの目には、涙が浮かんでいたかもしれません。
私たちはペトロを、何らかの意味でリーダーのように理解していました。そのリーダーが、イエスを前にして、打ちのめされています。しかしまた、イエスはペトロを認めているようにも見えます。イエスが公認するのか、しないのか。その決定的な場面を私たちは目撃しようとしています。
◆二つの愛
イエスは三度、ペトロに「愛するか」と尋ねました。ところがこの「愛する」という語が、実はひとつだけ違っています。先ほど触れたように、同じことを別の語を使って表現することは、レトリックの基本です。そのため、ここで三度目に違う語を用いたからといって、あまり気にする必要はない、と言い切る神学者もいます。ただ、その違いに意味をもたせて考えることも確かに可能なので、深い意味をそこに読み取ろうとする人がたくさんいます。
初めの二つの場合、イエスが尋ねた「愛するか」という語には、「アガパオー」が使われていました。これは、20世紀スウェーデンの神学者ニーグレンが明らかにした、「アガペーとエロース」の概念の違いで、よく知られるようになりました。必ずしも聖書はそれを単純に区分けしているとは思えないのですが、大いに参考になります。
「アガペー」とつながる動詞「アガパオー」のほうは、神が人を愛する方向性の中に見出される愛を意味する、と大まかに捉えることができる、とされています。もしそうだとすると、イエスはそのような、神からの愛のような心でイエスのことを愛するのか、とペトロに尋ねたことになります。
ところがペトロがこれに対して「私があなたを愛していること」と返答したとき、ペトロは「アガパオー」を用いていませんでした。ペトロが使った「愛する」の語は「フィレオー」でした。これは、単純化するならば、「友愛」をイメージすると近いと言われています。イエスが私たちを愛したような愛し方というよりも、地上で人間同士が仲良く過ごすための信頼関係のようなものを想定するとよいと考えられています。
ペトロからすれば、イエスが求めた「アガパオー」の愛でイエスに向き合うことはできなかった、ということなのでしょう。ペトロはあくまでも、人間的なレベルで、自分にできることを述べたというふうに見ることも可能です。
ペトロの二度の「フィレオー」に対して、三度目にイエスが尋ねたとき、このイエスの質問は、それまでの二度の質問とは異なり、「アガパオー」は使いませんでした。
17:三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」
これは、ペトロの使った「フィレオー」を以て問うたのです。果たしてそれは、さして気にする必要のないレトリックだったのでしょうか。それとも、何か心をえぐるような響きをもたせる試みだったのでしょうか。
「フィレオー」と問うたのに対して、「フィレオー」で応えた三度目の質問。これにより、イエスは、ペトロの今後の運命について詳しく話しました。やっと、イエスの言葉を聞き入れる備えができたかのように、ペトロの死に至る過程を、詳しく語りました。
それは、ペトロが悲しんだことにも関係するのではないか、と私は思います。ペトロは思い出したのです。あの、イエスの眼差しを、まざまざと感じたのだと思うのです。
◆眼差し
最初にお知らせした、あの眼差しです。
主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(ルカ22:61-62)
あの涙のときの悲しみが、いまペトロに湧き起こってきています。そして問題は、その悲しみが、ペトロだけのものであってよいのかどうか、ということです。私たちは、どこからこの模様を見つめていたでしょうか。たんに眺めていただけなのでしょうか。野次馬でしょうか。しょせんそれはペトロの問題でしょうか。他人事に過ぎないのでしょうか。
聖書から、イエスの眼差しが、私を見返しているように感じることはありませんか。たとえば私にとっては、本を閉じても、その眼差しは消えません。幻でしょうか。私の気が変になっているのでしょうか。
特にこの眼差しは、自分が自分の中に罪を深く覚えるときに、辛く感じます。他方、自分は正しい、と胸を張っているときには、その眼差しを感じにくくなりますが、そんなときにもし視線を覚えると、ハッと我に返ることがあります。本当にその視線を忘れて好き勝手をしているときには、いくら自分には信仰があるとか、イエスに従いましょうとか偉そうなことを口先で行っていても、実に空しいものです。そして胡散臭いものです。
街のポスターに、女性の写真が多いのは、ジェンダー的に問題があるのかもしれません。男社会のなれの果てであるのかもしれません。しかし、多くのポスターで、写真の女性は、真っ直ぐにこちらを見つめています。その視線を、なぜか私たちは感じます。自分が見られている、という意識が芽生えます。私たちは聖書を読むときに、そのような視線を感じるべきなのです。あなたは、聖書の中から、神に見られているはずなのです。
「愛するか」とイエスは繰り返し問いました。「神のように愛するか」であるのか、「友に対するように愛するか」であるのか、そこの議論は、決めてかからなくてもよいかもしれません。傍観者のようであった私たちは、イエスと差し向かいで対話しているペトロを見守っていました。ペトロは問われに問われました。そして、愛すると言うならば羊を飼え、教会を背負って行け、と言われていました。
ただ、最後にペトロは、その殉教の姿を予告されました。この場面が印象的な作品として、『クオ・ヴァディス』という小説並びに映画があります。ペトロの最期にまつわる伝説をドラマ化したものです。ご存じない方がいたら、どこかで触れるとよいと思います。私の戯れ事よりも、よほど神の視線と呼びかけを聞く機会となることでしょう。
目の前にペトロがいました。私は聖書を読んでいる一人であってもよいと思います。ここからも、イエスの言葉が向けられていることを知ればよいのです。イエスの眼差しを覚えればよいのです。ペトロだけが特別なのではありません。最後にペトロはイエスに何と言われたのでしたか。
19:このように話してから、ペトロに、「私に従いなさい」と言われた。
「私を愛しなさい」ではありませんでした。「私に従いなさい」でした。「従え」と言われたのでした。イエスの眼差しは、この言葉へつながり、落ち着くはずのものでした。その眼差しと共に、イエスの問いかけは、私に、そしてあなたに、確かに向けられているのです。