◯◯屋

2024年10月14日

ある売れっ子作家に対して、哲学の教授が怒っていた――息子が言った。「哲学」についてテレビや本で、ああだこうだと振り撒いているが、専門家から見ると、デタラメばかりだ。そう怒っていたというのである。
 
但しその作家にしても、一般社会に「哲学」というものを知らせる役割については認めているという。「哲学」に注目させることを、哲学の専門家である自身ができていないことを思うと、その人を一方的に非難することは適切でない、とは考えているともいうので、何もただ感情的に非難しているわけではないようだ。。
 
冷静で公平な見方ができるところが、さすが哲学者である。確かにそうだ。だが、それでも過去の哲学について誤った知識を世に振り撒いているということについては、当然賛同できない。それでよい。過去の哲学者が言いたかったことを、勝手に曲げて広めているとすると、それは哲学者たちに対して失礼なことである、という見解のようであった。
 
由々しき問題である。その通りである。しかし、私たちは実のところ、平然とそうしたことをやっているようにも思える。
 
バッハの曲を、ポップス風にアレンジして楽しむ。コンピュータ音楽に使う。それは、バッハに失礼なことであるかもしれない、というようには考えていない。考えていたら、それをしないだろうし、それが現れたときに非難するだろう。他方、それがバッハの音楽を世間に知らせているという意味では、いくらクラシックの演奏家がホールで美しい演奏をしようが、適わないものであろう。
 
息子は、それとは違う、と言ったが、そこから話を展開することはなかった。私の言うことも、喩えとしてはあまりよいものではなかったかもしれない。ただ、バッハについて言えば、クラシックの演奏家にしても、本当にバッハの音楽を理解しているかどうか、いろいろ問題を見出すこともできるだろう。バッハはその音楽で、神の栄光を称えようとした。音符や音階の中に、如何に計算し尽くした技が含まれているか、研究者が教えてくれる。果たして立派な演奏家が、皆その宗教性を以て、神を称えようとしているのかどうか、分からないのである。
 
音楽は、その作曲者と演奏家が異なることが基本だ、という特殊な事情がある。絵画ならば、せいぜい自分の絵が額縁で飾られるのを、画家が望んでいたかどうか、というくらいであろうか。あるいは、ゴッホについて今井むつみさんが告げていたように、ただ描きたいという気持ちをそこにぶつけていた、という理解が本当ならば、その絵が死後に何億円で取引されるということが、ゴッホにとってどうなのか、考える余地はあるだろう。
 
さらに私は、連想を逞しくしていた。このような図式は、もう少し広い範囲で考えてみるための基盤とならないだろうか。
 
その図式というのは、「哲学者」がいて、その思想を研究してできるだけその思想を正しく理解しようとする「哲学研究者」がいる。哲学者が言っていることを分かりやすく解説してくれる。しかしまた、その哲学者の考えそのものを曲げてでも、今利用できるような形で人々に広く知らしめる「哲学屋」とでも言うべき者がいる、という関係である。この「哲学屋」は、自分が哲学の中に含まれて哲学の理念を負うようなことをせず、哲学を外の高みから眺めて利用するばかりである。
 
よくいう「政治家」と「政治屋」の関係も似ている。このとき、「政治評論家」のような者がその間に入る、とでも考えればよいだろうか。評論家は大切である。適切に、政治の情況を解説してくれる。この政治家は何をしようとしているか、どんな狙いがあるのか、解説してくれる。政治の理念を追求するのが本物の「政治家」であり、ただ自分や党派の利益を狙うばかりの「政治屋」が大衆の人気を得るために何でもするような様子を、ここに重ねてみるのである。政治というものを利用し、外から眺めて楽しむのである。
 
この程度の類比で満足することはできない。私自身が検討されていない。私が外から眺めているだけなら、私はあの第三の者に過ぎなくなるのではないか。
 
「宗教」という言葉でもよいのだが、ここはキリスト教信仰に絞ろうと思うので、「信仰」という言葉を使おう。「信仰者」は、信仰に生きる人である。聖書の言葉を自分のためのものと信じ、聖書に生きようとしている。「信仰研究者」もいるだろう。聖書を研究する、と言ってもいい。歴史や文化の背景をも調べ、聖書や信仰について分かりやすく説明してくれる。分かりにくい聖書について、また気づきにくいことについて、教えてくれる、ありがたい存在である。
 
だが、第三の者がこの場合いるのだろうか。「信仰屋」というのは言葉としては奇妙だが、聖書や信仰を外から眺め、それを利用して自分の利益のために使おうとするタイプである、というのが、ここまでの比較から言えることである。それは、信仰を生きていないで、信仰者のふりをしているわけである。そのままで人々に、聖書や信仰について語ったり著したりするのであって、キリスト教世界から見れば活躍しているという形をとっているが、聖書や信仰を歪めていることになる。
 
さて、私はこのような「信仰屋」なのであろうか。「哲学屋」にしろ「政治屋」にしろ、また「信仰屋」にしろ、その立場は基本的に、それを職業とし、利益を得ている。その形で、真摯なものを利用していることになる。少なくとも、それだけは私にはない。だからと言って、その理由だけで疑いを免除できるとも思わないが。



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