種が飛んでいたから
2024年10月8日

池の水が減ってきているのは分かっていた。増減の激しい池である。沼地のような灰色の地面が拡がっている。水鳥も居心地が悪そうだ。
そこへはしばしば来る。また行くと、目を疑った。あの沼地のようなところが、黄緑色に輝いているのだ。翌週、その色はついにぎっしりと、新しく陸地になったところを占領してしまっていた。
草の生命力に驚かされる。逞しく、どこででも生えてくるのだ。
否、違うぞ。私は、自分の目が円く大きくなるのを感じた。生命力の問題ではない、と気づいたのだ。なぜ緑が拡がったのか。そこに草の種が飛んできたからである。では、その種は、池が陸になったから、それを見てあそこで生えよう、と考えて飛んできたのだろうか。
そんなことはない。水があるときも、種は飛んできていた。いつでも種は、そこに飛んできたいた。ただ、水があったために、水に落ちては芽生えることができない。水に沈めば、空気と接触できなくなる。残念だが、朽ちていくことだろう。あるいは、水に沈んでいることになるかもしれない。
偶々水が引くという出来事が起こった。沈んでいた種が芽生えたのかもしれない。あるいは、いつでも飛んできていた新たな種が芽吹いたのかもしれない。そうなると、そこには土もあり水もあり、空気にも触れることができる。種は芽生える条件を揃え、めでたく生長を始めるのである。
イエスはたとえを用いて多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の上に落ち、茨が伸びてそれを塞いでしまった。ほかの種は良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13:3-9)
有名な、種蒔きのたとえである。時折教会でも語られる。このたとえには、面白いことに、イエス自身の解説が加えられている。あるいは、当時の教会の理解した解答であるのかもしれない。それによると、種こそが私たちであることが分かる。福音を聞いた種である私たちが、自分の心をその環境のようにする様子が伝えられている。果たして実を結ぶか枯れるか、それは自分の育ち方次第である。
ただ、このたとえの後に、「天の国は、良い種を畑に蒔いた人に似ている」(13:24)のような話がまた続くので、牧師は時にわざと、その種蒔きのたとえもまた、私たちは福音の種を蒔きましょう、というように語ることがある。信徒は基本的に、すでに信仰の芽が生えた者たちである。だから、信仰をもてるかどうか、という方向よりは、この福音を蒔く側に身を置いたほうが、考えやすいのである。
こうして私たち信徒は、少々めげることになる。いくら種を蒔いても、自分の許に、「信じるようになりました」というような報告を聞くことが、殆どないからである。勇気を以てひとに福音を語った。でも、信じてはもらえなかった。トラクトと呼ばれる信仰の読み物や教会のイベントのお知らせのチラシを、道行くひとたちに手渡した。でも、教会には誰も来てくれなかった。このようなことばかりである。
だが、落胆するようなことではない、と気づかされた。とにもかくにも、私たちは福音の種を蒔いたのではなかったか。偶々水の上にそれがすべて落ちていただけである。水の上にパンを投げていたのである。もしその水が引いて、種が芽生える条件が揃えば、その種は芽生える準備ができているのだ。芽吹く時を待っているに違いないのだ。
少し努力したことがすぐに報われないから、と諦めて種を蒔くのを止めていたら、たとえ水が引いても、芽生えることはないだろう。教会の中には、伝道費を使うと牧師給与が支払えないという打算を考えて、集まった献金を、無駄な伝道のためには使わないように決めたところもある。もっと合理的に、仲間の交流のために用いたほうが、実利がある、そう考えるのであろうか。だが、それでは、種を蒔いていないのだから、今後水が引く機会に恵まれたときにも、何の草も実も、見ることがないだろう。
御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。(テモテ二4:2)
クリスチャンが好む言葉のひとつだが、これを建前としながらも、実際には背を向けている、ということはないだろうか。続けるべきである。続けなければならない。キリスト教世界は閉塞感に襲われている、などと言い訳をする声もあるが、自分から閉じこもっているのではないだろうか。コロナ禍のせいにし、少子化のせいにし、悪魔のせいにし、そうして宣べ伝えることをしない理由を掲げてはいないか、ひとつ自らに問いかけ、鏡を覗いてみてはどうだろうか。
池の縁は、きれいな緑が、夕陽に輝いている。