【メッセージ】そのドキドキをそのままに
2024年10月6日

(マタイ28:1-10, ヨハネ20:1-10)
女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。(マタイ28:8)
◆復活祭から一番遠い時期に
今日は、二つの福音書から、復活の場面を通じて、命を与えられたいと願っています。この時期に復活というのは、何か違うのではないか、とお感じになる方もいらっしゃることでしょう。確かに復活というのは、春と相場が決まっています。春の祭りである過越祭のときに、イエスは十字架につけられ、復活しました。福音書の記述からするならば、それは間違いありません。いまの暦では3月から4月にかけてであり、太陰暦を用いているため、私たちの暦では毎年変わる、移動祝祭日となります。
教会では、この復活祭から50日目に、50日の祭りを意味する名のペンテコステ礼拝を行います。これは、弟子たち一同に聖霊が注がれ、この日以降力強く歩み始めた、という歴史を思い起こすためのものです。いわば教会の誕生日、とも言われる所以です。
しかし、それが終わると、記念日のようなものが殆どなくなります。カトリック教会だと、いろいろ暦があるのですが、プロテスタントだと、次はクリスマスだろうか、という感じになります。10月31日の宗教改革記念日も、さほど大きく取り扱われないのが普通です。
この秋の時期は、正に「空き」であると見て、復活祭から半年後、最も復活祭から遠い時期に、いまいちど復活の恵みに浸ってみようか、と私は思わされたのです。
なお、復活祭のことは、近年特に「イースター」という呼び名で広まってきました。「クリスマス」ほどではないにしても、日本の一般社会にも、「イースター」は認知されつつあります。ただ、私はその名前がしっくりこないので、あまり使いません。妙なこだわりから、かもしれませんが、「イースター」というのは、ゲルマン民族でしょうか、異教の春の女神の名に由来する呼び名だという説が有力だと言われています。
せいぜい「クリスマス」であれば、「クリスト」つまり「キリスト」の礼拝だという名前になっていますから、まだよいのですが、「イースター」という英語に、キリストの復活という、キリスト者の信仰の要を委ねることは、私にはどうもできかねるのです。
◆女たちは走った
まずはマタイ伝28章の最初のところからお引きします。すでにイエスは十字架に架けられ、葬られています。
1:さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
2:すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。
3:その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
二人は、ずいぶんとびっくりしたことでしょう。この地方の墓というものは、よく知られているように、洞窟のようなものをイメージすると近いのではないか、と言われています。そこに大きな岩が転がされて、蓋となっていました。福音書それぞれ、基本的にこの路線にブレはありません。
天使というものを信じる・信じない、どちらであれ、ここでいう「天使」は、神の使いのことです。神の意志や言葉を伝える役割を果たします。日本には「天狗」という存在がありました。中国由来で、元々、よくないことを知らせる天の犬とされていました。何かしら神のようなもののお告げを語る、メッセンジャーが必要なわけです。「天使」にしても、人間にとって聞こえない神の声や、理解できない不思議な出来事をもたらす者として、扱われていたのではないか、と想像できます。それが、神からの知らせである、ということを示すためでもあります。
天使などいないよ、というような言い方は、適切ではありません。私たちの「存在」意識とはまた違う次元の話だったかもしれないからです。神から示されるものがあり、神からメッセージが与えられた、ということを、そのように表現しただけのことだ、とも考えられるからです。
イエスの納められたはずの墓を訪ねてきたのは、二人の女でした。どちらもマリアという名前でした。よくある名前だったのです。女たちには証言する資格がなかったかもしれませんが、証言のためには、二人の存在が不可欠とされていた律法について、マタイは意識していたのかもしれません。ともかく、いまは日曜日の夜明け。安息日が明けて、自由に歩き回り、また作業をすることができます。天使が蓋の岩を転がします。
十字架につけられたイエスを捜しに来たのだろう。しかし、もはやそういう姿ではおられない。天使から、女たちは教えられます。かねてから告げ知らせていたように、いまこそ復活したのだ、と天使は言います。さあ、遺体の置かれる場所を見よ、ないではないか。さあ、弟子たちのところに急いで行って知らせなさい。イエスは「復活した」ということを知らせよ。そして故郷のガリラヤへ行けば、イエスに会える。
8:女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
この文化では特に、大人は走りません。男は特にそうでしたが、女もめったなことでは走りません。よほどのことだったのでしょう。その走る途中、行く手にイエスが立っていました。女たちはイエスに出会います。天使たちは「ここにはおられない」と言っていたのに、すぐに会えました。「ここ」というのは、墓、つまり死の世界なのでしょう。だからいま復活のイエスに会えたということは、女たちは死の世界にはいない、と言うことです。そこは復活の道、栄光に輝く道なのです。女たちは、復活の光の中で、イエスに会いました。復活のイエスに会いました。
先ほど天使が説明したとおりに、基本的にイエスは話します。ガリラヤで会える、とマタイ伝は告げます。女たちは、忠実に弟子たちに伝えた様子です。但し、ルカ伝はこれと違う扱いをしています。エルサレム中心で、エルサレムをひたすら目指し、そこからアジアへ拡がってゆく福音を描くルカでは、ガリラヤに戻っている暇はありません。
一度ガリラヤに戻るならば、イエスと共に癒やしと宣教の旅をしてきた、自分たちの歩みを振り返ることができます。イエスの言葉の意味を、以前には気づかなかったのに、今度は気づくかもしれません。
ヨハネ伝でも――もうひとり別のライターによるとも考えられますが――、ペトロたちは、ガリラヤに戻り、あまつさえ漁師に身をやつしていました。そこで復活のイエスに会います。そこから、弟子たちは本格的に逞しく歩み始め、キリストの福音を伝えるようになってゆくのでした。
◆ペトロたちは走った
そのヨハネ伝ですが、同じ場面を、少し違う角度から描いています。そこにはイエスは直接登場しません。それで、ひたすら弟子たち目線で、また違ったエピソードを与えられるようにしましょう。20章の最初からです。
1:週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
2:そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って、彼らに告げた。「誰かが主を墓から取り去りました。どこに置いたのか、分かりません。」
今度は、女は一人、マグダラのマリアだけです。彼女については聖書は少し特別な扱いをしていますが、いまはそのことに触れずに急ぎます。ヨハネ伝は時に、女でも男でも、独り単独でイエスの前に立たせます。より個人的に、神と出会う私たちのための備えがしてあるようにも思えます。
マリアが見たのは、墓に主がいない、ということでした。主がどこに行ったのか、マリアは知る由もありません。マリアは主の遺体がないことに、ひどくショックを受けていました。恐らくは泣きながら、この事態を知らせに、弟子たちのところへ舞い戻ったのです。
これを聞くと、リーダー格のペトロは、自分の目で確認しないといけない、と反射的に考えたのでしょう。飛び出して、墓へ向かいます。「もう一人の弟子」、と言われるのは誰だか知れませんが、伝統的理解に従って、ここでは「ヨハネ」と呼んでおくことにします。ヨハネもまた、ペトロの後を追って走りました。
そう、今度はこともあろうに、大の男が、恥も外聞もなく、腰をからげて走るのです。誰かに見られたら笑いものにされることを知りながら、二人はなりふり構わず走ります。イエスの遺体がない、という大事件を聞いて、確認しなければならないと思ったのです。
先に墓に着いたのは、ヨハネの方でした。但しヨハネは、墓の中に足を踏み入れてはいないようです。このヨハネが「信じた」と書かれてあるのですが、記者は、何を信じたのか、明確にしていません。「イエスが死者の中から必ず復活されることを記した聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」というので、復活を信じた、というふうには読みにくいように思います。ただ、何かを「信じた」のです。
このときの二人を見て、私たちは何を共有すればよいでしょうか。私は、二人の耳に飛び込んだ、女たちからのニュースというものを感じ取りたいと思いました。女たちは、「誰かが主を墓から取り去りました。どこに置いたのか、分かりません」としか言っていません。が、二人はそれを聞いて、すぐに走り出したのです。そのニュースに、何を感じたのでしょうか。さしあたり、明確に意識はできていない、というところで立ち止まっておきましょう。
◆いまここで復活の知らせを
しかし、マタイ伝の方に目を向けると、だいぶ事情が異なるようです。女たちが伝えたのは、「復活のイエスに出会った」という証言でした。女は二人います。二人以上の証人がいる点ではよかったのですが、女という点は、証言として認められなかったかもしれません。実際、この報告に対して弟子たちがどう反応したか、マタイは沈黙しています。ただ結果的に、報告の通りに、ガリラヤに戻っていますから、女たちの言ったことが信用されたには違いないのでしょう。
イエスの復活の証言は、最初は女たちによるものでした。空の墓を見たのは、確かに先ず女たちでした。ヨハネ伝とマタイ伝とでの温度差のようなものはありますが、本当なら、他の福音書についても比較検討すべきでしょう。でも今日は、このヨハネ伝とマタイ伝における、同様の場面を切り取ってみたいと考えています。
一旦、この弟子たちに身を置いてみたいと思います。もちろん必要に応じて、女たちの身にもなってみます。まず女たちが体験をし、続いて、未体験の男たちが伝聞を受けました。
但し、聖書はいまここでどのように受け止めるか、それを重視する必要があります。聖書を文献として、記録として検討し、批評するというのが無意味だとは言いませんが、聖書が個人の魂に語りかけてくることがなければ、聖書はもはや信仰の書とはなり得ません。私たちは、聖書をそのような命を与える書として受け止めたいと願っています。礼拝において、生きた神を見上げ、生きている神とのコミュニケーションを図ることになります。その神からひとを生かす言葉を受けることが、私たちへの現実的な恵みとなるはずです。
聖書のストーリーがどうのこうのとか、そこに矛盾があるとか、そういう眼差しは、いまは要りません。いまここで私たちに、どういう体験ができるか、それが肝要です。私たちのリアルな視座を伴いつつ、神からの呼びかけを受けてみましょう。私たちは、いま復活の知らせを聞くのです。
が、その「いまここ」の私たちのいる場所を、落ち着いて把握することが先決です。
◆キリスト教の衰退
いまここで、つまり現在この時代において、私たちキリスト者は、落胆しています。キリストのことを、聖書を伝えたい思いはありますが、それが実を結ぶという感覚を全くもつことができません。昔の話を聞くと、たくさんの子どもたちが教会に集まってきた時代があったといいます。成人や若者も、教会の席を賑わしました。もっと古くは、幕屋集会だとか、路傍伝道だとかいうものが盛んに行われ、多くの人を誘う大規模なイベントもあったといいます。キリスト教は、社会的にも有用な、優れたグループだと見られていました。
ある事件をきっかけに、宗教は危ない、という認識が社会に拡がりました。またある事件をきっかけに、「宗教2世」という言葉が飛び交いました。ここへきて、宗教を強制された被害者がいくらでもいる、という現実が突きつけられたのです。恰も、普遍的に、宗教を子どもに語ることが悪であるかのように、世の中が動き始めたのです。
博多には、「のぼせる」という言い方があります。一つのことに熱中しすぎて、周りのことが見えなくなるようになってはいけない、ということを戒める言葉です。宗教は、まさにその「のぼせる」に見合った出来事であるように見えます。そして、一部の日本人が太平洋戦争後、キリスト教にのぼせた時代があったといいます。教会に多くの人が押し寄せたと聞きますが、長くは続きませんでした。一時的な「のぼせ」だったのです。
厭きて去って行くか、元々自分はキリスト教には合わないと気づくのか知りませんが、キリスト教は忘れ去られて行きました。聖書には確かに心洗われる教えがあるけれども、それがすべてじゃない。聖書などなくても生きてゆける、と人々は気づいていくのです。
ミッション系と呼ばれる、キリスト教を伝道する目的で建てられた学校が、日本にはずいぶん多く建っています。キリスト者の増大を願って、欧米の多くの人々が、資金を提供しました。当初、教員はすべてクリスチャンであること、という条件だったところも、いまはクリスチャン教師がいるのかどうかさえ怪しい情況になってきました。生徒も、礼拝出席のレポートが課せられることがありますが、至って義務的であり、そこに伝道力は感じられません。むしろ、そんな強要は教育に反する、との声さえ起こってきています。
一部、若者の力は確かにあります。若々しい、エネルギッシュな教会の運動があることも本当です。それでも、若い世代の人数は増えません。必ずしも、社会的な「少子化」のせいにはできないような気がします。教会サイドが、若者を受け容れ損ねているようにも感じられて仕方がありません。教会の方が、変わらなければならなかったチャンスを逸したかのようです。
もちろん、伝統を守ることには意義があります。教義や信仰がころころ変わるのはおかしいでしょう。けれども、えてして、若者を受け容れようとするとき教会はえらく保守的になり、若者を弾き出すことをしてしまいがちです。それに気づくと、今度は慌てて、教義や信仰の方がおかしくなってしまう、ということもあるかもしれません。
◆教会の衰退
教会は益々高齢化の一途を辿っています。平均年齢は、年ごとに上がっています。昔からの信徒が残っているだけ、の教会も珍しくありません。仲良しグループは、呑気に友だちと話します。明るい顔で話します。しかし、この先どうなるんだろうねぇ、という気持ちは心のどこかにあるだろうという気がします。あるいはこの先どうなろうと、自分が楽しければいい、と考えているのかもしれません。
教会に来る人が増えません。ただ減るばかりです。だんだん人がいなくなります。教会の数が減っています。教会という形はなんとか残せても、牧会者がいません。いまや礼拝説教の「掛け持ち」はすっかり定着し、一人の牧師が幾つかの教会を駆け巡って同じ説教を繰り返しています。その「牧師」の平均年齢は、教団にもよりますが、一般社会の定年を超えている、とさえ言われています。
日本の教会は、もうだめだ。信徒も1%を超える気配がない。教会を憂う人たちからすれば、教会の現状は殺伐としています。酒・煙草を良しとはしなかったのはいつの時代でしょう。牧師や司祭が犯罪で逮捕される、あるいは訴えられる、ということも珍しくはなくなりました。こういうときこそ、各教団が助け合って話し合いをしてよいのに、相変わらず意見の相違から分裂したままです。教会内でも、かきまわす人の扱いに困りますが、その内やがて悪意から教会を破壊しようとする輩も現れる始末です。
先にも挙げましたが、牧師がいなくなります。神学生は、隠退牧師より多くはなりません。そのような中で、神学校に行ってみたい、という人は、VIP待遇です。世の中で長く働いて退職したから神学校、という形がかなり多いのですが、中には比較的若い世代で神学校に行く、などと教会で宣言しますと、教会がニコニコ受け容れないはずがありません。このとき、全員とは言いませんが、極めて質の低い、ときにとんでもない人物が神学校に入ることになります。なんとか卒業にこぎつけると、牧師になってよいという折り紙が付きます。
学校の先生さえ、なり手がないことで質が下がったなどと言われる世の中です。牧師の質が、この背景で低下しないはずがありません。説教が巧くない、などというレベルではありません。そもそも救いの経験をもたないし、まして召命意識もあるはずのない人が、次々と牧師になります。話では、ドイツの制度ではそれも当たり前なのだ、ということですが、そこまでドイツの真似をする必要はないでしょう。精神的に問題を抱えた人が牧師となっている例を、実際私も複数見ています。
信徒が増えない、教勢が拡大できない、などという声は、そもそも問題意識からして間違っているのかもしれません。もうそういう段階にはなっていないのです。教会の存続自体が危機なのです。まだ教会がそれなりに存在しているほうが、不思議なくらいです。
小さくこじんまりとした教会が「家庭的」でよい、という安心の仕方も以前ありました。しかし、ただ痩せ細るだけに過ぎません。幸運にも宗教法人格を取得した教会が、やがて廃止へと陥るとき、世の中には、それを買い取って利用しようと待ち構えているような集団が、いくらでもあるのが現実です。
◆そのドキドキを
ずいぶん悲観的なことを語ってきました。嫌気がさしたかもしれません。しかし目を背けてはならない現実がここにあります。行き場のないどんよりした現実の中で、いまキリスト者としてそこに置かれている私たちは、いったい何を聞けばよいのでしょうか。聖書から聞きます。「主がいません」と、マグダラのマリアが言いました。そう、主がいないのです。神を見失って、戸惑う私たちと、そこが重なるようにも見えます。
ただ、マリアは見ました。「主がいない」ということを見ました。そして、それを報告しました。ところが、これに対して、天使が告げます。「主は復活した」と。
私たちは、この知らせを聞きました。だったら、恐れつつも、大喜びでこれを聞くべきです。そして、その喜びと戸惑いとを抱えながら、急いで走らなければならないでしょう。
はいはい、聖書には復活の記事がありますね。聖書によると、復活したと言いますね。――そんな態度で聞くのではありません。中には、復活の記事は信じられない、と公言する説教者もいます。しかし、全く聖書から命を受ける気持ちのない人が説教をしても、悪しき霊を発するスピーカーでしかありません。
私たちはいま、ペトロとヨハネに気持ちを合わせます。墓へ向かって走る二人は、きっとドキドキしていたことでしょう。それでよいのです。私たちもドキドキします。しますよね。そのドキドキをそのままに、私たちも走るのです。
私たちは聞きました。喜びの知らせが飛び込んできました。「主は復活した」との言葉を聞きました。それを胸に、走ろうではありませんか。そして、いままた改めて、私たちはイエスに出会うのです。復活のイエスを知るのです。
復活のイエスに出会った女たちのように、今度は私たちが、知らせる係になります。女たちは走る途中でイエスに出会いました。私たちも、走ります。信仰が揺り動かされ、命を吹き込まれたら、そして希望と喜びが生まれ、上を向いて走り始めたら、きっとイエスに出会うでしょう。もはや天使からの伝聞を信じたというのみならず、復活のイエスに直接出会うことでしょう。
キリスト者は、曲がりなりにも、イエスを「推し」と思っていたはずです。もし「推し」が目の前に現れたら、跳び上がるほど嬉しいのではありませんか。心臓が口から出るほどに、ドキドキするのではありませんか。きっと以前、救いを体験したときに、そのドキドキを味わったという人も多いはずです。あのドキドキは、過去のものとは限りません。いまここで、そのドキドキを経験することも、十分可能なのです。
イエスは復活した。それを聞いて夢中で走ったあのときのように、いままた私はそれを聞くのです。いまこうして、あなたに、「イエスは復活した」というメッセージを送ります。それを聞いて、あなたの信仰も復活します。そうして今度は、伝える立場になって、知らせに走ることができるようになります。「主は復活した」と、いまここから、走り出す力が与えられるのです。