やる気
2024年10月6日

細かな経緯はご説明申し上げないことにする。ご無沙汰していたろうの方に、食料品店で偶然に出会った。女性の方である。妻が思わず声を挙げたものの、そのまま売場の隅で、手話による話が始まった。
もちろん福岡に住む方だが、お子さま一家が関東のほうで暮らしている。時折出かけている。訳あって、いろいろ福岡で教会生活に苦労しているが、東京で、いい教会があったという。具体的にどのようによいのか、の話よりも、他の話の方が優先されたので、詳しく教会のことがそこで紹介されたわけではない。ただ、そこはとても良い教会だった、としきりに繰り返していたのはよく分かった。
家に帰り、得た情報を頼りに、その教会のウェブサイトを見た。断片的な情報だったが、場所と内容から、ここだろうと思われる教会はすぐに分かった。教会のことがよく公開されてあり、どんな教会かが伝わってきた。初めての方への呼びかけも丁寧に書かれており、誰が見ても好感の持てるつくりであった。
ろう者が主役の礼拝が開かれている様子で、聴者だとむしろ手話を学ぶために参加してください、というふうであった。そのウェブサイトでは、礼拝の動画も公開されていた。実にきれいな映像で、見やすいように工夫もされていた。音声訳も加わっており、クリアな音質で聞きやすかった。ろう者も聴者も、安心して視聴できる動画だった。
そんなこと、コロナ禍以来当たり前ではないか、と思われるかもしれない。が、そんなことはない。その後、ある身近な教会の礼拝の映像を見た。ただスマホを固定して撮影しただけのもので、音が会堂に反響しているせいもあり、歪んでおり、声がもぞもぞと何を言っているか分からなかった。そう言えば年に何度も、録画がうまくいきませんでした、と断りを出していた教会だ。
しかも、撮りっぱなしの動画なので、最初の10分間くらいは、礼拝前の何もない映像が続く。公開するにあたり、カットするという手間も惜しんでいるようだ。素人がスマホで写したハプニング映像をそのまま公開しているほうが、まだ見やすいものである。音声も酷いものだ。たいていは、聞くに堪えない「お話」を公開しているが、この日は、その教会で説教を語る人のうち、まだまともな人の話だった。せっかくまともな説教なのに、いつもより音響が酷かったのは、皮肉なものである。
この教会のウェブサイトも、安易なつくりである。データを入れればできるような構成のものであっても、内容がよければ気にはしないものだが、そこには、礼拝の内容の紹介や、教会の活動の情報も見られなかった。具体的な呼びかけは何もなく、ただ「お会いできることを楽しみにしています」とだけ掲げられている。生身の人間に呼びかけているような言葉は、どこにも見られなかった。
そして、例の素人以下の動画がリンクされている。
本気で伝道しようという気持ちが、全く見られないのは明らかであった。何かウェブサイトをつくっていなければならないから、仕方なく作った。そんな姿勢がありありと見える。つまりは、「やる気」がないのである。
勉強する気がない生徒に教えなければならない経験もあるが、なんとか信頼を得ようと努めるところから始めるため、教科内容に入る前にずいぶんと苦労するものである。逆にまた、先生のほうが「教える」気がないところには、生徒は求めて訪れることはないだろう。
しかし、東京のろう者に心尽くしのあの教会は、実に好い印象を与えるウェブサイトだった。「良い教会だ」としきりに私たちに伝えてくれたあの方の感動には、全く共感するしかなかった。福岡でいま就いている仕事ももう少しで退くことになるというから、東京に引っ越して、その教会に属するようになったらよいのではないか、と私たちは願うようになった。