【メッセージ】あなたを自由にする
2024年9月29日

(ヨハネ8:31-38, 詩編51:12-15)
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(ヨハネ8:32)
◆自由にすること
「働けば自由になる」という言葉を、耳にしたことがあるかと思います。「労働は自由をつくる」あるいは「労働はあなたを自由にする」のような言葉で記憶している方がいるかもしれません。
元々は小説のタイトルだったそうです。それが、失業対策の政策のスローガンのようなものとして使われるようになったといいます。が、この言葉が世界的に有名になったのは、ナチス・ドイツの強制収容所の門にはっきりと掲げられていたことによります。ユダヤ人を大量に送り込み、働ける者は働かせ、役に立たないものは大量に殺害した、あの強制収容所です。憎むべきことですが、極悪人がそれをしたのではなく、平凡な人間がなし得ることに、私たちは十分警戒をしておかなければならないものだ、と私は案じます。ただ、いまここではその件について立ち入ることはしないでおくことにします。
「労働は自由にする」とのこの言葉は、私はどうしても、ヨハネ8:32のアレンジのように思えて仕方がありません。「真理はあなたたちを自由にする」という、イエスの言葉です。ユダヤ人たちに突きつけた言葉でした。
このとき、「真理」というのは、イエスのことを指しています。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)とイエスが言っているからです。
「真理はあなたを自由にする」つまり「イエスはあなたを自由にする」つまりとは、本当でしょうか。しかしこれに応えるためには、一人ひとりが受け止める「自由」の意味について、考えておく必要があろうかと思います。今日はこの「自由」の言葉に留まってみたいと願っています。
今日は、この「自由」に拘泥してみるつもりです。ただ、聖書の中でこの言葉は、その殆どの場合、「奴隷」に関するもの、奴隷の状態とは正反対のもの、として現れてきます。「好きなようにする」の意味で慣用句的に「自由にする」という表現が幾らかあるほかは、決まって、奴隷の立場から自由になるとか、奴隷の状態ではなくて自由なのだとか、そんなふうに用いられるのです。
古代の奴隷制において、奴隷の立場からの解放を、その自由は意味しているように見えます。
◆奴隷との比較
今日の基本テクストは、ヨハネ伝の8章です。
31:イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。
32:あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」
33:彼らは言った。「私たちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。『あなたがたは自由になる』とどうして言われるのですか。」
34:イエスはお答えになった。「よくよく言っておく。罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である。
35:奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。
36:だから、もし子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる。
37:あなたがたがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたがたは私を殺そうとしている。私の言葉を受け入れないからである。
38:私は父のもとで見たことを話しているが、あなたがたは父から聞いたことを行っている。」
長く辿りましたが、あの「真理はあなたたちを自由にする」が現れたとき、ユダヤ人たちが、自分たちは奴隷ではない、と不満を言っていることが心を惹きます。そして、イエスは、社会的な通常の「奴隷」とは別の意味を、その言葉にもたせます。「罪の奴隷」という言葉です。だから、ユダヤ人たちは、本当の自由を得ていないのだ、というのです。イエスを殺そうという心をもつ者は、罪の奴隷になっているのであり、本当の自由を経験していない、と言っているようなのです。
聖書では、「自由」という言葉は、先に挙げたように、「奴隷」の問題の一部として捉えられていました。奴隷は自由ではありません。この対比の中で、「自由」という言葉が考えられていのです。
「自由市民」という社会的な立場がありました。ローマ市民とも呼ばれていました。他方ローマ帝国では、元は奴隷状態であっても、その奴隷という立場から解放された人は、「解放奴隷」ということで、「自由民」とされました。但し、最初から自由であった「自由人」とは区別されていたようです。この辺りは、私のような下手な説明を聞くより、ご自身でお調べになったほうが、より明確に分かることだと思います。
現代は、自由主義社会と呼ばれることがあります。もちろん、社会主義という言葉や制度も活きていようかと思いますが、少なくとも日本とその友好国においては、自由主義という言葉がメインと見てよいだろうと思われます。基本的人権がベースに置かれている社会では、「自由権」がそのうちの大切な基本的権利だとされます。ありがたい時代です。
思想と良心の自由、信教の自由や学問の自由などの、精神的な自由権もありますし、職業選択の自由や居住移転の自由といった、経済的な自由権もあります。昔の子どもは、親の後を継ぐという人生が決まっていましたが、いまはそういうことはありません。しかし、だからこそ、自分はいったい何になればよいのか、という悩みも生まれます。子どもには無限の可能性がある、などと大人は無責任に口にしますが、言われる子どもにしてみれば、自分を何をすればよいのか、プレッシャーにもなるのです。また、なりたいと思った職業に就けるかどうかも分からないわけで、プロ野球選手をひたすら夢見てきても、なれなかったときにどうするか、という問題が迫ってくるのが当然の世の中なのです。
さあスイーツを選んでください。30種類ありますよ。そう言われると、うれしいかもしれませんが、非常に迷うだろうと思います。ここに4種類ありますけど、と言われると、選択肢が少ないようで、非常に気が楽である、とも言われます。巨大な書店で読む本を選ぶよりも、少ないコンビニの書棚の本が、やたら魅力的に見えるということはありませんか。
◆自由の迷い
いまの時代は自由な時代です。奴隷制の社会で奴隷であれば、権利の上での自由はありません。もちろん、全員が動物のように扱われていたわけではなく、家事や家計を任されるような奴隷も多数いたらしいのですが、それでも法的には主人の財産とされていたことは間違いありません。
西欧社会は、近代になって自由を重んじる社会となってゆきました。しかし、いま私たちはその自由を有効活用しているでしょうか。冷静に見れば、私たちの「労働」というものを、新たな奴隷制とみる見方があります。労働は喜びです、などと言っても、古来労働には、強制的な、何かしら劣るものを懐いて捉えてきた人類史を考えると、ごまかしのような気もします。そこに疎外感が生まれても仕方がありません。
むしろ、親の後を継ぐということが決まっていたほうが、一途な生き方ができた場合もあったでしょう。いまでも、一度は後継ぎを拒否したものの、後になって故郷にUターンして親の店を継ぐ、などという話はいくらでも耳にすることがあります。
もちろん、だから職業選択の自由はいらない、などと申しているわけではありません。ただ、「自由」というものは、論理的には選択肢が無数にあることにもなるわけで、そこには一途に、夢中になるものが欠けている、という場合があるのも否定できないと思うのです。親が習わせたことに夢中になった。たまたま年上の兄弟がしているの見て楽しそうだと思った。これは狭い選択肢ですが、いま一流のアスリートやアーチストの中には、そのように生い立ちを話す人が非常に多いように私は感じています。半ば強制のような部分があっても、それに興味をもつしかなかったほどの環境があった、というわけです。
いったい自分は何が好きなのだろう。自分は何になるとよいのだろう。こうした「自分探し」が一時ブームになりましたが、いまもそれが消えているのではないと思います。自分で選んで失敗したら「自己責任」だ、というプレッシャーも感じることでじょう。近年のアニメに私はちょくちょく首を突っ込んでいますが、ひとを好きになる気持ちが分からない、と呟くキャラクターが、非常に多くなりました。
他人に無理に背負わされる強制からは、逃れたい。でも、何もかも自分の好きなようにしたい、というのとそれは違うように見えます。苦しい思いから逃れて喜びたいとは思うのですが、それがどうしたら得られるのか分からない、というわけです。そして私は、そこに見られる「自由」の捉え方が、実は「イエスに従う自由」である、というふうに感じています。聖書を今日的に開く、ひとつの大切な道であろうと思うのです。
◆いろいろな自由
「自由」はいいこと。けれども、自由な制度の中で、自由であることが苦しいこともある。本当に自由なんだろうか、という気持ちさえ生まれる。自由というのは、まるで綱渡りをさせられているようではないか、と感じた人もいた。足元遙か深淵が呑み込もうとしている上を、自分はどうすればいいんだ、と迷う心で、そして頼りない足取りで、これが自分の道かしら、とふらふらしているような精神に喩えたのだ――。
「自由」にどうして、こんなに多様な側面があるのでしょうか。「自由」という語について、人はそれぞれ様々な意味合いをこめて理解しています。難しい本ならば、これを「自由の定義が様々だからだ」と説明することがあります。同じ「自由」という言葉で口にしてみても、いろいろな種類があるわけです。
どちらを選択しようか、は自分で決めることができる、という自由。
何かの理由に流されるのではなく、自分から行動を始めることができる自由。奴隷のような命令でしか動かない、というのではないことでもあります。政治的な考え方が色濃い場面です。
行動には至らなくても、どうしようか、という意志においては自分が決めるのだ、というように私たちという自由。精神的自由の場合も、これに深い関わりがあるかもしれません。
必然的な決定に支配されない、というのも、少し違う自由として捉えることができるでしょうか。それを自然と呼んでもよいし、神と呼んでもよいでしょう。自分ではない、何かほかのものが決定した秩序の中に、自分が置かれている。それはえてして自分では分からないものです。しかし、その自分で分からない状態からすら、自由であり得るとしたらどうでしょう。
しかし、自由である、ということは本来的に、それが自分が原因である、ということです。このとき自分がまさにそれを始めるのですから、そこには「責任」という問題が絡んできます。自分が自由であることで始めたことについて、自分に責任がある、としなければなりません。
◆自由のつもり
ところで、自分を縛るものから、なんとしても逃れたい、と感じることが私たちにはあるでしょう。えてしてそれは、近代的な考え方の中で育まれた人間の癖のようなものです。自分は本来自由だという前提で考え始めるならば、何かに束縛されていることが不条理に感じられます。だから、そこから解放されたい、解放されなければならない、と思うのです。また少し違うタイプの自由であると気づきます。
主なる神の霊が私に臨んだ。/主が私に油を注いだからである。/苦しむ人に良い知らせを伝えるため/主が私を遣わされた。/心の打ち砕かれた人を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人に解放を告げるために。(イザヤ61:1)
いまの時代、奴隷として生まれたものが、奴隷である身を不条理だと訴えるようなものではなかっただろうと思います。それはいまでもまた、自分の置かれた境遇を、やたら恨むのではなく、世の中そういうものだ、という前提から始めようとする人がいることで、証明されるのではないかと思います。
そして、その方が、精神的に「楽だ」と思える心理があることも確かなのです。そしてそれが、この「自由な社会」において、非常に怖いことではないか、と私は考えています。楽であることを、自らの自由の結果だと勘違いすることがあるからです。つまり、自分は自由な意志で選んだのだ、と思わされていながら、実は何者かに操られている、という構造ができてしまうことです。
それは幾らでも例示することができます。逐一挙げている暇はありません。決して揶揄する意図はないのですが、少しばかり考えてみる価値のある例を用います。かつて結婚は、家と家との関係の中にありました。そのために、個人の好みや意志というものは黙殺されることもありました。貴族社会や武家社会でも、権力者にとっては娘は政策のための財産であることがしばしばでした。それは洋の東西を問いません。
近代でも、そうでした。「見合い」制度は、その流れの中にあると見ることもできると思います。ところが戦後の自由恋愛をよしとする風潮の中で、いまは統計によると3〜5%程度だろうか、と推測されています。しかし、そうなると、結婚相手は自分で探さなければなりません。昨今の結婚する人の減少問題は、すぐに経済問題に還元されようとしますが、なんでも政治のせいにすれば正義になる、という考え方が蔓延しているような気がします。
婚姻を求めるパートナーは、無数に、と言ってもよいほどいるのです。しかし、もう「35億」という数字さえ、笑えなくなっているでしょう。スイーツの種類の例で挙げたように、無数の選択肢は、苦しいのです。いくら自由に相手が選べると言っても、選ぶのは大変なのです。また、失敗したくない、失敗したら周囲からどう見られるか、そういうところに人目を覚えると、ますます臆病になりかねません。
しかし「お見合い」という、家との関係や、人間関係によるつながりを求めるのもいまさらできない。となると、同じことを姿を換えてやることが可能にならないか、人は求めることになるでしょう。それが、いわゆるマッチングアプリというものではないでしょうか。お見合い相手を、コンピュータに探してもらおうとしているように見えて仕方がないのです。
統計の数字は根拠としてどうか知れませんが、一部の知らせによると、マッチングアプリの経験者は30代以下では半数を超え、実際に結婚するケースも2割以上ではないか、としています。そして、それは「出会いの手段」として当然のものだ、という価値観が広まっています。
重要なのは、マッチングアプリを、誰かに紹介してもらう「お見合い」だとは認識していないだろう、という点です。結局選ぶのは自分なのだから、これは自分が選んだ相手なのだ、という思い込みがあるかもしれないのです。だとすれば、自分は自由な意志で選んだのだ、と思わされていながら、実は何者かに操られている、という構造ができている、ということがあり得るという、ひとつの現象であるように言えるような気がしてならないのです。
しかも、それは自由に基づいていると思っていますから、自分に責任がある、という自覚も伴います。あるいは、何かよくないことが起こったら、その途端に、これは自分の責任ではない、と主張するようになるのでしょうか。誰かが決めたのだ、とするのでしょうか。戦争を始めるために賛成しておきながら、自分は加担していない、と言うようになることを、かなりの蓋然性を伴って私は予感しています。
◆〜からの自由
聖書は、この信仰によって、自由が与えられるのだ、と伝えようとしています。最も分かりやすい例が、奴隷でした。奴隷の身から自由の身になる、という比喩がよく出されています。しかし実際奴隷の身分にある人が救われて教会に来ていた、ということはなかなか考えにくい、と言われています。それよりも、それなりに自由な市民が、「罪の奴隷」になるという説明に、信仰の意味を見いだすようになったのではないかと推測されます。
「しがらみ」という言葉があります。私たちは何かに縛られています。逃れたくても逃れられない「絆し」というものがあります。あなたは何から自由になりたいのでしょうか。生まれた、あるいは育った境遇でしょうか。努める職場や会社でしょうか。取り消せない黒歴史のある過去から自由になりたいでしょうか。近隣にいる厄介な相手でしょうか。とにもかくにも様々な人間関係に、縛られないようになりたいでしょうか。
中には、「自由にしていいよ」という声が圧迫してくるから、それから自由になりたいと思う人がいるかもしれません。好きに選べ、と言われて困っちゃうよ、ということです。
「〜からの自由」というように呼ばれるタイプの自由を考えて、それで整理してみるとよい場合があります。ここで「罪の奴隷」から逃れるには、「罪からの自由」がある、と説明すればどうでしょうか。つまり「罪からの解放」のことです。パウロもこのことをはっきりと言っています。
私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。(ローマ6:6)
しかし、神に感謝すべきことに、あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から聞き従って、罪から自由にされ、義の奴隷となったのです。(ローマ6:17-18)
英語では、このタイプの自由を普通リバティ(liberty)と呼びます。これはしばしば、拘束するものを打ち破り、勝ち取った自由であるイメージをもたせます。特に、政治的な権力からの自由を強く示します。歴史的にも、西欧社会は、様々な束縛を破って自由を得てきました。つまり「〜からの自由」という捉え方に沿っているように思われます。元々「自由」という考えは、このリバティが使われていたのだろうと思われます。
◆〜への自由
しかし、先ほどの基本的人権にあった、思想や良心の自由、信教の自由、学問の自由、というときの「自由」はどうでしょうか。少しタイプが違うような気がします。こちらは英語ではフリーダム(freedom)が使われる場合があるそうです。本来人間に備わっているはずだと考えられているもののようです。しかし、これらの区別は、ニュアンスの違いや語源の問題があるものの、さほど明確に意識して使い分けられているものではない、と考えられます。
非常に深く、広い問題です。私の一言二言で何かが説明できるわけでもないし、自由について語る能力そのものも、私にはありません。あくまでも聖書から聞くものとして語るのが、私のここでの使命です。そこでもうひとつ開いた、詩編第51編に耳を傾けてみましょう。
12:神よ、私のために清い心を造り/私の内に新しく確かな霊を授けてください。
13:あなたの前から私を退けず/聖なる霊を私から取り去らないでください。
14:救いの喜びを私に返し/導きの霊で私を支えてください。
15:私は背きの罪のある者にあなたの道を教えます。/罪人はあなたのもとに帰ります。
聖書協会共同訳で「導きの霊」(14)というところが、新共同訳では「自由の霊」と訳されていました。ダビデの告解の詩です。取り返しのつかない過ちを犯し、人生最大の汚点とも言える罪に打ちひしがれている場面です。そんな最悪の精神状態で、ダビデはなお、神に導いてほしい、と願っています。神に立ち帰ることを望んでいます。
パウロはガラテヤ書で、アブラハムの二人の息子について、比較して記しています。ハガルの子イシュマエルは奴隷の子であり、サラの子イサクは自由な女から生まれたのだ、というのです。イサクは、神の霊によって生まれたのだから、肉の子イシュマエルを追い出せ、と聖書で神が命令していることは正しいのだ、としています。現代の眼差しから見ると大胆な発言ですが、言いたいことは、キリストにあって生まれた自分たちは、奴隷の子ではなく、自由な女から生まれた子だ、と言っているのです。これに続いて、パウロはこう言っています。
この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかりと立って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)
キリストが自由を与えた。キリストの救いに与った者は、もうこの世のことに束縛されなくて済む。自由なのだ。もう、世におけるあの奴隷の軛につながれるな。そのように言うのです。
きょうだいたち、あなたがたは自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい。(ガラテヤ5:13)
「自由へと召された」と、パウロは信徒たちに告げます。これは言い換えれば、キリストに出会い、救われたならば、何かから逃れるようにする自由が与えられるではない、ということです。私たちは何かに迫られて選択をするときに自由に選ぶ、という程度のものではありません。自ら進んで、神の栄光のために道をつくりだすことさえできる、と言っているのだと思います。
太平洋戦争が終わって後、焼け果てた東京の下町で、放り出された子どもたちを見て、なんとか助けたい、と生涯を捧げた北原怜子(さとこ)さん。「アリの街のマリア」と呼ばれた彼女の選んだ道は、何だったのでしょうか。明治時代、キリスト教信仰に根ざした岡山孤児院を創設するために医師への道を中断した石井十次(じゅうじ)さんは「児童福祉の父」と呼ばれましたが、その人生は何だったのでしょうか。賀川豊彦さんが「貧民街の聖者」と呼ばれるかどうか、など、どうでもよいのです。彼の選んだ生き方は、いったい何だったのでしょうか。
きっと、キリストです。キリストが与える「自由へと召された」のではないかと私は信じています。自分の損得でなく、自分の生活や命ですらなく、ただキリストに従った、キリストヘと一歩足を踏み出した、それではなかったかと思うのです。なぜなら、キリストはあなたたちを自由にするからです。
「〜からの自由」ではなく「〜への自由」とよく言われます。しかし、ここにあるのは明確に、「キリストへの自由」だと呼ばせて戴きたいと思います。そして、これに勝る自由はないのだ、と。そのための勇気を、どうか私たちに、お与えください。ペトロ書の言葉をお読みして、結びと致します。
自由人として行動しなさい。しかし、その自由を、悪を行う口実とせず、神の僕として行動しなさい。(ペトロ一2:16)