本を読む

2024年9月22日

「読む」ということに的を絞った特集の『現代思想』誌をいま読んでいる。今日はその本について述べるものではない。「読む」ことに中毒症状を有っている自分のことを、少しばかり零そうということである。
 
大抵の本はAmazon経由でここに届く。古書でしか入手が難しいものは、かつては偶然店頭で見つけるしかなかった。あるいは、親しい古書店の主に相談してみるということがないわけではなかったが、欲しいものがそれで読めるということは、殆ど期待できなかった。いまは全国の古書店が有っている本を、検索機能が一瞬で探してくれるし、価格と質の検討を、文章からだが、得ることができる。そして、大した郵送料がかかるわけでもない中で、数日内に届くのだから、実にいい世の中になった。が、それはまた、いくらでも本が増える、ということでもある。
 
読みたいと思っても、懐具合が許さないならば、指をくわえて見ているしかない。あるいは、その価格の高さに、読みたい気持ちそのものが失せることも多い。しかし、比較的安いのに、またそのうちに、などと見ていたら、他の誰から買われてしまう、という経験も度々あった。酷いときには、1時間後に注文しよう、と思っていたら、その間に買われたことがあった。
 
こうなると、これぞという価格で見つけた古書は、買っておかねば、とそそられることになる。しかし、そうやって届いた本を次々と読んでしまうことは間に合わないので、未読の本が積まれている場所ができることになる。最悪なのは、そのうち読みたくなくなってくることであるが、読みたいままに数か月そこに置かれていることもあるにしても、概してちゃんと読むことにしている。
 
しかし、頭に入ってこない、ということも多い。それなりに頭で理解するには、それなりにゆっくり読む必要がある。たいていの本にはラインを引くが、それは、常々申し上げているように、同じ部分を二度、三度と見るためでもある。もちろん、後から見る必要が起こることも少なくないし、カラフルなフィルム附箋をつけるのも、ここ何年かの習慣となっている。まるで本から髪の毛が生えているかのようにも見える。フィルム附箋は、350枚入りが110円で入手できるので、さして負担にはならない。持ち歩く本の表紙裏にも忍ばせているのが普通である。
 
それでも、頭に入ってこないことはある。自分の能力の貧困さを嘆くが、年齢を重ねると、そうしたことが多くなるとも聞く。かつての経験から読み取ることができるようになる一面もあるが、読む情報が上滑りしてしまうことも、確かに起こるのである。それはもう仕方のないことだ。諦めて、どこか愉しめるところだけを自分の世界に招待することにしよう。
 
気分転換の目的もあるが、一日には数冊の本を並行読みしている。通勤電車の中で読むのは3冊か4冊。朝読むもの、就寝前に読むもの。多いときでは並行読みは10冊を数える。硬い内容の本でも、なんとか10頁は超えて一日に読むつもりにしている。文庫の小説だと、その何倍も読むことになるが、哲学的なものとなると、真剣に読まないと、何を言っているのか分からなくなる。こうして、一日に開く本は、あれやこれやのジャンルを交えることにしていて、同じジャンルに偏らないようにしている。
 
図書館から借りているものも、普通一つはそこに含まれる。もちろんラインは引かないし、電車の中で立っていても読めるので、比較的気軽に読み進められるものが中心である。一度に10冊かそれ以上借りることもできるから、実にありがたい。図書館だと、専門書は普通ないから、それなりに使い分けて利用しているという具合である。
 
図書館に比較的近いところに住むということは、自分のためにも、教育のためにもよいことである。子どもはすっかり本が好きになった。親が読んでいたら、子どももそうなるものなのかもしれないが、私の場合は、幼い子どもたちに、とにかく絵本を読み聞かせた。読む自分も楽しかったわけだが、もちろん読み方についても本が教えてくれたし、子どもたちが読み聞かせに心を浸す様子を、ずっと見てきた。読み聞かせは、本当にいいことだ。テレビに子守をしてもらうこともないわけではなかったが、ひたすらテレビとスマホ、特に動画といったものに子守をさせている方がいらしたら、ぜひ考えて戴きたい。
 
本は家族に迷惑がられている。家族も本が好きなのだ。しかし私があまりにも部屋を乱雑な倉庫のようにしているので、とにかく嫌がられている。何度それでケンカをし、私が本をまとめて捨てたか知れない。最近はあまり捨てていないので、また動かなければならないと思っている。
 
いくら本があっても、天国には持って行けないんですからね。
 
そう言われると耳が痛いが、そこにある信仰はありがたいものである。



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