【メッセージ】祝福し合えるところ

2024年9月8日

(詩編121:1-8, 使徒9:26-31)

主はあらゆる災いからあなたを守り
あなたの魂を守ってくださる。
主はあなたの行くのも帰るのも守ってくださる。
今より、とこしえに。(詩編121:7-8)
 
◆詩編
 
詩編を愛する人はきっとたくさんいることでしょう。これから聖書を読みたいが、どこから読んだらよいか、という質問を受けることがありますが、多くの場合、私は詩編をお薦めします。詩編は、深く解釈しようとすれば難しいものだと思いますが、文字数も少ないし、感情移入もしやすいので、多くの人に安心して紹介できるのです。
 
詩編は、150の詩が集められた、旧約聖書のひとつの巻です。冒頭の第1編は、詩編全体の表題のような役割を果たしている、とも言われます。これは人間の「幸い」の道なのだよ、と。最後の第150編は、詩編全体のフィナーレに相応しい、感情の高まりを以て、ただ神を称えることで終わります。
 
その間には、様々な詩があります。気持ちが昂揚したかと思うと、自分の罪を嘆き悲しむ、悔い改めの詩と呼ばれるものも混じります。勇ましい詩もあれば、弱気な詩もあります。120編から134編の一連の詩は、ひとつの共通な特徴をもっています。「都に上る歌」という題のようなものが付いているのです。
 
これらは、エルサレムの都に上るときに歌った歌なのかもしれません。エルサレムはイスラエルの首都のようなものですが、そこには旧約聖書が誇る、神殿がありました。ダビデ王からソロモン王の時代にかけて完成した、天地の創造主を迎えるに相応しい、見事な神殿だったと考えられます。
 
エルサレム神殿に詣でるときに、仲間で歌った歌であるかもしれません。大きな祭りは年に三度あったと言われていますが、三度とも詣でることができる人が、果たしてどれくらいいたでしょうか。その人の経済力や信仰の強さなどによって、異なったかもしれません。その辺りは、研究者がもう調べておいでなのではないかと思います。ご存じでしたらお教えください。
 
今日は、その「都に上る歌」の中でも、特に有名な冒頭をもつ、第121編をお読み致しました。このような箇所から始まります。
 
1:都に上る歌。/私は山々に向かって目を上げる。/私の助けはどこから来るのか。
2:私の助けは主のもとから/天と地を造られた方のもとから。
 
◆都に上る歌
 
「私は山々に向かって目を上げる」のは、何故でしょうか。詩人は「私の助けは主のもとから」くる、と言っています。神は山にいるのでしょうか。イスラエルの神は「山の神」(列王記上20:23,28)だと呼ばれていた形跡がありますから、この「山」というものと、「主」という神が、同一視されているような感じは窺えます。
 
東京行きの列車がすべて「上り」であるように、エルサレムに向かって行くことはすべて「上り」というわけでしょう。エルサレムは確かに標高が750mほどです。100kmほど東には死海がありますが、死海の湖面は海抜-430mと言われ、地表で最も低い場所とされています。その死海から見上げれば、エルサレムは1200m近く高い場所にあることになります。
 
「私は山々に向かって目を上げる」というのは、実際目を上げて見ていることになるでしょう。そのとき、エルサレムとその丘を見上げる眼差しは、同時に空、あるいは天を見ている、ということになるかもしれません。神のいるところを天と思う気持ちは古代人にもありましたが、エルサレムを見上げる眼差しは、神を見上げていることと全く同じ営みだという気持ちであったのではないでしょうか。
 
「私の助けはどこから来るのか」と問うても、それはやはりあの神殿の神、万物を創造した、天の神であるに違いありません。そうなると、あのエルサレムに上り、神殿に詣でることは、わくわくすることだったのではないでしょうか。
 
日本でも、江戸時代からのお蔭参りは大盛況でした。お伊勢参りというものは、非日常なありかたに飛び込む、非常にハイテンションになるものだった、と言われています。エルサレムに向かう人々も、ずいぶんとうれしい気持ちになっていたのではないかと思います。
 
そのわくわく感の中で、主こそ助けだ、救いだ、という信仰で胸が一杯になったことでしょう。さあ、今からついにあの神殿に行くのだ。人々は、ふだんの生活とは異なる心理の中で、うれしい気持ちになったと思われます。もしかすると、その神殿参りが、生涯ただ一度の出来事だった、というような人がいたとしたら、尚更のことです。
 
◆あなたを守る主
 
こうして、「都に上る歌」は、気分を上げる歌にもなったことでしょうが、正に山の上のエルサレムに向けて歩いていきます。心も天に上るような気持ちでしょう。このとき詩人は、先ほどお読みしました箇所では、「私は」「私の」と言いながら、天を見上げていました。しかし、この次から様相が変わります。
 
3:主があなたの足をよろめかせることがないように。/あなたを守る方がまどろむことがないように。
 
詩編では、時に主が人間に対して語る言葉が演じられるように歌われていることがあります。そのとき、主なる神から見て、人間のことを「あなた」と呼ぶことは確かにあります。しかしここでは、明らかにそうではありません。「主」は別に登場するからです。確かに詩人の言葉です。あるいは、この詩の中に置かれた、人間の言葉です。
 
どうもこれは、この詩を大勢で歌ったのではないか。そう解釈する人がいます。だから、たとえば賛美リーダーがいるとして、賛美リーダーが、最初の二つの節を歌ったとします。すると、このリードに導かれて、他の巡礼者が、その後の節を歌った、などと理解するのです。
 
面白い解釈ですが、歌う形態やメロディ、その演奏については、私たちは何も情報をもちません。あくまでのここにある言葉に注目して、もう少し読んでいくことにしましょう。
 
さあ皆の衆、喜ぼうではないか。共に祝福し合おうではないか。私には、そんな気持ちに溢れた歌の様子が目に浮かびます。主はあなたを守られる。まどろむことなく、あなたをいつも見つめている。もし信仰者がよろめくようなことがあったら、すぐさま主は助け起こしてくださるであろう。危ない目に遭わないように、その人を主は覆い、助ける。昼も夜も、あなたは守られる。体も心も守られる。この猛暑の陽射しで倒れるようなこともないし、夜は月の光に精神が冒されるようなこともないのだ。
 
古来、精神病は月の影響による、と考えられていました。ギリシア・ローマ神話に合わせてLunaという女神があるのですが、これにまつわるlunacyという語は、いまでは狂気や精神錯乱を意味する語です。ですから、太陽や月によって、人間はおかしくなる、という理解があったことに応じて、ここでは、主はそうした太陽や月からも守られて、人間が健全でいられるのだ、と歌っていたことになります。
 
あらゆる災いから、身も魂も守ってくださる主。私がどういう者であれ、神は守り支えてくださいます。そしてこれはとこしえの約束だといいます。なんと慰めに満ちたメッセージであることでしょうか。
 
◆教会
 
歌の構成については明確に示せませんでしたが、ここには、仲間に対する祝福としては申し分のないものを感じることができるような気がしてなりません。新約聖書で「互いに愛し合いなさい」という戒めをイエスを教えてくれましたが、「愛する」などと肩に力を入れなくても、ここには互いに愛し合っている仲間の関係があるように感じられます。
 
「主はあらゆる災いからあなたを守り/あなたの魂を守ってくださる」というような言葉は、究極の祝福であるように、私には見えます。はて、私たちは教会で、このような祝福を、信仰の友に向けて投げかけることがあるでしょうか。真心からそのように、祈りを向けていますでしょうか。
 
とにもかくにも、詩の中で「あなた」と呼んでいるのは、確かに仲間の人間です。共に都へ上る仲間です。もしこれが直にエルサレム詣でではないときに歌われたとしても、同じ主を拝し信じている、イスラエルの同胞のはずです。今の言葉でいうなら、「教会」だと呼んでよいと思います。組織としての教会のことを言っているのではありません。建前で教会団体だから、そう言っているわけではありません。建物でもないし、法人でもありません。キリストを信じ、キリストに出会い、キリストの救いを経験し、キリストの霊を受けた人々が集まっているものをいいます。新約聖書が「エクレシア」と呼んでいる、人々のことです。
 
新約聖書では「エクレシア」という語を、私たちは「教会」と訳しています。旧約聖書では「教会」と呼ぶわけにはゆきません。しかし、正にそのようなものとして、「教会」と呼んで然るべき仲間の間から、この詩は歌っているように思われます。そのような歌は、すでにひとつの祈りとなって、溢れます。この詩は、祈りに満ちています。
 
主はイスラエルを守ります。主は眠って私たちのことを忘れてしまうようなお方ではありません。つねに私たちをご覧になっています。つねに守りを与えてくださっています。そう、「主はあなたを守る方」なのです。あなたを覆う陰となって、あらゆる攻撃を阻んでくださいます。強い日の光も及びません。狂気も近づけさせません。もちろん、現実の敵の攻撃からも、守ってくださるというのです。
 
◆サウロの回心
 
詩編第121編と共に、本日は、使徒言行録9章もお開きしました。後にパウロとなるこの男は、このときはまだサウロと呼ばれていました。サウロの立場に思いを寄せて、サウロの回心の、続きの場面を追いかけてみようと思います。この直前に、サウロは、突如光を浴びて目が見えなくなります。イエスに呼びかけられ、イエスと出会い、救いを体験します。目は見えるようになりましたが、キリストの弟子たちの下に招き入れられたところでした。
 
26:サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。
27:しかしバルナバは、サウロを引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼が旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって堂々と宣教した次第を説明した。 28:それで、サウロはエルサvレムで弟子たちと共にいて自由に出入りし、主の名によって堂々と宣教した。
29:また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうと狙っていた。
30:それを知ったきょうだいたちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ送り出した。
31:こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。
 
このサウロは、後のパウロです。私たちは、高校の教科書にも載るような、キリスト教を世界宗教にした偉大な伝道者であるパウロについて、いくらかの知識をもっています。いわば、歴史の「その後」を知っている立場から、この記事を読みます。つまり、この使徒言行録が書かれたとき、この記事が二千年後に、東洋の片隅に住む私のような者が熱心に読んで信じることを、予想していたかというと、決してそうではない、と思うのです。
 
パウロなしでは、キリスト教は成立しなかったかもしれず、その後の二千年の歴史もあり得なかったようなものでした。私たちは、そういう歴史の結果を知っています。
 
ヒーローがいる。物語の中で、その人は仲間になかなか受け容れられない。誤解され、不遇な環境にいる。でも、それは主人公である。いろいろな困難をくぐり抜け、やがて輝く存在になることが分かっています。だから、いじめられていても、危機に遭っても、安心して物語を見てゆくことができます。
 
でも、それを一旦抜きにしてみましょう。この記述されていた現場に、正に身を置いて眺めてみましょう。サウロがその場に置かれてどう感じていたか、精一杯想像してみましょう。
 
それまで、キリストの弟子たちを迫害してきました。命を奪うことにも加担していました。それは、ユダヤ教という自分の宗教と社会における、間違いない「正義」に基づくものでした。サウロは正義漢でした。
 
しかし、復活のキリストと出会ったことで、サウロは変わりました。迫害していた者たちが信仰していた、そのキリストと、出会ってしまったのです。おまけに、いまそのキリストの弟子たちの中に迎えられています。いわば、自分が殺しまくったグループの生き残りたちに、囲まれているのです。怖くないですか。復讐されても仕方がない立場です。完全に四面楚歌なのです。
 
サウロはキリストの前に立っています。イエスがキリストである、と叫んでいます。まるでキリスト教徒であるかのような顔をして、堂々とイエスを称え、語っています。しかし、それを周りから見つめる、当のキリスト教徒からは、白眼視されていたのではないでしょうか。簡単に信用されることなど、ありえないのではないでしょうか。あんなことをしているが、スパイに違いない。頃合いを見て自分たちを一網打尽に逮捕しようと狙っているに違いない。そう思われているかもしれません。憎まれているかもしれないのです。サウロにしてみれば、命の危険を感じざるを得なかったと思うのです。
 
◆教会に迎える
 
もちろん、使徒言行録を書いたとされるルカと呼ばれる人物は、サウロについて、好意的に書いています。後のパウロがどんなにすごいことをしたのか、知っているからです。また、そのときサウロは、ユダヤ人に憎まれた、というような描き方を盛んにしています。ユダヤ人だけの宗教だったことが、世界に拡がり、異邦人社会で信仰されるようになる姿を、なんとか記録したいと思っていたのだと思います。
 
この憎きサウロを仲間に迎え入れた責任者は、バルナバでした。バルナバは、信徒の中でも信用の厚い人物であったことは間違いありません。献金も多く献げていたようです。バルナバは、サウロを信用できました。それで、仲間に対しても、サウロを迎えようではないか、と説得したのだろうと思われます。ルカの筆致は、この説得により、教会の仲間が、あっさりとサウロを信用して受け容れたかのように聞こえる描き方をしています。
 
でも、仲間たちは本当に、そんなに簡単に信用できたでしょうか。
 
素晴らしい信仰の教会だったのだ。そのように受け取ることも、もちろん可能です。けれども、献金を巡るトラブルや、食事を巡る諍いも、ルカは正直に描いています。教会に問題がなかったわけではないのです。このサウロにしても、ここに描写されたほどには、あっさりとすぐに受け容れられたのではなかった、と想像したいと私は思います。
 
ただ、やがて結局受け容れられたのは確かでしょう。サウロは、キリスト者たちの仲間になりました。「教会」の一員と認められました。
 
いま、私たちの教会に、風来坊が現れたら、どうでしょうか。それは、かつて素行が悪かったことで有名な人物です。皆がそれを知っています。教会に害を与えたことすらあります。いま本人がしゅんとして、回心しました、などと言ってはいますが、私たちは何の抵抗もなく信用できるでしょうか。
 
もう一度問います。簡単に信用できるでしょうか。簡単に仲間に迎え入れることができるでしょうか。
 
◆互いに祝福する
 
詩編121編では、「私」と「あなた」という呼び方が混在していました。具体的にどのような意味でそれが使い分けられていたのか、私は判断を保留しました。ただ、そこで「あなた」は祝福される者でした。単純に、「私」が「あなた」を祝福しているという構図を、そこに見ておくことにしましょう。
 
するとこのサウロの場面にそれを適用すると、すでに神への信仰をもち、教会の側にいた「私」がそこにいて、「あなた」を祝福している構図を重ねるようなことになるでしょうか。もちろんその「あなた」とは、サウロのことです。敵でしかなかったサウロを、「あなた」と呼んで祝福している情景を想像します。
 
私たちは、「誰でも教会に来てください」と軽々しく言います。気軽になど無理なことを知ってか知らずか、「どなたもお気軽に」という常套文句を掲げます。現実には、本当に誰でも来てよいかどうか、考えたことがありますか。ヤコブ書が、みすぼらしい身なりの人を差別する様子を書いていますが、あれは決して他人事ではないと思うのです。
 
サウロは、教会に迎え入れられました。私たちが、サウロを教会に受け容れました。そのまま空想を豊かに展開しましょう。サウロのための居場所を用意しました。そうして、共に同じ主を信仰する者として、共に「教会」を築くことを決意しました。詩編で、共にエルサレムを見上げながら、そして歌いながら、歩いていった同志たち、そのように、この世で生きている限り、声がある限り、共に主を賛美し、共に励まし合いながら、天のエルサレムを目指して歩む仲間が、「教会」と呼ばれるべきものなのです。
 
しかし現実には、そこに「毒麦」が混じっているかもしれません。しかしイエスは、たとえ毒麦があっても、自分たちでいますぐどうこうせよ、とは教えませんでした。すべては定めの日に、神が決着をつけるというのです。苦々しい毒麦も、見た目では判断がつかないわけです。自分では、信用がおけない奴がいる、と思うかもしません。しかし相手から見れば、こちらこそ、鼻持ちならないと思われているかもしれないのです。
 
苦々しく思うような人も、神がそこに招いた宝のような人物である実例を、サウロの話は伝えてくれています。これからエルサレムを目指して共に歩む仲間なのだ、と詩編が助け合って歌う、あのメンバーの一人に、サウロは確かにいたことになります。私たちはサウロを祝福します。サウロもまた、私たちを愛し、祝福してくれます。そういった良き関係に、これからなっていったのだ、というように私たちは聖書を理解しています。
 
それを思うと、神は、人間には思い込みや偏見というものがあることを、ちょっと思い起こせ、と注意を与えているのかもしれません。サウロを見て思い込むのはやむを得ない面がありますが、それに気づき、意識することで、私たちはひとつ信仰の成長を与えられるかもしれません。神は私たちが、自分の感情や欲望を乗り越える道を、備えているように信頼してくださっているように感じます。
 
現実は、自分が思い描いた絵のような美しさで展開はしないだろうと思います。「神よ、どうして」と思うようなことも多々あるに違いありません。でも、そのときにこそ、神が自分に呼びかけている言葉に、いっそう集中致しましょう。神からの声を聴くことにこそ、熱心になりましょう。神が私たちを信頼してくださっていることも、信じましょう。
 
7:主はあらゆる災いからあなたを守り/あなたの魂を守ってくださる。
8:主はあなたの行くのも帰るのも守ってくださる。/今より、とこしえに。v  
主の神殿を目指す旅の途中、私たちはいまここに、主から祝福を受けているのです。この祝福は、確かにここにあります。確かに私たちは受けています。そしてこの祝福は、すでに始まっており、恐らく永遠に、終わることがないのです。



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