【メッセージ】怒りについて
2024年8月25日

(ミカ7:8-20, ヤコブ1:19-20)
あなたのような神がいるだろうか。
ご自分の民である残りの者のために過ちを赦し
その背きの罪も見過ごされる方。
いつまでも怒りを持ち続けず
むしろ慈しみを望まれる方。(ミカ7:18)
◆怒りと憤り
暑いと、人間は怒りっぽくなる。そう言われることがあります。苛々は、体調からもくることがあるからです。それに、理性の抑えも利かなくなるから、とも言えるでしょうか。しかし、身近な人への八つ当たりは、できればしないほうがよいと思われます。甘える気持ちから、当たることができる、というのも本当かもしれませんが、まあほどほどにしないといけません。
怒り、あるいは腹立ち。世の中に対して、私たちは怒ることもあるでしょう。自分勝手なわがままのような怒りもあるでしょうが、もっと公的なことについての怒りもあるでしょう。政治家の不正、企業の犯罪、凶悪犯罪などの報道に怒るというのもそうでしょうし、それらの原因をつくる社会の空気について怒っている場合もあるでしょう。
政治家も、庶民の怒りを買えば、やっていけなくなります。逆に、庶民の怒りを味方につけるような動きをとれば、政治の原動力にもなるでしょう。うまく引き寄せると、自らの票や支持率につながります。人心をコントロールするのが、政治家としての第一の才覚なのかもしれません。
こうした「社会に対しての怒り」は、隠すべきことではないかもしれません。確かに、社会に対する怒りは、表に出すのは勇気が要る場合があります。ネットで意見を言うだけで、よってたかって攻撃されることさえ当たり前の世の中です。「言わぬが花」は、いかにも日本的な格言なのかもしれません。が、そうした沈黙は、悪い事態を助長することにもなりかねません。
もし、「怒り」というものを公にすることに意義があるなら、その怒りは、むしろ「憤り」という表現で示したほうがよいかもしれまん。それは、必ずしも感情に引きずられるものではなく、もっと理性的なあり方を指していると思われるからです。特に、何が正しいか、という問題について異議を発するならば、それは昔から「義憤」と呼ばれていました。
「正義」の意味での「義」は、社会的現実に対する、庶民の抵抗でもありました。世の不正な富に手をつける「鼠小僧」は、「義賊」として伝えられ、庶民のちょっとしたヒーローとされました。「悪法もまた法なり」と自ら毒人参を呷ったソクラテスとは、まただいぶ違った姿で、日本的な仁義を果たす「義賊」なるものですが、法を犯すことについては、感情で拍手喝采をすることはできないのは確かです。だから、政治の立法機関というものは、重大な権力を決定する、大きな責任を負っていることになるのです。
◆怒りについて
ここで、「怒り」について分析をするような大それたことは私にはできません。ただ、「怒りについて」と聞くと、少なからぬ人々が、セネカの『怒りについて』を思い起こす場合があるでしょう。
セネカの時代は、恐らくパウロが初めて伝道旅行に出かけた頃、各書簡を執筆し始めた頃ではないかと推測されます。ローマ皇帝の傍で政治家としても活躍したが、ネロを支持していたにも拘わらず最期はネロの怒りを買い、毒人参を飲まされ自殺へと追い込まれたと言われています。
哲学者としてセネカは、多くの著作を遺しています。いわゆるストア派の哲学者に数えられます。降りかかる苦難を超えて、心の平安をもたらす思想だと言われます。ここでもセネカは、「怒り」というものがいかに価値のないものか、有害なものか、を説こうとします。どうすれば怒らずに済むのか、また怒りについてどう対処すればよいのか。まことに実用的な知恵であり、いまセネカがいれば、いくらでも本を書いて売りまくったことでしょう。
それは、キリストの「赦し」というものとはまた違いました。しかし、人や世の中が誤ったとしても、それにいちいち怒るべきではない、と話します。セネカ自身が言っているのですが、なるほど、耳の聞こえない人が命令について聞こえず知らなかったといって、それに対して怒るのは賢明ではないでしょう。
人々は、罪を犯した人間にばかり目を向け、怒りを発します。しかし、怒りはむしろ、その罪自体のほうに向けられるべきではないでしょうか。そして、そのような怒りを覚えたら、むしろ自分のことを振り返る機会とすべきだ、と言います。自分のことはどうか、と考える目をもつならば、過激な怒りに身を染めることはないであろう、と。
こうした知恵は、聖書に重ねようと思えばできる場合があります。イエスが、裁くな、と教えたことや、自分と神との関係を考えよ、と促すのも、構図としては似ていると言えるかもしれません。
こうした怒りのコントロールについては、現代では、たとえば「アンガーマネジメント」といって、怒りをコントロールする心理トレーニングがよく提言されています。おそらく半世紀ほど前に始められた考え方でしょうが、かつての宗教が、様々な面で活かされているのを見ることができます。
◆イエスの怒り
さて、聖書です。今日は旧約聖書のミカ書をメインとしました。主なる神の怒りにも注目したいのですが、しかし、もっと「ひと」として生きてくださった神としてのイエスが、時折「怒り」を示すことがあるように思うので、そちらからアプローチしてみることにしましょう。
なお、イエスに対して人々が怒る場面はいくつもあります。イエスを亡き者としようとする、血眼になった権力者や群衆の怒りがちょくちょく見られます。しかし、イエスが直接怒ったというような描写は、さほど多くありません。あまりシチュエーションの解説に拘泥せず、3箇所だけご紹介します。恐らく皆さまが想像したあの場面を省いて、地味なところだけを選んだ、とお叱りを受けるかもしれませんが……。
イエスは怒って彼らを見回し、そのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。(マルコ3:5)
イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。(マルコ10:14)
これらはマルコ伝です。最初の箇所は、安息日に人を癒やすのかどうか、イエスを訴える口実を探していた人々に対して、怒っていたようです。後のほうは、子どもたちを連れてきた親たちに対して弟子たちが叱ったところで、イエスが弟子たちを戒める場面です。
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、憤りを覚え、心を騒がせて、(ヨハネ11:33)
イエスは、再び憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石で塞がれていた。(ヨハネ11:38)
泣いていた「彼女」は、マリアです。ラザロの兄弟です。イエスの友ラザロが死んだのです。マリアは、イエスがここにいたら死なずに済んだ、と訴えて泣いていました。マリアと近隣の人々の涙に対して、イエスは憤りを覚えたのです。イエスはしかし、この後ラザロが葬られた場所に案内されて、新約聖書の中で最も短い節と言われるところで「イエスは涙を流された」(11:35)と、涙を流します。しかし、ラザロを死なずにできなかったのか、と喋るユダヤ人たちの声を聞いて、イエスは「再び憤りを覚え」たというのです。
マルコが使っていた「怒った」とは別の語です。因みにマルコの二つの「怒った」もそれぞれギリシア語としては違う語ですが、ヨハネの二つは同じ語です。こちらは、「深く心を動かされる」というようなニュアンスがある語だと思います。感情が激しく揺さぶられた様子が想像されます。
◆神の怒り
ところで、主なる神、あるいは父なる神のほうですが、こちらは実によく怒るような印象があります。旧約聖書を思い起こしますが、神はイスラエルに対して、実によく怒ります。それらを挙げていくのは実質不可能です。なんだかんだと、神は人間に対して怒ります。どうしてこんなに短気なのか、と言わせるほどに、呆れることがあります。
そういう神の姿を見ていると、旧約の神は怒りの神だ、裁きの神だ、と怖くなるのも無理もありません。その怒りは、民数記から申命記になるにつれ激しくなりますし、その後ずっと続きますが、歴代誌などは目も当てられない程です。
そしてヨブ記も、気の毒なくらいに神の怒りが話題になります。箴言の怒りはさすがに人間の感情としての怒りのことですが、詩編の神も、相当に怒っています。そして、預言書、とくに四大預言書は怒りのオンパレードとなっています。小預言書でもいくつも見られます。終末の決定的な時は、「怒りの日」であり「憤りの日」と呼ばれ、神の怒りがこれでもか、というほどに溢れます。
だからもちろん、新約聖書でも、「黙示録」には、その怒りがふんだんに描かれることになります。そのときには、悪魔の側も相当に怒りますから、もう全編怒りのぶつけ合いのようにさえ見えるほどです。
そこでひとつ注目しますと、パウロがこのようなことを記しています。
誰にも悪をもって悪に報いることなく、すべての人の前で善を行うよう心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と聖書は言っています。(ローマ12:17-19)
この言葉は、よく「復讐するは我にあり」と昔の訳を使って用いられます。作家の佐木隆三さんがその名を以て小説にしたため、特に有名になったかと思います。佐木さんは若い時と晩年とを北九州で過ごした人なので、私にはちょっと縁があるとも言えます。物語ではカトリックの信徒を犯人として、描いていました。
これは神の言葉として使われており、この「我」というのは神のことですから、人が安易に裁きを下すことをするな、ということの謂であるわけです。
◆人の怒り
Eテレの「日曜美術館」で、この7月の末に、香月泰男(かづきやすお)さんが取り上げられ、8月にも再放送がありました。今年になり、番組司会を坂本美雨さんが担当するように替わってから、日本の美術が紹介される機会が、以前より増えたように思います。そのため、これまであまり知らなかった日本人にも多く触れることができるようになりました。
香月泰男さんは、シベリア抑留の経験者です。それそれは過酷なものであったと聞いています。終戦後、満州などにいた兵士は、戦勝国ソ連の収容所に入れられ、強制労働の日々を送りました。香月泰男さんの場合は、2年後に日本に戻り、後に九産大の芸術学部に招かれます。それと前後してでしょうか、「シベリア・シリーズ」と呼ばれる作品群を発表してゆくのです。
画面一杯が殆ど黒に染まった構図の中で、痩せ衰え、寒さの中で死んで行った仲間たちの苦しみと呻きのようなものが、かろうじて顔だと分かるようなものとして描き埋め尽くされます。よく見ると、その黒の中に、文字が時々見えます。何度も書かれている文字が、「朕」。若い人は学校でことさらに習わなければ知らないかもしれません。天皇が、自分のことを呼ぶときに、「朕」という呼称を使うのです。
戦後の食糧難のときに、もはや現人神ではなくなった天皇の言葉を揶揄して、庶民がプラカードを掲げて歩きました。「詔書 國体はゴジ(護持)されたぞ 朕(ちん)はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ」
これを、大日本帝国憲法での「不敬罪」がまだ生きていたために、大問題となりました。結局、民主憲法を鑑みて「大赦」扱いとされたようですが、当時は当然誰もが「朕」という言葉を知っていました。香月泰男さんは、この「朕」のために、死んで行かねばならなかった無数の人々の怨念を背負って、キャンバスに刻み込んでいったかのようでした。
この「怨」とも呼べるような「怒り」を、傍から見ているキリスト者が「怒るな」と言えるでしょうか。自分としては痛くも痒くもない事柄に対して、独り善がりの正義漢を振りかざして、怒りに支配されたかのようなこの画家の筆を、止めることは許されるのでしょうか。
世の中には、怨念の力で生き延びているような人もいます。この恨みを晴らすまでは死ねない、と執念を燃やす人間の物語は、時々ドラマにも描かれます。そしてそれは、フィクションだけの存在ではないように思います。もしかすると、その願い叶わず、命を終える人もいるでしょう。実際、そちらのほうが多いように思われます。公害病における闘いを続ける人がいます。拉致事件の被害者家族の闘いもあります。放射能汚染の、実質的な、また風評被害における、闘いに喘ぐ人もいます。この風評については特に、私たちは決して無関係で無責任であると決まったわけではないように思います。
◆義憤
いま他人の怒りを見つめてきましたが、私たちは、自分は決して怒っていない、と勘違いをしていることがあります。気づかずに自分が怒っていることがあると思うのです。私などは大抵そうです。周りから見れば、怒っているじゃないか、と言われますが、自分ではそう言われて意外だと思うこともあります。
中学生のときのことでした。いまでもあるのですが、「合唱コンクール」というクラス対抗のイベントがありました。私は指揮者に選ばれました。責任を感じました。せっかくやるのなら、よく練習をして、よい成績を収めたいものです。当時は土曜日も授業がありました。コンクールの前の週の土曜日、午後少しだけ残って、練習をしよう、と皆に呼びかけていました。
そして土曜日の午後、さあ少しだけでいいから練習をしよう、と私が言いますと、一部の男子たちが、「そんなことは聞いてない」と言いました。合唱コンクールに対する「温度差」のためでしたが、私は、彼らが呼びかけを聞いていないはずがない、ということは分かっていました。「それに、腹が減るじゃないか」と彼らが言います。身体的苦痛を持ち出されては、強要はできません。「じゃあ、食べたならいいんだな」と、私は購買部に行って、パンをたくさん買ってきました。こうなることを予想して、小遣いを集めて持ってきていたのです。
彼らは驚きました。そしてしぶしぶ食べると、気の乗らない練習に参加するのでした。これには翌週、パン代を払ってくれた人もいましたが、払わずじまいだった人もいました。私は別に、それはどうでもいいことでした。私は、正しいことをしたつもりでした。しかも、自己犠牲を払った、英雄気取りになっていました。
私は確かに怒っていました。そして、それは自分が正しい、という思いに満ちた怒りでした。でも、ほんとうにそれは、正しかったのでしょうか。
そうです。人は、正義から怒ることがあるのです。自分は正しい。この結論が――本当は前提に過ぎないのですが――あるからこそ、人は堂々と怒ります。そして、それを「義憤」と名付けます。自分で、自分が正しい、と名付けるのです。
何も、社会正義のために義憤を示すのではありません。とにかく自分が正しいと思うから、怒るのです。しかしそれは、人間として、ある程度、仕方がないことなのかもしれません。初めに触れたように、社会に対する怒りをもつことは、時に必要であり、大切なことであるからです。
けれども、聖書はその点を、非常にソフトに、戒めています。
怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。(エフェソ4:26)
ありがたいものです。「怒るな」とは言っていません。「怒ることがあっても」と譲歩しています。日が暮れる頃には、その怒りを忘れてしまうとよいのだ、という、極めて現実的な知恵を授けてくれています。そこで、少し落ち着いたら、ヤコブ書の1章にも、耳を傾けてみましょう。
19:私の愛するきょうだいたち、よくわきまえておきなさい。人は誰でも、聞くに速く、語るに遅く、怒るに遅くあるべきです。
20:人の怒りは神の義を実現しないからです。
それでは、人の世の悪を許すのか。そんなことを、パウロだったら問うかもしれません。人の世の悪を見逃すのがよいのでしょうか。見て見ぬふりをするのが、よいのでしょうか。いえ、きっとそんなことはないでしょう。義憤を我慢しろ、と言いたいのではない、と思うのです。
◆怒りと赦し
ただ、自分への戒めとしなければなりません。怒りは、しばしば自分を正義とするのです。他人に対して怒るのは、「自分が正しい」ということを前提とするからです。そして、そういう怒りを、まともに受けてしまったのが、あのイエスだった、とは言えないでしょうか。
イエスは恨みを買ったのです。妬まれたのです。あるいは、そんな言葉で説明できないほどに、人の悪い心により、いつの間にか、十字架の上に上げられてしまったのでした。
日本の怪奇現象としては、恨みとか呪いとかが、好みでしょう。怪談は、えてしてそうした動機から始まります。怨念というのは、そういうところで生まれているわけです。しかし、社会へ対して怒らねばならないこともあります。誰かのために、そして正義のために。ただ、社会への怒りがあることで、自分が正義とするのは怖い、ということを言っているわけです。
それは、自分に対して怒ることを知ることでもあります。どうしてあんなことをしたのだろう。怒りの拳を振りかざすことも、必要なのです。但し、自分に対して、です。自分は怒っていたのだ、と意識することです。見えなかった自分を嘆くことです。
そして、キリストは何に対して憤ったのでしょうか。人々の「不信仰」に怒った、そう考える余地はあるだろうと思います。死に対して絶望することに怒るのは当然かもしれませんが、それもイエスにとっては憤りの理由でした。イエスは、やがて神の怒りを全面的に引き受けることになるからです。
その神の怒りとは、何だったというのでしょう。御子を十字架につけることを認める、それが怒りのすべてでしょうか。そうかもしれません。しかし私たちは、時に神の心を見失います。神の怒りとはその程度だったのでしょうか。
旧約聖書には、神の怒りがたっぷりあって、新約聖書ではその怒りは愛によって止揚されたのだ、と言う人がいます。黙示録にも神の怒りがたっぷりと描かれています。たいへん恐ろしい情景ですが、神の怒りはその程度のものなのでしょうか。
私たちの想像してきた「神の怒り」など、ほんのわずかな部分でしかなかったのかもしれません。神の怒りなるものが、私たちの想像する程度のものであるなら、私は大したことはない、と考えます。人間の想像力をすべて超えている、と思うのです。
世界を滅ぼすほどの、激しい出来事なのです。もちろん、天から降りてくる新しい都エルサレムが、黙示録には描かれています。その都の巨大なことといったら、少し数字を見渡せば分かることです。そんな都が、地球上にできるはずがない、とも思えます。確かにそうです。桁違いなのです。
人は、世界を破壊するほどの兵器力を手にしてしまいました。そのスイッチを、ごく少数の、決して思いやりのあるようには見えない人の手に、私たちは委ねています。それを「抑止力」と言って褒めあげる人が少なからずいます。ひとつまちがえば世界を破壊するスイッチが、本当に抑止力なのでしょうか。抑止が永久に続くと、誰が責任をとることができるのでしょうか。
神は、人を用いてでも、神の意志を貫くといいます。神自らの手がそれをなす、とは決まっていないように見受けられます。人の愚かさにより注が滅びても、それは「神の怒りだ」と私たちは呼ぶでしょう。もしも生き残っていたならば。
だから、それを責め詰めるのではなくて、互いに赦すところから、始められたら、と願います。憤りを自分の正義としない道があるとすれば、その「赦し」にしかないのではないか、そんなふうに最近考えるようになりました。
神は、過ちを赦す方である、というのですから。