しあわせとよろこび
2024年8月25日

時折「幸福論」が表に掲げられる。人は、結局のところ、「しあわせ」を求めている、ということで、概ね間違ってはいないものと思われるからである。
結論的に言うと、聖書は、実はいつもこの「しあわせ」を気にして綴られている。旧約聖書は「幸いなり」と始まる詩編が象徴しているようにも思われる。これを受け継いだのが、新約聖書のマタイによる福音書である。イエスの有名な教えの中に、「幸いなるかな」で始まる8つの教えがある。
もちろん、こうしたことだけでは終わらない。旧約聖書では、申命記というところが、「しあわせ」へと続く道を、その逆の呪いへと向かう道と対比させる形で、印象的に明らかにしている。
訳語に「しあわせ」が出てくるかどうかは、また別として、聖書はあちこちで、この「しあわせ」へとつながることが、盛んに述べられている、と理解ができるだろうと思う。確かにこの世では試練がある。だが、苦難も試練も、その先に「しあわせ」がある、という世界観を提示しているという点では、聖書はブレることがない、と思うのだ。
「しあわせ」になりたい。それは多くの人の願いであろう。「しあわせ」という語にはどんな意味をこめているか、それは千差万別であろう。大金持ちで長生きして、というような理想を掲げる人がいてもいいし、せめて家族が一緒にいられたら、という切ない願いをもつ人もいるだろう。この病が、この苦悩が、せめて取り去られたら、と切実な望みをもちながら、叶えられないという人も、たくさんいる。
だから、「しあわせ」と呼ぶことについて、あるいはその概念について、ずいぶんと温度差があるには違いない。しかし、その温度差をすべて含めた上で、それでも、その人はそれを確かに「しあわせ」と呼んでいるのではないだろうか。
また、「よろこび」の人生を送りたい、という願いを強くする人も、いることだろう。これに対しても私はまた、聖書は実はこれをもたらすための書である、というふうに捉えたいと思う。
そのようなな小さなことにしあわせを感じ、よろこびとして受け取るなど、弱い人間のすることではないか。そのように批判する人も、いることだろう。「弱者」と呼ばれてもなお、それを甘んじて受けることを拒みさえしなければ、キリスト者は、このささやかな「よろこび」を十分大きなものとして、受け止めている者たちである、とも言える。ある意味でおめでたい者なのだ。
いま喜べない人もいる。だから、いつか、喜べるようになるだろう。そう希望している。キリスト者とは、おめでたい者なのだ。それを、「信じる」というのだ。神の存在を信じられない、などというところでブレーキを踏んでいる人は、もったいないと思う。聖書は、きっと「しあわせ」に至る道を教えてくれる。「よろこび」を与えてくれる。悲しみの人にも、苦しみの中にも、必ずそれは見出される。
あなたの心の中に邪魔をする、聖書についての先入観がふと破れ、聖書に対して心が開かれたら、といつも願っている。