臨終に思うことのひとつの想像

2024年8月7日

「ご臨終です」という言葉は、いまでは耳にすることがなくなったような気がする。元々は仏教用語である。だから僧侶の口から出てくるのが筋なのだろうが、法的には医師が死亡確認をすることになっているから、医師の口から「ご臨終です」と出てくることになるのだろうか。あるデータでは、3割の医師がこの言葉を使っているともいう。
 
そもそも、死に臨むことを言うため、決して死亡宣告という意味ではないのだろうと思う。私たちがこの文章を書いたり読んだりしている以上、その当事者になったことはないと言える。すべては想像の中で記すことであるに過ぎない。
 
映画やテレビドラマでは、家族が集まった中で、息を引き取る。あるいは、最愛の人の腕に抱かれて、がっくりと頭を垂れる。いかにもドラマチックな画であるが、そういった場面に巡り逢えた人が、どのくらいいるのだろうか。
 
夜爪を切ると、親の死に目に会えない。昔はそういう言葉があった。話によると、江戸時代からある言葉だという。そういう時代のことである。暗がりで爪を切ると、怪我につながり、細菌感染もあっただろう。要するにやめとけ、という戒めだったのかもしれない。
 
舞台俳優のような人は、親の死に目に会えないことを覚悟する、と言われる。私が勤めた学習塾のその教室の長の口から、それを聞いたときには背筋に凍るものを感じた。そう言って、塾の授業を休むな、と若い講師に諭していたのだ。この長、受験期に父親が亡くなり、突然一週間デスクを空けた。挙句、ついに姿を見せず別の教室に異動となった。人間というものを見た。
 
しかし、事実上、ドラマの演出のように、親しい人々に囲まれて息を引き取るということは、なかなかないのではないか。臨終のとき、周りに肉親に囲まれる。愛する人に手を握られる。それは幸せなことかもしれない。だが、そうでないから不幸なのか、というと、そうとも限らないのではないか、という気がしている。
 
目の前の最後の風景に、親しい人がいる。多分に悲愴な顔をして、泣いている。それを冥土の土産にする、というのもひとつだが、死は個人的なものである。ひとりで意識が薄れていく、というのが自然なことなのかもしれない。
 
むしろそのときには、悲しい顔をした知人はいない。あるいは、会いたくなかった人の顔を最後に見るようなことも回避できる。そして、愛する人と共にいた、幸せな時のことで心を一杯にすることもできる。あのとき、うれしかったなあ。幸せだったなあ。そんな、一番いいときのことを思い出しながら、逝くというのは、案外望ましいことであるかもしれない。
 
当事者となってしまえば、何の選択の自由もないわけだが、かつての幸せなことを思い出すというのは、ちょっと思いついたことであるに過ぎない。
 
実は、それをふと思いついたたのは、猫のことを考えていたときだった。地域猫活動の一端に関わっている。何十匹とそこにはいる。さすがにその全部とはふれあえないが、行きやすい領域で、初めに友だちになれたうちの一人が彼だった。
 
彼は優しかった。気が弱いと言ってもよかった。遠慮して、他の仲間に対して引き気味だった。だが、いじめられているというわけでもなく、いつも決まった友だちがいて、一緒に行動していた。とにかく、優しかった。
 
彼のことについて記すと、何時間でも描き続けることができるからやめておくが、その彼が明らかに様子がおかしくなった。ボランティアさんの家に一度保護してもらい、治療を受けた。いくらか戻ったので、また公園に帰ってきた。だが、また難しくなってきた。公園で最後に会ったとき、私の膝でしばらくずっと眠っていた。私もこれは覚悟をしなければならないのか、と、泣きそうになりながら撫で続けた。
 
ボランティアさんが、再び獣医さんのところで詳しく診てもらった。悪性の癌が見つかった。それも、目で見て分かるほどのものが、口腔内に。それは呼吸を圧迫するものだった。ふつう、地域猫では、手術までは面倒を見切れない。だが、彼には私のほかにも支持者がいた。なんとか生きてほしい、と手術を受けた。呼吸ができるようになった。
 
ボランティアさんのところで保護されているところへも、二度訪ねて行った。私たちのことも覚えていてくれて、気分のよいときにしばらく一緒にいることができた。
 
しかし、その二度目の訪問の数日後、ボランティアさんから連絡が入った。夜中に、ひとりで静かに眠るように逝っていた、と。
 
その日のうちに、荼毘に付された。私は本当に偶々のことだが、その日が休日だった。私は呼ばれるように、斎場に行き、最期を見届けた。
 
そのとき、思ったのだ。彼はひとりで倒れたけれど、愛されて楽しかったときのことを、ずっと思い浮かべていてくれたかもしれない、と。私のことも、その片隅に思い起こしてくれたかもしれない。苦しみもだえたようではなかったと思う。炎がスッと消えるように、その命が途絶えたのだ。でも、きっと思い出していたのではないか、そう想像していたのである。
 
ただ、同時に、神の国の希望に気づいていたかどうか、それだけは、私の想像は踏み込めないである。そのこともまた希望の内にあるのかもしれないけれども。



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