言葉から平和へ

2024年8月1日

4月に実施された全国学力テストの結果が公表された。特に中学3年生の国語の点数が非常によくなかったという。報道は、これをSNSや動画視聴の時間の多い生徒ほど正答率が落ちる、というデータを述べていた。データは正しいかもしれないが、短絡的な誘導を促すような気がする。
 
ある新聞は、活字と触れあうようにさせるべきだ、と強く主張していた。たぶんスマホ利用に原因を決めた故であろうと思われる。
 
しかし子どもたちと直に付き合っており、その答案とも顔をつきあわせている立場から言わせてもらうと、本を読ませればよい、というような昔の親父的な発想で解決の糸口がつかめるようには到底思えない。
 
そもそも言葉が通じないのである。
 
活字の問題ではない。喋っても、だめ。言葉の意味を解さない。また、意味の分かる言葉を発しても、文としての理解がなされない。何か憤りめいた演技で言葉で言い聞かせたとしても、残るのは感情だけで、何分か経つとそれは何も改善されないままに終わる。自分への戒めとして真摯に受け止めるのは、言葉の通じる、いつも同じ特定の生徒である。よく言われるように、ある生徒を念頭に、クラス全員に諭しても、当の生徒は聞いておらず、それを聞く必要のない生徒だけが心に受け止める、という構図がある。
 
言葉に敏感に、適切に受け止める生徒はいる。文章を書かせても、しっかりしている生徒は少なくない。むしろ、目を見張るように巧いと思うこともある。近年の文学賞を受賞する若い人たちにも驚かされる。つまり、両極に分化しているように思われるのだ。
 
喋っても指示が伝わらないのは、以前からでもある。だが、頻度が増しているように感じることと、その同じ喋ったことそのものが、耳に入っても理解の領域に入っていないケースが少なからずあることが、気がかりなのだ。
 
喩えのような言い方で申し訳ないが、「言葉が上滑りしている」ように私は感じている。聞いていないのではない。だが、言語が思考の領域に入り込まず、感情の段階で、弾かれたり受け容れられたりしているように見えるのだ。それ以上に、論理的に、あるいは理性的に思考するという段階があるようには思えないことに、頻繁に遭遇するのである。
 
ある種の「障害」と呼ばれているものの中には、言葉の裏や隠れた意図というものがどうにも読み取れず、言葉の表面的な意味しか届かない、というものがあるという。そうした「患者」(と呼んでよいのか分からないが)と深く接したことがないと思うので、もちろん断定はしないし、失礼な比較をしていることになるかもしれないが、直接的によほど突きつけなければ、伝わらない経験は、日常的である。伝わるのは、表向きの感情ばかりである。
 
「この人は、ほんとうは何を言おうとしているのだろう」と相手の心を探ろう、とするのが、日本語の本来の姿だったように思われる。京の文化がそれの最たるもので、いまでは揶揄的に言われることも多い。もちろん地域によっては、ズバリ言ってなんぼという文化もある。九州はどちらかというと、それだろう。ただ、それなりに、相手の心情を慮ることは当然あった。すべてを自分の感情を基準にして、そこで受け容れるか拒否するかを選別するだけ、というような言葉の使い方をするものではなかったはずだ。
 
そういう自分も、実は怪しい。私は、ひとの心が分からない子どもだった。だから、いまもなおそういうところはあると思っている。もちろん、ひとを尊重したり、ひとに譲ったりすることがない、というわけではない。だが、「信仰」という場面では、少し事情が違う。自分の信仰を曲げてまで、「質の違う」ものに対して合わせてそれを盛り立てようという気は起こらない。
 
パウロの手紙のあの頑固さも、だから分かるし、「然りは然り、否は否」というのも、痛感することが多々ある。せいぜい、ひとの気持ちを自分なりに慮ってのこととしたいのだが、相手はそんなふうには考えてくれないケースがあるかもしれない。そして相手からも、こちらがそうだと非難するのかもしれない。
 
言葉が通じない。21世紀に問題となっていることのひとつに、「分断」という文字が立ちはだかる。隔ての壁を取り壊すことは、ひとにはできない。キリストが、それをなすという。言葉の扱いが争いを生み、暴力を正当化するのが、人間の社会である。
 
テストで計る点数では決められないこともある。それよりも、子どもたちには、こうしたことを考えることができるようになってほしいと願う。



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