第一印象

2024年1月26日

もうかなり以前のことなので、詳しい経緯は覚えていない。大きなダイエー店に、購入した商品の不備を問い合わせたら、丁寧な対応をしてくれた。そんなのは当たり前だ、と思う人がいるかもしれないが、そこまでしてくれるのか、とうれしく感じた記憶だけが残っている。
 
レゴ社に、部品が足りないようだ、と問い合わせたこともある。これも丁寧な、そして迅速な対応で、送ってきてくれた。その後、ひょんなところからその部品が発見されたために、会社には何の落ち度もなかったことが分かったのだが、あのときの親切な姿勢を忘れることがない。その後も、子どものために続いて製品を買うようにしたのは、言うまでもない。
 
つい最近は、エディオンにお世話になった。蛍光灯を購入したのだが、持ち帰ると、規格が微妙に合わなかった。交換を申し出たら、快く応じてくれ、しかも手間を取って蛍光灯について教えてくれた。知識があれば、今後同じような間違いをしないだろう、という意図があったのかもしれないが、親切だったことには間違いない。
 
こういう親切は、好印象だけが残る。印象というものは、大切だ。実際に何をしたか、という内容は忘れても、親切にしてもらえた、という印象は忘れない。同じ交換やクレームについても、笑顔で快く対応するというのは、大きなことだ、と言わざるをえない。
 
ナフコだったが、ある商品を買ったら、レジで打たれた価格が、表示された額と違って高いようだ、と疑問を言ったことがある。売場に行くと、確かに私の指摘の通りだった。どうやら商品の価格表示が間違っていたらしい。しかし、表示してあったのだから、と責任者が、安い方の価格でそれを引き渡してくれた。当然です、と。得をした、というよりも、ありがたい対応だ、ということが忘れられない。
 
逆に、嫌な思いをさせられたら、これも忘れられないことがある。福岡を拠点とする有名なコーヒー企業である。レジを通った直後私がレシートを見て、コーヒー豆が、店頭で表示されていた価格と違うようだ、と言うと、価格が実は違うのだ、と言う。昨日までのセールの価格だったから、今日は高いのだそうだ。午後3時くらいのことだった。大きな差ではなかったのだが、そのまま高い方で買え、ということだった。私は商法として憤慨した。全部キャンセルを申し出、クレジットカードだったために時間のかかるキャンセルをしてもらった。一桁違っていたなどというレベルだったら常識的に分かるが、数十円だから客の側に負担をかけて当然だという姿勢がありありと見えた。しかも、他の客にも誤解をさせないようにしたことになるような、表示の間違いを知らせた客に対する対応とは、とても言えないものだった。以後、そこで買物をすることはなくなった。ただ一人の客離れは、そのチェーン店にとっては、痛くも痒くもなかっただろう。
 
こうした経済的な面においては、貨幣だけで関係ができるのではない、というような「贈与論」が近年よく話題に上るが、そこにこうした印象というものが関係していることは確かであろう。だが、必ずしも経済的な分野だけではない「印象」というものもあるだろう。
 
家庭教師をしていたことがある。特別に子どもに厳しくしたのでもなかったが、初日で断られたことがある。何がいけなかったのか、自分で分からないというのが、私にとり一番まずいことなのだ、というふうにも思うが、よほど何かが気に入らなかったのだろう。第一印象というものの意味が大きいことはよく指摘されるが、最初の心証は、確かに残るものである。
 
教会に初めて来た人が、温かく迎えられたとすると、やはりそういう好印象をもつかもしれない。冷たい対応をされたら、今度は悪い印象を忘れない、ということにもなる。あるクリスチャンのろう者が初めての教会の礼拝に来たのだが、筆談すらしようとせず、最後まで誰からも何の助けの声もかけられなかったことを、忘れられないでいた。
 
カルト宗教も、この第一印象をよくするテクニックを、マニュアル的に実行するらしい。デート商法などという詐欺もある。人を騙すということについては、よく研究されているものである。それは、独裁政治のためには必須のものであるらしい。
 
それほどに、人間の心理というものは、簡単に動かされるものでもある。また、固定した心理は、動かされないものである。信じたところから離れられない、ということが心の傷になるケースが、近年よく話題にされる。私も体験的にそれを知るために、苦しんでいる人の重い気持ちに、思いを馳せることがある。
 
災害のトラウマについては、阪神淡路大震災のときに、中井久夫先生が強く覚え、社会に訴えた。中井先生亡き後、私たちがそれを学び、引き受けていかなければならない。被災者の心、子どもたちの心についても、こうした過去の例と理論から、私たちは素人務める必要がある。
 
教会が、救いを求める人に対して、どのような対応をまずすることができるのか、それもまた、大切な課題である。財政ばかり気にして、とてもそのようなことまで考える姿勢の見えない教会も、どうやらあるらしいと聞くけれども。



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