小さな獣たち

2024年1月22日

クリスマスの時期を挟んで、久しぶりの黙示録シリーズである。説教は、11章の最後のペリコーペから語られた。「第七の天使がラッパを吹いた」というところからであり、しばらく間が空いたこともあり、これまでのおさらいとして、説教者は冒頭で黙示録のこれまでを振り返った。
 
それはそうと、「第七」ということから、これでひとまずラッパの出来事は完結する。そこで何が起こったか。「この世の国は、我らの主と、/そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される」との宣言があった。すると神の御前で、二十四人の長老がひれ伏して神を礼拝した。神を称え、神に感謝する。そして「時が来た」ことを彼らは明らかにする。その言葉の後、天の神の神殿が開かれて、契約の箱が見えたと思うと、雷や地震、雹などといった異変が生じたというのである。
 
長老たちが語ったのは、「時が来た」ことである。それはどんな時か。二つの角度から説かれている。ひとつは「死者の裁かれる時」であり、もうひとつは「地を滅ぼす者どもを滅ぼされる時」である。前者については、「異邦人たちは怒り狂い、あなたも怒りを現された」ことを以て、その説明をする。後者については、「あなたの僕、預言者、聖なる者、御名を畏れる者には、小さな者にも大きな者にも報いをお与えにな」る時でもある。
 
死者が裁かれるというのは、悪い意味だけではないかもしれない。だが、ここでは悪しき意味での「異邦人」という言い方が激しく、それに対して神は「怒り」というものをぶつけているだけしか書かれていない。なかなか恐ろしい光景である。
 
説教者は、人間のまるで業とでも呼べばよいような、抜け落ちない悪について嘆く。あるいは、警告する。人間は、どれだけ災いを浴びても変わらないのか、と。この「災い」とは、黙示録が描き指摘するものである。いま私たちの目の前に見える自然災害のようなものを言うものではない。
 
人間は何をしてきたのか。神を礼拝できなかったのである。それは、自分の偶像を作ったということである。自分の言うことをきく都合のよい神をつくったのである。また、結局そのことは、自分自身を神としたことに等しい。偶像とは、そういうものである、と畳みかける。
 
いま私は十戒に向き合っている。最初の二つの戒めが、この問題を扱っている。カトリック側がこれを一つにした点については、ここでは問題にしないことにする。ともあれ十戒の最初である。私の視野に見えることを、説教者がたちまちのうちにまとめて語ってしまった。
 
このことは、実は説教の結びに近づくところで、もう少し詳しく説教者は述べている。「異邦人たちは怒り狂い」というところに留まった。先取りしてそれに触れておくが、「異邦人」というのは、外国人を軽蔑している意味ではなくて、「神を知らない者」を言い換えているに過ぎない。それは怒っている。怒り狂っている。自分が神であるから、自分の気に入らない奴は皆正義の自分が滅ぼしてよい、と思いこんでいるのである。
 
だが、自分が「あれ」を滅ぼしてよいのだ、と裁く自称正義の主人は、自分が裁かれる立場にいるかもしれない、ということを忘れている。神を礼拝するという道は、そのようなことに気づかせてもらう道であり、「獣」が人となる道なのである。この「獣」については、ここからもう少し説明を加える。
 
説教者は、今日の聖書箇所に限らず、これまで黙示録が明らかにしてきた幻を再確認するかのように、「災い」を取り出したのであろうが、いまの「獣」という言葉も、このメッセージでは鍵を握るものであった。
 
「小さな獣たちが蠢いている」
 
これは、意味深長である。説教者の意図がこれだ、と決めつけることはしないが、先の、自分を神とすることへとつながることは、間違いない。しかも、この「小さな」が曲者である。私たちの中に潜んでいる、そう私は考える。もちろん私の中にも。だが、なんとか守られているとすれば、イエス・キリストの愛によってだろう。
 
もしそれを全く知らない人間だったら――自分は善を為しているという確信犯でありながら、その実逆のことをしている、という恐ろしい情況が発生することだろう。イエスも、「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」(ヨハネ16:2)と警告を発したことがある。自分は正しい、という一点張りで、自己愛の原理から正義を振りまくところに、最も対処の難しい悪が働いているのである。見るからに悪を為すのではない。他人が非難するようなあり方をしている者でもない。小さな獣たちが潜む人間が多く支持することにより、民主社会の方向は決定されていく。しかし、民主社会が全面的に善いわけではない一面が、ここに暴露されてゆくのである。
 
長老たちは、神を礼拝していた。説教者は、ここに神の現臨の事実を見通す。主イエスは、すでにいまここに来ておられる、というのである。神が昔いて、今いて、未来永久にいる方だ、ということを私たちは聖書から知っている。だから、「やがて」来られる主を待つ、というのが信仰のひとつの形である、と理解している。しかし、この礼拝の幻の中では、もはや「やがて」ではない。「つねにすでに」主は共におられるのである。信仰とは、このような通常未来とみられる時を、いま得ていると確信することでもあるのである。
 
しかし、こうして暮らしている世界では、そんなことはないではないか、という言葉が返ってくるだろう。それも尤もである。また、それは事実である。カントのように、叡智界と感性界とに分けて考えればよい、というわけではないが、私たちは神の国に国籍を与えられた者であると共に、地上を旅する者なのでもあった。地上で生きている私たちにとっては、どちらもリアルである。どちらも真実の存在であろう。
 
そして教会もまた、どちらの国にも属する共同体なのであろう。
 
但し、悲しい哉、実際にいまその神の国の様子は見えない。見えないものに目を留めるというのが信仰であるにしても、視覚的にそれが見えるとは思えない。見えたら幻覚の虞がある。しかし、心の目では見えてもおかしくない。魂で見るとか、信仰の目で見るとか、喩え方はいろいろあるだろう。心は確かにそこに光を見いだす。光に照らされている自分を知る。真空中を太陽光が輻射熱を届けて地上を温めるように、神からの光が当たると、この霊は温められてゆくのである。
 
ここで説教者は、地上生涯を終えた教会員へ言及する。昨年、立て続けに仲間を天へ送ったことは、かなり心痛であった。天へ召されるというのは喜びかもしれない、という声もあるだろうが、素直に寂しさや悲しさを覚えることを不信仰だなどと呼ぶ者がいたら、まさに「心ない」人だとされても仕方があるまい。そして今日もまた、重篤な人がいる中で、説教者はこうしたメッセージを送っていたのである。
 
そう。それでも私たちは、死が終わりではないことを信じている。葬儀の席で、賛美の歌を歌うのだ。涙が零れながらであっても、歌うのだ。
 
最後に説教は、能登半島地震の被災地からの、ひとつの礼拝説教について触れた。元日の朝、元旦礼拝を行う教会がある。そのとき、詩編42-43編が開かれたが、その説教の一部に、「この詩人は、すべてが自分のせいであると知っていながら、神様の前でやんちゃこいて、助けてくれ!と言っている」という言葉があったという。「やんちゃこく」というのは、その地方の言葉である。部外者の私が説明をするのはやめておく。
 
石川県に縁のある説教者であるから、他人事ではないのだろう。加藤常昭先生もそうだった。震災に対する眼差しや姿勢も、その人の立つところにより様々だろう。私は直接知らない地であるし、親類や知人もいないと思う。だが、阪神淡路大震災の揺れを知り、神戸の姿を目に焼き付けた身でもあるし、福岡西方沖地震も体験した。おっと、説教者は今日、森有正の「体験と経験」のことにも触れていた。それからすると、私は少しだけでも「経験した」と言わせて戴きたい。それはきっと、あの「獣」を滅ぼすイエス・キリストの道に適うものだろう。



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