否定の後に
2023年12月18日
アドベントからクリスマスの期間は、黙示録の説教を一旦外れる。そのとき、「改訂共通聖書日課」が世界中で開かれていることを教えて戴いた。世界につながるという意味では、尊い試みであろう。私は、どちらかというと、語る者が個人的に示されることでよい、と考えているが、そのときにバランスを考慮してもらうとありがたいと思う。
さて、開かれた聖書は、ヨハネ伝の1章であった。だが、クリスマスの時期によく用いられる冒頭の辺りではなく、洗礼者ヨハネに焦点を当てた箇所を拾うこととなった。洗礼者ヨハネは、4つの福音書すべてに登場し、しかも重要なキーパーソンとなっている。むしろイエスのことは、このヨハネを通じて人に知られるようになった、とも言える。
ヨハネ伝が取り上げられた理由は、もちろん説教全体にあるのだろうが、たとえばまず「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」との証しである。この短いフレーズに、メシアとしての大切な証拠がいくつも詰まっている。しかし、「見よ」を重視するというのは、少しばかり会衆を緊張させる。
イスラエル文学では、元々随所に挟まれうる語であり、邦訳でも訳出されないことさえある。だが、確かにこの語は存在する。形式的なのかもしれないが、どう読んでもそれは「見る」の命令形なのである。私たちは、見ているだろうか。視覚的に制限されなくてもいい。イエス・キリストを見よ。この言葉は、突如として与えられることもある。与えられなければならない。私たちの視線を、イエス・キリストへ。しかも、十字架を見よ、というのが私への向けられた福音であると捉えている。
洗礼者ヨハネは、ユダヤの当局者たちからであろうが、「あなたは、どなたですか」と問い合わせを向けられる。「誰なんだ、おまえは」というふうに訳すと情況が伝わりやすいかもしれない。ヨハネは、イエスを先導する使命を受けていたはずだが、この後イエスを直に見たときには、その方のことを知っていたわけではない、と打ち明けている。
説教者は、ここで立ち止まる。イエスもまた、「誰だ」と尋ねられることがあったが、洗礼者ヨハネにしても、イエスについて知っていたわけではないから、ある意味で「誰だ」と尋ねる立場に立ったことになる。まして私たちの場合は、イエスについて何を知って居るというのだろう。つまり、イエスは常に、自分が知らない方として現れるのだ、ということに気づかせてくれたのであった。
私たちは、神のことについて何を知っているというのだろう。それなのに、恰も神を知っているかのように講釈を垂れることがある。親が、子どものことを分かっているつもりでいるときに、子どものほうは、何も分かっていやしない、と不満をもつことは世の常である。その程度の人間であるのに、神のことがすべて分かっているかのように見下し、あまつさえ神を自分の部下のように支配しているつもりになっていることはないだろうか。
その意味で、ヨハネが「わたしはメシアではない」と回答したのは、健全である。だが、この会話は不自然ではないか、と説教者はまた気づかせる。「あなたは誰だ」に対して、「わたしはメシアではない」とヨハネは応えたのである。メシアかと期待されているが故の、先回りの回答なのだろう、とは思う。しかし、やはり会話としてはちぐはぐである。
ここから、私たちの立場を弁えることを促す説教の流れではあったが、私はこのヨハネの返答が、「〜ではない」という否定形であったところを心に留めていた。というのは、たとえば神について人間が言及するときに、神は〜である、と言い切ることは難しいが、神は〜ではない、という形で多様に述べることは、幾らか言いやすい、という性格があると思われるからだ。ずばり正解を指摘することが困難な問題についても、否定文でいろいろと意見を出すことは、心理的に楽なのである。
私は「クリスマス」という呼び方について、だんだん違和感を覚えるようになってきた。「キリスト礼拝」という意味だということは本当なのだが、どうして英語でなければならないのだろうか。同じヨーロッパ語でも、ドイツ語では「ヴァイナハテン」、フランス語なら「ノエル」と異なっている。フランス語は短くて言いやすいので、まだ知られている方だろうが、ドイツ語は一般にはまず知られていない。
「イースター」となると、英語の場合これはもう異教の女神の名前であるから、どうしてこの語を使って、キリストの復活を祝うのか、正直全く分からない。この「クリスマス」も、商業と習俗の中に普通名詞のようになってしまっている。世間の故に呼称を替えるというのが適切かどうかは分からないが、その名前を使うことが本当に「キリスト礼拝」になっているのかどうか、問い直してよい頃ではないか、とも思うのだ。そうでないと、勝手に「イブイブ」などというように、さらに脱線していく言葉の蔓延が、何をもたらすか、怖いように思われてならないのだ。
浄土真宗が「他力本願」という言葉を、誤った意味で用いてくれるな、という猛抗議を、かなり前から始めている。これはしばらくの時間を経る中で、いくらか功を奏しているように見える。「狭き門」にしろ「目から鱗が落ちる」にしろ、異様な意味で通用していることに、キリスト教界が反応することなく傍観していてよいのだろうか。
さて、説教に戻るが、この「キリスト礼拝」とはどういうことか、その性格を新たに捉える試みを提言していた。それは、上の例のように、神を自分が支配するかのような態度を止める、ということである。説教者の言葉によれば、「自分が王であることをやめる」ということである。人間が「王」になること、そこから戦争も起こるし、続く。私が「王」となることによって、他人を見下し、他人を利用することを、正義だと見なす。
イエスは、王のような振る舞いをしただろうか。権威ある言葉は放った。だが、律法主義者たちからは違犯者だと罵られ、人々と交わりおおらかに過ごして悪口を言われた。終いには、妬みのような感情を含む人間たちによって、酷い死刑を執行された。この「人間たち」の中に、私自身がいる、というのが私の信仰である。これをなくしたら、自分が王になる赤い絨毯が目の前に敷かれるような気がしてならないのである。
「私は王ではない」という、当たり前ではあるが、つい忘れやすいテーゼを、自分の暴走のブレーキとすることができるかどうか。そこに「信仰」あるいは「信頼」が必要だと考えている。そしてここにも、「〜ではない」という否定形が関わっている。
洗礼者ヨハネは、人々にその名の通り、洗礼を授けた。罪の悔い改めの必要性が身に染みて分かるように、人々を導いた。説教者は、洗礼ということで、人はイエス・キリストを着るのだ、と言った。その言葉をここで再録するつもりはない。必ずしも論理的な説明ではなかったと思うが、ここで今日の礼拝説教がひとつの本流に流れ込むような心地がした。
要するに、キリストなのである。キリストが主なのである。主人であり、主役であり、主軸なのである。ここからブレてはならない。ヨハネは、確かにその先駆を果たしてくれた。「見よ」と、キリストを指し示す。これは優れた先人も言っていたとは言うが、私もずっとその気持ちで聖書を読み、また語っている。
私を見よ、などとは言わない。そう、「私ではない」のだ。「私などではない」し、「人間たちを見るべきではない」のだ。否定の段階が必要なのだ。そして、否定の後が大切である。私は、このお方をこそ見よ、この方だ、と指し示す者でありたいし、案内の立て看板でありたいと願っている。こちらへ行け、こちらに命がある、こちらに真理がある、というように道を指し示すのである。その先に、イエス・キリストがいるからだ。十字架があり、復活の光があるからだ。
私たちはそうしながら、生きていくことができる。そして、死ぬことができる。説教者がそうラストで述べたとき、それは今年また新たに天に名を刻んだ、幾人もの教会員のことを思い浮かべているに違いない、と私は心が熱くなった。
私もまた、今週、愛する友を虹の橋の向こうに送ったのである。