仕事と自分
2023年11月27日
さしあたり、生計を立てるための職業という意味で、「仕事」という言葉を用いることにする。「この仕事は、自分には向いていないのではないか。」うまくいかないとき、そのような言葉がふと頭を過ることがありうるだろう。「自分は本当は、こんなことをするために、この仕事に就いたのではない。」そのように思い始めると、仕事を辞める扉が開かれてくる。
昔だったら、仕事を辞めるというのは、ずいぶん重い決断だった。終身雇用制が常識的であったため、仕事を辞めたというのは、その人にずいぶんな欠陥があるというような目で世間から見られていたことは、辞めることへのブレーキとなっていただろう。だが、いまやそんな眼差しは基本的にない。むしろ辞めたとなると、その会社の方がよくないみたいだ、という空気すら漂うことがある。そんなに簡単に、どちらかどうなどとは言えないのだが。
「家の後継ぎ」ということが当たり前だった時代には、職業の選択で悩むことは、いまより少なかったことだろう。職業選択の自由が保障されるのは結構なことだが、職業は自由に決めなければならない、というのが常識となると、どう選ぶか、悩みが増えることにもなる。自由は目眩を呼ぶものなのだ。
「この仕事は自分には向いていない」という判断においては、「この仕事」と「自分」という二つのものが比較されている。「この仕事」はさしあたり明白である。目の前のその仕事が現にある。では、「自分」というのはどうだろうか。明白であるだろうか。自分にどんな可能性があるのか、能力があるのか、はたまた自分とは何なのか、私たちは知っているだろうか。つまり、この判断は、「自分探し」と関係している。案外、「自分とは何か」を探そうとして迷い込んでいるのが、「この仕事は自分には向いていない」という言葉が口をついて出ることの、隠れた真相であるかもしれない。
後継ぎではなく、自分で職に就いた場合、ある意味で流されるようにして、あるいは偶々、その仕事をするようになった。そんなこともあるだろう。自分が望んでそれを目標としてその仕事に就くことができた、という人もいるだろうが、そんな初志貫徹を歩めた人は、ごく稀ではないかと予想する。しかし、むしろそうやって「与えられた」仕事をしているうちに、「自分」というものに気づいていく、「自分」というものを覚るようになる、ということがあるのではないか。否、そのようなケースの方が多いような気がしてならない。
既に「自分」という確固たるものがここにあって、それに「この仕事」が向いていない、というのではなく、「この仕事」をしている中で、「自分」が形成されてゆく、という方向性が、世の多くの人の生き方というものではないだろうか、ということである。もちろん、不幸な仕事環境にある人を、この呟きに巻き込むつもりはない。普遍性を以て臨もうとしているわけではない。建前であれなんであれ、善良な市民感覚の中での物言いである。
さて、こんなことを考えてみたのは、私が最近ある映画を(さる事情から)2回も観たからである。何のアクションシーンも、恋愛ストーリーも、異世界も魔法もヒーローも出てこない、地味な映画である。私などは不純なことに、声優の声を聞きたさに観たようなものである。が、「仕事」と「自分」について、観た人を励ましてくれたに違いない、と信じている。どこか成り行きのような中で出会った仕事の中に、自分を見出してゆく、という姿が描かれていたわけだが、それは私たち凡人の、最大公約数であるのではないか、と思うからである。
映画の出来不出来などを評論家という仕事でないのに徒に論ずる暇があったら、その映画によって自分がどうよい影響を受けて自分が豊かになったか、それを考えたほうが、遙かに有益であろう。その積み重ねが、世界を少しでもよい方向へと変えてゆくことにつながる、とも思えるからだ。