電車のドアに背を向けて立つ
2023年11月21日
電車通勤者である。扉に背を向けて――要するにドアの方に背中を向けて――立つ人に、日々不愉快を覚えている。
偶にそういうマナー知らずがいたとしても、さほど目くじらを立てるつもりはないが、九割以上そうであると、いくら慣れねばならないと自分に言い聞かせても、不愉快であることを打ち消すことは無理である。
ここで頭をもたげてくる。自分だけがそう思って苛々しているのだろうか。自分の判断基準が狂っているだけなのかもしれない。そんなふうに思う癖がついている。
逆のほうが迷惑かもしれない、とも思う。自分の思うことが絶対正しくて、他人がすべて間違っている、と確信しているタイプの人間を見る――SNSで時々見かける――と、そう思う。私もそのように見えるかもしれない、とは常々思っている。
出口の方を向いて立つ。鉄道会社も、分かりきったマナーを、わざわざアナウンスはしない。ようやく最近、エスカレーターを歩かないということは、アナウンスし、ポスター貼りをして理解を促すようになってきたが、この壁背もたれのことについては、そうした指導を見たことも聞いたこともない。
時に私は、読んでいる本を思い切り顔の高さに上げて、相手の顔の近くに持って行くことがある。ごく偶に、それで気づいて反対向きに直す人がいるが、実際効果は殆どない。下を向いてスマホを操作しているからには、そのサインは全く関係しないのだ。それどころか、あるとき復讐されたことがある。今度はその男のほうが、私に明らかに敵意を示した行動をとったのだ。そのような経験は一度だけではあったが。
というよりも、他人の存在を全く意に介していない、と言ったほうがよいだろうか。これは特殊な例だろうが、先日は、かなり人が多く立っている電車内で、優先席に座った若者がいた。もちろん、体調や怪我などのことは分からないから、若い人が座っていけない理由は何もない。だがその若い男性は、隣の席に自分の鞄をどんと置き、2席を独占している。足を組み、前方にも人が立てないようにし、スマホをいじっている。時折顔を上げて周りを見ているから、人が多いことは見えている。小さな女の子が、つり革をもつ母親にすがって、足元をふらふらさせている姿も、すぐ近くに見えているはず。だか、鞄の中にスマホを入れたり出したりして、依然として鞄はひとつの優先席を占めている。
他人の存在は、なんでもない、というタイプの人間は、そうめったにいないだろう、とは思う。だが、壁を背もたれにして立つ人間があまりにも多いと、そもそも他人の心情を意識することができないのではないか、と疑うことにも理由があるかもしれない、と考えたほうがよさそうだ。
このように考える私のほうが、間違っているかもしれない、とずっと思っていた。ドアの方を向くというマナーなど、世の中には存在しないのに、勝手に自分だけがそう思いこんでいるのではないか、私の感じ方が異常なのではないか、と。だが、あるとき何かの拍子に、私と同じように考えている人の声がSNSで垣間見られた。独りではなかったのだ、と思ったとき、ちょっと検索してみようとやってみると――出てくる、出てくる、私のように憤っている人がいろいろ意見を述べており、それに同感だという声も重なっている。しかも、明確に、外を向くのがマナーだと断言する人も少なくない。
年齢層は分からないが、若い人がマナーができていない、という声は、年配の方からのものかもしれない。ただ、全体的に、若い人に限定して非難しているというものは特にないようである。私もそう思う。世間知に長けている筈の「おとな」も、何も変わらない。それまでもたれて内側を向いていた人が、降りるときに回れ右をして降りて行くのを見ると、なんのためにいままで内側を向いていたのか、理由が分からない。
いくらかでも、良心を忘れない人がいる、ということを知ったのは心強かったが、だが現状が変わる気配は、依然としてない。
人の目を気にする、というのが日本人の性格だ、と言われたことがあった。かつてはそこから、もう少し自分の意志をもとう、という掛け声がよく飛び交っていた。だがいまや、人目を気にすることもなくなったのだろうか。かといって、自分の意志をもった、というのではないように私は思う。エスカレーターを、誰かが歩き始めると、それについてどんどん歩く人が続くというのは、ちょっと世間で、ある意見が多くなると、ふらふらとそれに従っていく者が続き、世論をいくらでも変えてゆく、という悪夢の礎であるに違いない。政府のコロナウィルス感染症への規制が緩んだあと、マスクを着けるか外すかということについて、他人はどうだろうか、と様子見をしている者がたくさんいたのではないか、と予想する。自分の意志で決める、というふれこみのようだが、どうやら実態はそうではないように見える。
人目も気にせず、自分の意志をもつわけでもない。これは、かなり危険な傾向ではないか、と私は案じている。