【メッセージ】実を結ばないはずがない
2023年11月5日
(ローマ6:15-23, マラキ3:19-20)
しかし、神に感謝すべきことに、あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から聞き従って、罪から自由にされ、義の奴隷となったのです。(ローマ6:17-18)
◆救われるということ
宗教は「救い」ということを一つの目的とします。キリスト教でも、言います。神は人を救う、いえ、私は神に救われた、というのが普通の言い方でしょうか。でも、「救い」とは何なのでしょう。また、どうすれば救われるのでしょうか。
それはですね……クッキング番組のように、レシピを示すことは、私にはできません。ただ私は、私の救いを受けたことを噛みしめて、その救いを生きていくだけです。そして、その「救い」なるものは、人によりすべて違うのだろう、とも思います。人により、何が救いであるのか、どのように救われたのか、千差万別であるのでしょう。
ニュースを聞くにつれ、生活の不安に苛まれます。物価高が原因であるばかりではありません。これからどうなるのか、不安です。会社が潰れた、職を失った、仕事が辛い。犯罪者となった。法律が変わったために困窮に陥った。人に裏切られた。家族を喪った。重病に罹った。事件に巻き込まれた、被害者となった。誹謗中傷を受けて悩んでいる。事故に遭った、事故を起こした。詐欺に引っかかった……。
「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」と始まる『アンナ・カレーニナ』を思い起こします。不幸や不運は多種多様、いろいろあるものです。そうしたことへの不安を含めて、そこから抜け出すことができたとしたら、確かに「救い」でありましょう。解決してしまわなくても、心が楽になれば、「救い」と呼ぶことができるかもしれません。
キリスト教を信じて救われた。その言葉は、心が楽になれば、つまり「気の持ちよう」で心が落ち着いた、ということなのでしょうか。どうやら、そうだね、と肯く人もいれば、そうではない、と確信している人もいるようです。
◆神は人を救う
福音書は、イエスの生涯を追って記述した形式の文学です。世界にまたとない類いの文学です。イエスは、最後は十字架に架けられて死に、それから復活します。それまで、しばらくの間、イスラエルの地を旅しています。そのとき、人々が、この人こそ待ち望んでいたメシア、あるいはギリシア語でいう「キリスト」ではないか、という期待がかけられていき、権力者たちに命を狙われていくようになります。その過程があってこその、イエスの逮捕と裁判、そして死刑ということになります。
地上を旅して行くとき、イエスがおもにしていることは、「癒やし」のようです。実際に、病から人々を救っています。当時は、病気になると仕事ができず、収入が途絶えたこともあったでしょう。長年からだの不安を抱えている人もいたでしょうし、周囲の人々の厚意に支えられてなんとか生きていたこともあったでしょう。
いまの時代でも、病気やトラブルに遭遇して、そこからの救いを求めて教会を訪ねる人がいます。戦後の時代では、「癒やしの集会」というのが各地で行われていたようです。信仰のひとつの業としての「癒やし」が、強調される時代があったのです。中には、死者を生き返らせた、という触れ込みで教団を大きくしたところもありました。
一度病気やトラブルから助けられて、信仰をもつようになったとしても、その後も信仰生活を続けることができるかどうかは、次々と癒やされる経験をする、というわけにはゆかないでしょう。一度癒やされたことを基として、その後は次第に心の平安を与えられる方向で、信仰が育まれていくことが多かっただろうと思われます。
最初は夢中で、癒やしてください、と求めていたものが、次第に聖書の言葉に耳と心を傾けてゆく。神はあのトラブルの解決だけで終わらせるのではなく、それを通して、自分を呼び出すようにしてくださったのだ、という深い信仰の次元へと導かれてゆくことがあるでしょう。自分の中には、こびりついた汚れのような罪があることをその時思い知らされ、神はそういうことでも救ってくださるのだ、という体験をするようになります。そうした証しはたくさんあります。
さらに、「死」という問題を意識すると、肉体的な死のみならず、永遠の滅びとしての死ということを感じ、罪がそこへ陥れるということを、聖書から知るようになります。いずれ肉体が死んだとしても、死の後に裁きがあることを聞くのです。罪という問題が、徹底的に解決する、つまり赦される必要が、ひしひしと分かるようになります。
などと、ひとつの型を考えてみましたが、もちろん救いは十人十色です。トラブルなどの関係ではなく、最初から自分自身の中の深い罪に苛まれ、思い悩んでいたという人もいます。いわゆる「宗教2世」となると、神がいるということは当然すぎることであるけれど、自分はどうして教会にいるのか、神とどう関係しているか、悩むという場合もあります。それでも緩やかに、神の導きの中に洗礼へと進む場合もあるわけです。
◆イエスを信じることによって
さて、神は、恐るべき方だ、と思う人もいるでしょう。旧約聖書はその方面が強調されているかもしれません。けれども、罰する神という姿だけで捉えるのはもったいないことです。聖書に馴染んでいけば、旧約聖書とて、必ずしもそうでないことが分かってきます。素朴に人間が感じるように、正しいことが行えないから罰を与えるとか、悪いことをしたから地獄行きだとかいう図式が、キリスト教や聖書の神髄ではないのだと考えるようになります。昔々は、そのような言い方で人々を啓蒙したことがあったかもしれませんけれども。
聖書には独特の用語も多々ありますが、「律法」という語もまたそうです。旧約聖書の最初の五つの書は、その「律法」が描かれていると言われますが、少なくない部分が、私たちのいう「物語」であるように見えます。しかし確かに、決まりが多々あります。それらは「法律」です。言葉そのものにしても、「律法」と「法律」は元々何も変わりません。日本語が区別しているだけです。そればかりか、新約聖書では明らかに「法則」の意味でもその言葉を使っています。いずれも、「法」という漢字のもつ意味が共通しています。私はこういう場合、「法」と呼んで伝えることがあります。今日もそうするかもしれません。
この「法」は、神が定めました。少なくともそういう設定になっています。この法を犯すことは、神に反することになります。神に逆らうこと、背を向けることです。しかし、人間はその法をすべて守ることなどできません。人間であるかぎり、誰にもすべて守る完全性は得られないのです。それだったら、神はすべての人間を罰することになります。多分に、神にはそんなつもりはないようでした。
イエスが救い主として、つまりメシア、キリストとして地上に遣わされました。人々を癒やし、生活苦からも救いました。教えを施しました。それは旧約聖書の言葉でもありながら、新しい解釈でした。旧約聖書を完成する教えでした。このイエスを信じるか、と人々には問いかけました。
その後、イエスは十字架という死刑台に架けられ、亡くなります。人々により、殺されます。弟子たちばかりか、母マリアまでもが、それを目撃していたといいます。たまらなかったでしょう。無実の罪で、陰謀により殺されたのでしたが、人間たちは憎しみの心で、死刑台にイエスを追い詰めました。
それにしても、イエスを殺したのは誰だったでしょうか。
殺したのは私です。自分が殺しました。――刑事ドラマのワンシーンではありません。このような意識をもてる人だけが、恐らくイエスの復活を体験することになります。復活を信じることでのみ、自分の罪も赦されることとなると受け止めたのです。これは、理屈で証明することはできません。ここが、信仰の要点だろうと思います。
神の存在の証明は、中世から近代初めまでの、神学の重要なテーマでした。哲学も同様でした。しかし18世紀にカントがそれを「証明できない」という形でまとめて以来、神の存在の証明ということについては、基本的に誰も口を出さなくなりました。私たちもまた、そのような考え方をする世界にいます。
しかし、神の存在自体を自明とし、前提にし、論議にさえ上らせないというのが聖書の世界です。神が存在することはあたりまえであり、それを疑うという発想が、聖書にはありません。神について人間が議論したり、その存在を決めたりする場はありません。いわゆる無神論者であれば、神の存在を証明してみろ、と迫るかもしれません。が、その無神論者ですら、食事を前にして手を合わせもするでしょうし、神社で柏手を打つかもしれません。占いを気にするかもしれませんし、心霊現象やパワースポットを小馬鹿になどしないかもしれません。それは、何らかの神や霊的なものの存在を「信じている」ということではないでしょうか。組織的な特定の宗教団体に属したり、その教義に身を委ねたりするようなことをしない、というだけなのではないでしょうか。
◆自由
閑話休題。救われた人の話は様々な型があるとはいえ、健康的な信仰生活に入った方々は、たとえばこういうことがあるだろうと思います。自分はイエス・キリストを通して神と出会った。神に、罪が赦されたと言われた。これは救いであり、恵みである。なんとうれしいことよ。キリスト者は、こうして喜びの生活に入るわけです。
しかし、パウロは少しばかり奇妙な議論を持ち出します。今日の聖書箇所は、実はここからになります。
15:では、どうなのか。私たちは律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯そう、ということになるのでしょうか。決してそうではない。
救いを喜んでいるキリスト者。しかし、罪が赦されたことを喜ぶことの中に、罠があるそうなのです。喜びに溢れ、罪の意識から解放され、自由の身になったかのように喜ぶことになります。ああ、だから何をしてもよいのだ。もう救われたのだから、悪いことをしても構わない、それくらい自由なんだ――そんな考え方をしている者が実際にいたと思われます。それにしても、これはかなりの極論です。
えらく大袈裟なことよ、と思われるかもしれません。そんな馬鹿なことをするはずがないじゃないか、と。私もかつてはそんなふうに見ていました。けれども、教会生活を長くしていると、これは只事ではないぞ、と分かってきました。
教会に救いを求めて、あるいは漠然と何かを求めてくる人がいます。若い人はとくに純朴です。教会は聖いところで、心が洗われるに違いない、そんな期待を懐いて、勇気を振り絞って教会を訪れます。そして、教会にいる人を見て、あるいは教会生活を始めて、がっかりします。それがあまりにも人間臭くて、がっかりするのです。教会生活に慣れてしまい、もう救われたのだから何をしてもよいのだ、というような振舞いをしている教会の中身を見て、がっかりするのです。そのとき、この純朴な人の目に映った風景が、ここでパウロが言っているようなことだったのかもしれない、と気づいたのです。
17:しかし、神に感謝すべきことに、あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から聞き従って、
18:罪から自由にされ、義の奴隷となったのです。
もっと真摯に、誠実に、神の救いを喜びたいと思います。かつて、罪の支配を受けていた自分を思い起こしましょう。そこから救われたということを噛みしめましょう。その意味で、「救いの証し」を常々し続けることは、とても大切なことであるような気がします。たとえ誰かに話して聞かせなくても、ひとりで壁に向かってでも、語ればよいのです。少なくとも、神が聞いていてくださいます。
私はあなたによって、いまや罪から自由になっています。その告白を、きちんと言いましょう。とはいえ、その「自由」とは何か、また考え始めると、難しくなります。古代から哲学において、「自由論」は無数に思索されています。ここでそのような「自由論」をご紹介する勇気は、私にはありません。
ただ、日本では哲学的な教育が全くなされませんから、日本人が陥りやすい思い込みについては、少し触れておいたほうがよいだろうとは思います。それは、自分の好きなことをするのが自由だ、と安易に考えている点です。それはしかし、自噴が何か欲望や意志を自由にしたい、という程度のことに過ぎません。それは二千何百年も前から、実は何ものかに支配されていることだ、とされている常識があるのです。
宗教改革の中心人物であるルターは、『キリスト者の自由』の中で、まず有名な次の言葉を掲げます。
キリスト者は、あらゆるもの、最も自由な主であって、何ものにも隷属していない。(ルター)
世のものに引きずり回されることはないのです。それは、罪から自由にされている、ということでもあるでしょう。ルターの思惑は、もっと別のところにもあるかとは思いますが、今日は私たちの文脈で、そのように捉えておくことにします。
◆奴隷
キリスト者は、あらゆるもの、最も義務を負うている僕であって、すべてのものに隷属している。(ルター)
先の言葉と並んで、ルターはこのようにも書いています。すべてのものに隷属している。つまり、奴隷となっている、ということです。聖書は「僕」という訳にしているところも多いのですが、要するにそれは「奴隷」のことです。
「奴隷」という言葉だと、映画か何かの影響でしょうか、鞭打たれひたすら肉体的な重労働に一日中苛まれている男たちの姿が思い浮かばないでしょうか。時代や社会によっても異なりますが、聖書の頃の奴隷というのは、必ずしもそうとばかりは言えないようです。市民としての権利はありませんが、人間として職務を帯びていました。知恵や技能があれば、重要な役職にも就けます。エジプトで宰相となったヨセフも、奴隷としてまず生きていたのでした。ヨセフほどではなくとも、主人の財産を管理することも珍しくなかったと思われます。
18:罪から自由にされ、義の奴隷となったのです。
パウロはこのように、自由であることが奴隷だ、と述べていましたが、先ほどのルターも、キリスト者は自由であり、なおかつ奴隷である、というようなことを書いていました。これは言葉としては矛盾します。しかしそこに何か意味がある、とすれば、それは「逆説」であることになります。聖書の中にはたくさんの「逆説」があります。聖書ならずとも、多くの思想書は、そうした逆説を含むものです。殊更に騒ぎ立てる必要はありません。聖書にしても、「死んで生きる」という、逆説の極みがあります。それは、福音の要であるのです。
自由であるのは、罪からです。奴隷であるのは、義の奴隷である、ということです。「義」は前回のメッセージで、「救い」という言葉が指すものと重なるように、私たちは受け止めてよい場合があることを知りました。しかしまた、それは「神の義」というような言葉も耳にしました。神の正しさのことですが、やはり神が人を救うということをも内に含むような考え方であると思う升。
罪は、人を、それと気づかないうちに支配します。罪は、死へと人を導きます。滅びと言ってもよいところへ向かわせます。逆に、「罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身」であったというふうに、少し先には書かれています。それは、キリストにあって、罪の奴隷でいることからは解放されているということを意味します。人間は、自分を主人としてしまえば、すぐにまた罪の支配を受けてしまいます。だから神に従うこと、神に仕えることが望ましい、とキリスト教会では考えているわけです。自分の身を任せるのに、神ほど信頼でき方はいないというわけです。こうして、神の奴隷となることが素晴らしいこととして受け止められます。
◆教会の問題
ところが、そうした教会組織に属することは、現在はどうも人気がありません。宗教心がないわけではないのですが、宗教団体に所属することは忌避するのです。確かに、先ほど挙げたように、神の存在証明をしなければ信じない、というような猛者もいるのですが、大抵は、緩やかに神の存在は感じていると言います。
占いには興味津々です。パワースポットは大人気です。幸運の石や財布などは、老若男女問わずに心の拠り所としています。そういうところにつけこんで、金を巻き上げようとして壺や本を高額で買わせる宗教団体が現れる所以です。検索すると、メルカリで、統一協会の壺が、数千円から数万円程度でたくさん売られているのが分かります。しかも大抵、早々と売れるようです。実に不思議です。
霊力や神秘思想には十分興味があるのに、宗教を信じているかと訊かれたら、ノーと答える。その上で、どのような作り話をも、「本当かしら」と興味をもつ心の隙間があるわけですから、霊的なものに関して詐欺が入り込む余地はいくらでもあることになります。
キリスト教会は、こうした中で何をすることができるでしょうか。などと問おうとすると、それどころではないことに、気づかされます。すでにご指摘しました。救われたから何をしてもよい、というような態度を自ら意識しないままに示していることは、決して珍しくありません。たとえば、非常に世の中を見下したような意見をSNSで吐き捨てているようなことが、それなりの社会的地位のある人でも、平気でやっているように見受けられます。
礼拝説教という名で話しながらも、誰でも勉強すれば書けるだけの原稿しか用意できないとなると、どうでしょう。政治の悪口を述べ、世界平和を語れば、正しいことを説教している、と能天気な考えをもっているとしたら、どうでしょう。そんな実に形だけのものでしかないようなことがまかり通ることに対しては、信徒が諫めなければならないはずなのですが、そもそも信徒が説教を聞いていないし、何も問題意識をもっていないとなると、教会はもう死んでいるも同然です。
そのためにも、教会教育というのはとても大切なことだということが分かります。牧会学とか実践神学とか、権威的な名を神学校の講座では掲げていますから、それを学びましたなどと豪語しても、教育することのできない指導者は、役に立たないのです。教会に必要なのは、研究が一流であるが教育のできない大学教授ではなく、さしたる研究成果の名誉などなくても、現場で生徒を教育できる教師なのです。
◆永遠の命へ至る実
また道を逸れてしまいました。戻りますね。
18:罪から自由にされ、義の奴隷となったのです。
今日私たちは、パウロのこの言葉を軸として、ここまで転がってきました。この言葉を飾るために、旧約聖書の最後の最後近く、マラキ書3章を引くことにしましょう。
20:しかし、わが名を畏れるあなたがたには/義の太陽が昇る。/その翼には癒やしがある。/あなたがたは牛舎の子牛のように/躍り出て跳ね回る。
これはいつか将来神が再び大きく動く日、「その日」のことです。「義の太陽」というのは、神のその現れを思い浮かべることにしましょう。あるいは、復活のイエス、再臨のイエスの訪れでもよいと思います。罪から自由にされ、義の奴隷となったキリスト者たちは、すっかり癒やされます。そして躍り跳ねるのです。
子牛のように躍り出て跳ね回るのは、喜びの故です。それは、自分で「救われた」と自認することによって、横柄な態度になったり、自己中心になったりして、冷たい人間になっていることに気づかないようなこととは違います。もっと純粋に、神を喜んでいるのです。それは、神の自由が与えられているからです。聖くされているからです。そこで、パウロも先の言葉の先に、愛を見失わないでいることにより与えられる報いへの希望を宣言します。
22:しかし、今や罪から自由にされて神の奴隷となり、聖なる者となるための実を結んでいます。その行き着くところは永遠の命です。
「永遠の命」、これについても私たちは最近目を留め、聖書から聞こうと努めました。創世記で永遠の道を拒んだ神が、イエス・キリストという道を通して、そこへ至る唯一の道を備えた、というものでした。キリストという道を歩むことにより、永遠の命に届くはずなのです。それは「聖なる者となるための実を結んで」いるということで、はっきりと示されていると思います。
キリストに救われた者は、それまでの自分に一度死ぬのです。十字架のキリストと共に死ぬのです。そして、復活のキリストと共によみがえります。変えられるのです。かつてない姿に、変えられるのです。だから私たちは、実を結ばせてもらえます。罪は死の実りしかもたらしませんが、神から与えられる命は、ガラテヤ書5章によると、次のようなたくさんの実をもたらします。
これに対し、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。(ガラテヤ5:22-23)
死に至る罪から解放され、命に至る神の道に従うようにと導かれました。ならば、こうした実を結ばないはずがないのです。もちろんそれは、これらのことを目指して生活すれば救われる、というのとは方向性が違います。次元が違います。まず救われたからこそ、イエス・キリストの道へと導かれ、これらの実を結ぶしるしが約束されました。その道が、永遠の命へと至るということになります。
私たちは、日に何度でも、心に戒めておくようにしましょう。罪から自由にされている、義の奴隷となっているか、と。そのとき、自分では気づかないうちに、神がそっと実りをもたらしてくださるはずです。イエス・キリストにつながるあなたは、実を結ばないはずがないのです。