聖書が人を解釈する
2023年10月30日
黙示録9章全体が開かれた。なんとも凄惨な場面が描かれる。そこではいなごの猛威がまず描かれる。新共同訳までは、この「いなご」とされていた語は、新たな聖書協会共同訳では「ばった」に変更された。動植物の研究の成果を含めたらしい。
それはともかく、ここにある多くの幻想的な描写と、人間に与えられた過酷な仕打ちを、いま悉くここに置くつもりは遠慮申し上げる。しかし黙示録という書は、古来曰く付きであったことは間違いなく、いわゆる正典に入れられるのがかなり遅かったことに、その背景が窺えるのは確かである。
旧約の中にある幻を取り入れているところも多々あるが、ギリシア語としても決して褒められたものではなく、また、加筆も推測されるなど、読む側にとって困難な要素がたくさんある。
確かにこれは「黙示」を描いている。神がミステリーを啓く「啓示」とは紙一重であり、事実原語はこのどちらにも訳すことができる。原語は「覆いのないこと」を現す語感をもつ。覆っていたものを取り払い、覆われていたものが露わになるのである。これは、「真理」と訳している語にも特徴的には共通である。20世紀最大の哲学者のひとりであるハイデッガーがその一生をかけて探求した「真理」もまた、ギリシア語から、隠されていたものが明らかになることを軸に展開したのであった。
この黙示録には、何かが隠されている。当局に見つかればまずいことが書かれてあるとき、あからさまに真実が見出されないように、偽装するという方法がある。日本の潜伏キリシタンの「マリア観音」や「十字架灯籠」なども、そのひとつであろう。黙示録もまた、何かを隠そうとして、これほどに謎めいた描写になっていると思われる。
だが、同時にこれは私たちの目の前に提示された、神からのメッセージである。少なくとも聖書を信仰の書として読む者は、そのように受け止める。だが、どうやって?
地上の歴史的事件の一つひとつにあてはめて解釈する人がいた。しかしその解釈は、一様に決定されるようではなかった。何か「略解」のようなもので、これこれはこうだ、と書いてあれば、「そうなのかなあ」と思い、またその道の専門家が、これは何々を言い当てていた、と書いてあれば、「本当にそうなのかなぁ」などとよく思っていた。全面的に信用はしない態度が、私にはずっとあった。かといって、私自身の解釈ではこれは……などと説明できるわけでもなかった。その都度、これはあれを表しているんじゃないか、とコロコロ変わる理解をしてみた、というのが実情であるのかもしれない。
説教者が、ある本にあった言葉が心に残っていると言った。「人間が聖書を解釈するのではない。聖書が人間を解釈するのである」というその言葉は、私の心に強く残った。このように、主語と目的語を交換して考えるというのは、発想のパターンのひとつではあるのだが、ここでも、もしかすると機械的に交換して生まれたに過ぎないようなその後半の言葉が、ひとつの光となって私の視界を照らしてくれた。
聖書のほうに、権威があるのではなかったか。聖書が神の言葉だ、と口先で言うのは簡単だが、それはつまりこのように、聖書の方が主権をもつことにほかならないではないか。
神がいまの人間を、どのようにご覧になっているか、そこが肝要だったはずである。あまりに、人間の側が神を判断し、判決を下すような錯誤が氾濫し、いつの間にかキリスト者でさえも、その方向性で見てしまっていやしないだろうか。
ダビデも、神はすべて自分のすることを知っていると告白している。自分が生まれる前から、そしてこれから行く末までも、ご存じなのだ、と言っている。その詩をも、私たちは神の言葉として信じているのではなかったのだろうか。
9:11 いなごは、底なしの淵の使いを王としていただいている。その名は、ヘブライ語でアバドンといい、ギリシア語の名はアポリオンという。
説教者はこの日、このギリシア語の「アポリオン」を序盤で紹介すると、中盤と終盤で効果的に持ち出した。その趣旨は、ギリシア神話の神「アポロン」になぞらえるというものであった。私はギリシア神話についてはよく知らないので、無謀なことは言わないが、ニーチェが、どちらかというと理性的な精神を、象徴するためにアポロンの名を用いたことは有名であると言えよう。
そのアポロンが、ピュトンと呼ばれる蛇の怪物を退治した話にまつわり、アポリオンとなったとかどうとかいう話があるそうだが、確かに何らかの形でこのアポリオンはアポロンとつながりがあるらしい。アポリオンの意味は「破壊者」であるということから、ここでそう邦訳することも可能だっただろう。その方が、意味合いは伝えられるはずだが、なんとなくこの擬人化の方がよいような気もする。なお、ピュトンという名は、使徒言行録に登場した女奴隷に取り憑いた占いの霊を示すのに使われているのだという。
20世紀は、人が猛烈に殺し合った世紀であった。説教者は、当然いま悲しみの内に伝えられている、ウクライナ国内のことと、ガザ地域のことを念頭に置いている。また、そのように報道されない形での内戦や迫害などを含めて、言葉を紡いでいるのだとも思う。先に触れたニーチェは、19世紀最後の年に死んだが、20世紀に「神は死んだ」という衝撃的な宣言を言い遺した。それは、必ずしも神殺しのためではなく、異世界的な解決を期待させる考え方に釘を刺すこととなった。
説教者は、そこに「貪り」が栄えることとなったと告げたが、同時にそれは、人が神となることだった、とも警告した。人がいなごとなり、アポロンや偶像となったのだ。さらに言う。その偶像とは何か。それは、「自分の命令をきく神をつくること」だ。自分の腹を神とし、自分を崇拝する。そして、もはや「自分」ではないと決めつけた「他者」を殺すことを正当化しさえするのだ。
先日、『キリスト教の本質』という本が発行された。Eテレにも出演して評価された著者であったため、それなりの啓蒙はできるのか、と期待させるようなタイトルであった。だが、これはよく最後まで私も読んでいられたと思うが、トンデモ本であった。何か教会かキリスト教世界に恨みでもあるのか、と思わせるような書きぶりで、自分の思い込みだけで、キリスト教の本質は正に「自分の命令をきく神をつくること」である、というような断定をし、凡ゆる宗教もまたそうだ、と吠え続けるものだった。
キリスト教の歴史が、必ずしも聖いものではなかったことは、私も随所で語っている。むしろ、私はあのように歴史の中で酷いことをしてきた宗教を信仰しているのです、と肩身が狭いような思いでいるのが正直なところである。だが、そうやって人間は歴史の中で、いかにも人間らしい振る舞いをして、こんな歴史を刻んできてしまったが、それでもなお、聖書そのものは、もう少し正確に言えば、聖書を通して語り現れる神は、真実である、というスタンスは変わらない。
何故かというと、私がその神と、イエス・キリストと、出会ったからである。この私に、真実を示してくださったからである。このことは、私にとってはどうやっても否定できないからである。
それなのに、その神を自分がこしらえたものであり、すべての神なるものがいわば偶像なのだ、と世間に向けて公言してしまうのはどういうことだろう。それも、外国の大学の神学部を出た「聖書学者」と名のる人物が、である。NHKの出版部も、いくら番組に出演した人だからといって、もう少し内容をチェックできなかったのだろうか。というのは、この手の主張は、時折世の中には現れているからである。
但し、いま読んでいる最中なのだが、『「神」という謎――宗教哲学入門』という本は、似た意味のことを考察しているにも拘らず、本質的に上記の本とは異なっているるこちらは、「神」についての命題を、論理的に捉えるとどうなるか、一歩一歩踏みしめて検討しているからである。感情的なものはそこには含まれていない。こうした論理の提示は、ためになる。その論理の、どこに何か隠れた問題が潜んでいるか、調べたいと思うではないか。
閑話休題。説教者は、先の「貪り」を指摘した上で、アポロンのような美しさに人は目を奪われるかもしれないが、本当に見つめなければならないものがある、と指し示す。病を負った方だ。傷だらけの方だ。人の痛みや悩み、苦しみを全部身を以て味わってくださり、知り尽くした方だ。ぼろぼろの雑巾のように、冷たい人間の仕打ちの中で一度命を失った方だ。このイエスの姿に、人間が称えるような「美」はどこにもないだろう。だが、それは「美しい」のだ。美しくてたまらないのだ。それは光に包まれており、永遠の輝きを放っている情景なのだ。
聖書は、黙示録の残酷な場面の中からも、人に語りかけてくる。ところでおまえはどうなのだ。おまえはどこにいるのか。ここから何を聞いたのか。何を受け止め、そしてここからどうするのか。聖書は私たちに問いかける。語りかける。そして、呼びかける。聖書は、この私を解釈しようとしている。
私がいなごにならないために、私がアポロンに酔い痴れないために、である。そうでないと、私はいつか、破壊者として働いてしまうことになるだろう。説教は、最後にこんな祈りの言葉で結ばれた。――私をいなごにしないでください。人として生きるようにしてください。