【メッセージ】信じるということ

2023年10月29日

(創世記15:1-6, エフェソ2:1-10)

あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。(エフェソ2:8)
 
◆アブラハム
 
「音楽の父」と言えば、バッハ。賀川豊彦は正に「生協の父」でしょう。そしてイスラエル民族の信仰の父といえば、アブラハム。膨大な数の「〜の父」があるのに比べて、「〜の母」と呼ばれる人はごく僅かであることを、不思議に思います。アブラハムは、旧約聖書創世記に登場する人物です。ただの伝説めいたものも含まれますが、生身の人間らしく描かれたのは、ノアを除けば、アブラハムが最初でした。それも、かなりの分量を以てアブラハムのことが描かれます。
 
アブラハムというのは、改名後の名前です。最初の名前はアブラムでした。アブラムは99歳まで子がなく、悩むというよりはすでに諦めに入っていたようですが、主が現れて、子どもを与えるなどの祝福を約束したことがありました。このときに、アブラムからアブラハムに改名することとなったのです。
 
元の「アブラム」は、父親を表わす「アブ」と、高めるという意味の「ラム」とからできていると考えられています。これを「アブラハム」のように発音するように変わるのは、当地ではありがちなことなのだそうですが、ここでは神がイニシアチブをとって、この名を名のれと命じます。「アブラハム」になると、「ラハム」が、多くの、という形容詞になると聞きました。しかし必ずしも意味的には明確ではないかもしれません。「多くの父」というのは、「多くの国民の父」のことだと理解して、人類にこの神のことが拡がっていくということを暗示しているように捉えられるようです。
 
アブラハムは、ユダヤ人にとって尊敬すべき父祖であり、イスラエル民族のアイデンティティはといえば、このアブラハムに行き着くのが通例でした。そもそも主なる神のことを紹介するのに、「アブラハムの神」のような言葉が使われます。イスラエルが神と契約を交わしたと言えるのは、このアブラハムからです。イエスの語る話の中でも、貧しいラザロがアブラハムの懐に抱かれる、というような場面がありました。それはつまり、イエスの時代のユダヤ人一般が、アブラハムを救いの鍵を握る人物のように見なしていたということを意味します。
 
アブラハムについて説明をしようとすれば、あれもこれも、たくさんお話ししなければならなくなります。また時折アブラハムについてはご紹介することがあろうかと思います。今日の場面に早く入ることにしましょう。まだ「アブラハム」という名前をもらう前の出来事ですから、その箇所にあるとおりに、名前を「アブラム」と呼ぶことにします。
 
アブラムに、子孫の約束が与えられるときの話です。満天の星空を背景に奏でられる、壮大な場面です。創世記15章をお開きします。
 
◆主を信じた
 
1:これらのことの後、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
 
こういう場面から引用すると、気になります。「これらのこと」とはどういうことか、と。それを踏まえることが大切である場合が多々ありますが、いまはあまり気にしないでおこうかと思います。この直前に、メルキゼデクの祝福というものがありました。新約聖書のヘブライ書が強く気にする箇所です。
 
しかし、突然主なる神がアブラハムの意識の中に飛び込んできたような描かれ方をしています。「幻」というのは、どう解釈してよいのか分からないのですが、客観的に誰もの目に分かるような仕方ではなかった、というふうにでも捉えてみましょうか。かといって、ただの精神的錯乱のようなものだ、としてしまうのも、もったいない話です。しばしばそうした幻覚が現代医学や心理学では語られますが、そう突き放してしまわないようにしましょう。アブラハムという人格に、神が臨んだという話を通じて、このようなことがあなたにもあるのだ、ということを筆者は伝えたいように、私は思っています。
 
神は「恐れるな、アブラムよ」と呼びかけます。聖書では、特に旧約聖書ではお決まりの、「恐れるな」というフレーズです。「主を恐れる」ことは信仰の上で必要ですから、ここで「恐れるな」というのはそれとは違い、恐怖に取り憑かれて不安の中で暗闇に落ちこむな、というような励ましのように受け取るべきでしょう。あるいは、もう深い意味はなく、「注意を向けよ」という意図のために投げかけられている、と捉えたほうがよいのかもしれません。
 
直前に、メルキゼデクという人間からの祝福をアブラムは受けましたが、まるで主が、その祝福を妬むかのように、もっと大きな祝福を与えよう、と現れたように感じることも可能かもしれません。
 
アブラムは、「受ける報い」という主の言葉に反応しました。何が「報い」でしょうか、自分には子どもがないのです。人生の不幸を子がないことに考えるのは、アブラムの時代の文化にとっては当たり前のことでした。現代、そうした言い方をすると痛く傷つく人がいるのも確かですが、そういう価値観に囚われない人がいるのも事実です。アブラムの世界観の中で、どうかひとまず理解して戴けたら幸いです。
 
アブラムにとり、子がないということは、どんな「報い」を受けようとも、堪えがたい不幸に思われていました。いつも心の中心にあったのでしょう。そのことを、包み隠さず主に訴えたというのは、アブラムの心の素直さであるのかもしれません。自分の家督を継ぐのは、自分の子ではなく、自分に仕える奴隷の立場の中から選ぶことになるのだ、と悲観します。すると主は、そうではない、と答えます。「あなた自身から生まれる者が跡を継ぐ」のだ、と。
 
アブラムがどんな顔をしてそれを聞いたか、分かりません。主は、実地にこれを説得しようとしたのか、アブラムを外に連れ出します。外です。いままで、内にいたのです。アブラムは、狭い自分の思い、自分の心の中に閉じ込められていたのです。分かりやすく言うと、たぶん「くよくよしていた」のです。
 
「天を見上げ」よ、と神は告げます。アブラムが下ばかり向いて暗い気持ちだったところから、解放させようとしたようにも見えます。見上げれば、そこは夜でした。アブラムの幻は、一種の夢であったとも解釈できますが、いまは勝手な想像は慎むことにします。この星を数えてみよ、と主が迫ります。いや、数え切れないだろう、という反語的な誘いかけでした。数え切れない、それがあなたから出た子孫の姿なのだ、と言いたかったのです。
 
星は、希望の星となりました。無数の星の張り付いた天空は、崇高に感じられました。
 
「繰り返し、絶え間なく熟考すればするほど、常に新たにそして高まりくる感嘆と畏敬の念をもって心を満たすものが二つある。我が上なる星の輝く空と我が内なる道徳法則とである」 (カント『実践理性批判』)
 
冷静な哲学者が、「崇高」なる概念を示すものとして自然の中の最高峰に見たものが、星空でした。アブラムも、胸がいっぱいになったことが予想されます。
 
6:アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
 
◆信じるということ
 
アブラムは主を信じた。単純な文ですが、ここに恐ろしいほどの深いものが隠されています。いわば、これがユダヤ教をつくり、キリスト教すら
育んだのです。「信じる」とは、そもそもどういうことなのでしょうか。  
「神を信じるか」と普通に日本人が話し合うときに、何を思い浮かべているでしょうか。「ねえ、神さまって、信じる?」「そうだね。神さまって、いないって言い切れないような気がする。どちらかと言うと、いる、という感じかな」といった会話がすんなりしませんか。「神さまって、信じる?」と訊かれて、「神さまは私を愛していると思う」というような答えがスッと出てくることはないだろう、と思うのです。これは、神の存在がもう前提となっている上での会話だからです。日本人だと、先ず、「神は存在するか」からスタートするような話し方になると思うのです。
 
重要な関心は、神が存在するかどうか、であり、神と自分との関係がどうであるか、というところには、思い至らないのが普通ではないでしょうか。
 
それにしても、「信じる」というのは、たとえ言葉にしないまでも、日常のあらゆるところに、自然と備わっているような気がします。
 
たとえば、いま床に突然穴があくようなことはない、と「信じている」でしょう。空からミサイル攻撃がない、と「信じている」はずです。もっと実践的な行為で例を挙げるならば、昨日まで会社で働いていたのは、そのことで給料がもらえる、と「信じている」からではありませんか。エレベータのドアが開いて、無意識のうちにすぐに一歩が出せるのは、そこにちゃんとボックスが来ている、と「信じている」からでしょう。車のアクセルを踏むのは、ブレーキが壊れていない、と「信じている」からですし、友だちに冗談を言ったり、内緒話をしたりできるのは、友だちが怒り出すことがなく、秘密を漏らすことがない、と「信じている」からにほかなりません。
 
もはや「信じる」ことなしには、私たちは一秒たりとも生きていけません。信じられないような不安を揶揄して言うことに、「杞憂」という言葉があります。私たちは「杞憂」を笑えるほどに日常生活を営んでいます。それは、別の言葉で言うと「信頼する」ということでもあります。神を信じるかどうか、ということは、存在云々よりもむしろ、この「神」というお方を「信頼する」のかどうか、という問いかけであるわけです。
 
しかし神に関しては「信仰する」と言うのではないか。確かに日本語ではそうです。わざわざ「仰ぐ」という字を特別につけて、神に対する信頼を表すのが通常です。けれども、新約聖書の原語からしても、その他多くの言語からしても、そこに使われているのは「信仰する」とも「信頼する」とも訳せる言葉で、どちらの文脈でも使っている言葉になっています。
 
また、神の言葉は本当のことだ。信じる者は、そのように思うことでしょう。その「本当」というのは、ひとつには「真理」ということです。これは多くの方に、そういう意味だとご理解戴けると思います。けれどももうひとつには、「現実」ということがあります。神の言葉はただの空理空論ではなくて、確かに実現すること、現実となること、それを意味しているように思うのです。
 
◆義
 
そこでアブラムです。この夜空の星のように、数え切れない子孫が、まさにおまえから出るのだ。神にこのように具体的に告げられた結果、アブラムの心はこう描かれています。
 
6:アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
 
アブラムは主を信じたのでした。そしてそのために、主はアブラムを義としたのです。主とアブラムは、強い関係を結んだ、と理解できます。但し、ここで分かったようなふりをしてしまいそうな言葉があります。「義」という言葉です。
 
10月31日は、宗教改革記念日とされています。「1517年・宗教改革」は、すべての中学生が暗記しなければならない年号です。ルターの行動に基づく記念日ですが、この直前の日曜日に、プロテスタント教会の多くが「宗教改革記念礼拝」というような形で礼拝を行います。宗教改革によって、いまでいうプロテスタント教会が生まれた、とされるからです。
 
プロテスタントの原則は「信仰のみ・聖書のみ・万人祭司」というところでしょうか。中学校の歴史の授業では、いまはそこまで深入りしないようです。私たちもいま、これらを学び直すという作業を、このメッセージの中で果たすことは控えます。ただ、真っ先に挙げられた「信仰のみ」という点は、この「アブラムは主を信じた」というシンプルな文が、そのエッセンスを示していると思われます。しかも、「聖書のみ」とありますから、聖書に従うならば、次のような、やはりプロテスタントが重視した言葉に出会います。
 
なぜなら、私たちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。(ローマ3:28)
 
このような「信仰による義」という考え方は、ローマ書に最も多く現れます。その次に、ガラテヤ書に多く、フィリピ書にも出て来ます。その他は、ヘブライ書にひとつあるくらいのようですから、要するにパウロが強調している問題だ、と見てよいだろうと思います。
 
信仰によって義とされる。その「義」とは、「正義」のことでもありますが、日本語のそれとは少し違うような気がします。「正しさ」という言葉に直してみても、もうひとつしっくりきません。「義」は「義」でしかないようにも思えます。が、日本語で示す「義」という漢字の示すものと、重なるところは多いにしても、ぴったりかどうかは難しいように思います。
 
「義」とは何か。この問題について一定の理解をするためには、何百頁にも及ぶ研究書が書かれなければならないでしょうし、何千頁もの本を読まなくてはならないことでしょう。それでは私たちの身がもちませんから、ここではほんの一隅だけに光を当てることにします。
 
「義」は「正しさ」とは言っても、きわめて漠然としています。聖書の思想には、「罪」というものがありました。「義」は、この「罪」と対照的に捉えると、少し分かりやすくなるようです。この「罪」とは、いわゆる犯罪のことではありません。法律で裁かれる犯罪のことではありません。もちろん、それも罪でしょう。また、犯罪に該当はしなくても、他人に悪いことをした、という意味で「罪」を覚える人もいます。それも罪だとしてよくないはずはありません。私も、最初はそこで自分の罪を知りました。
 
しかし、聖書の思想の中で「罪」というときには、「神」に背を向けるということが、一番相応しいと考えられています。
 
ややこしくなりました。振り返りましょう。あまりにも単純なので、ほんの入口としてください。「義」の逆が「罪」です。「罪」とは「神に背を向けること」でした。だとすれば、「神に背を向ける」の逆、つまり「神と向き合う」ことが「義」と重なってくるようにも考えられます。
 
◆救い
 
けれども、私たちはそう簡単に「神と向き合う」ことなど、できるのでしょうか。自分の中の不出来な様、醜い心、ひとは自分の暗い闇を自覚していることでしょう。そんな姿で、聖い神に向き合うことが、できるのでしょうか。よく「合わせる顔がない」などと言います。不埒なことをしたために、相手の前に出られない、ということです。「敷居が高い」というのは、そういう心理を表す言葉です。せめてこれくらいの良心は、私たちにはある、と言いたいではありませんか。因みに、「敷居が高い」という言葉は、よく誤って使われますから、決して「教会は敷居が高い」などという表現を使ってはいけません。
 
胸に手を当てて考えてみれば、私たちには、誰もが「疚しい」ところがあるはずです。私たちの殆どは、それを自覚できるようになっています。病気や何らかの事情で、それを自覚できない人がいることは配慮します。自分は常に正しい、と思いこんでいるような発言をしている人を、SNSでは時折見かけます。口ではそんなふうに言いながらも、実は自己反省のできる人だろう、と思いたいのですが、中には、その欠片も感じさせないタイプの人がいるのも事実です。また、ドストエフスキーが描いたムイシュキン公爵を思い浮かべてもよいかもしれませんが、非常に無垢な性格の人もいるでしょう。けれども、いまは大多数の人のケースとして、取り上げさせてください。私たちには、誰もが何か「疚しい」ところがあり、疚しく思う心があるのだ、ということで先に進みます。
 
そのとき私たちは、それを「罪」だと思うことがあります。「罪」とは、「神に背を向けること」でした。けれども、ここで逆説のようなことが起こると私は思うのです。確かに「罪」は「神に背を向けること」でしょう。けれども、「自分に罪があると痛感すること」は、神に背を向けていないことである、と見てはいけないでしょうか。
 
キリスト教は、そこにイエス・キリストが関わる信仰をもっています。今日、その十字架や復活を、事細かにお話しすることはできません。ただ、自分の「罪」を痛感したところから、イエス・キリストという道を通って、神に至る筋道が、初めて見えてくるのだ、ということを確かめておきたいのです。自分の「罪」を知ったとき、私たちは神と出会うところへ連れて行かれるのです。もし、救いを与えられることになっていれば、必ずその出会いへと導かれます。
 
「罪」を知ること。そのとき、ひとは神と出会います。それは、神を信じることへ続く道にさしかかることを意味します。「罪」からスタートしたその道は、「救い」へと至ります。
 
すると、「義」が「罪」と対立するのでありましたから、「罪」から始まり「救い」への道が、イエス・キリストを通して備えられるとき、私たちは、「義」と「救い」とがつながる様を見ることができるでしょう。「義」について、私たちは「救い」へと続くものであることを、ここへきて確認したように思えます。
 
その「義」は、「信仰」による、とするのが新約聖書です。ローマ書やガラテヤ書では、パウロが特にじっくりと語り、また幾度も繰り返します。殆どがパウロによって述べられます。不思議と、旧約聖書には「信仰」という訳し方をする場合が、驚くほど少なくなります。詩編に少しあるほかは、イザヤ書にひとつ、そしてハバクク書にひとつです。このハバクク書には、パウロが強調した、信仰と義の問題がようやく現れてきます。
 
見よ、高慢な者を。/その心は正しくない。/しかし、正しき人はその信仰によって生きる。(ハバクク2:4)
 
これを除けば、今日の創世記の「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15:6)くらいしか見当たりません。ここまではイエス・キリストの業について細かく見ることはできませんでしたが、信仰が与えられて教会に集う方々は、皆知っています。イエス・キリストによって、この「義」が自分に与えられたことを、きっと知っています。聖書が約束した永遠の命、神の国を、イエス・キリストが告げたとおりに、イエス・キリストが身を以て示したとおりに、信じることが「義」とされ、「救われる」ということを、体験しているのです。
 
◆エフェソ書から
 
1:さて、あなたがたは、過ちと罪とのために死んだ者であって、
2:かつては罪の中で、この世の神ならぬ神に従って歩んでいました。空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な子らに今も働く霊に従って歩んでいたのです。
 
エフェソ書2章は、私たちが罪のために死んだ、と言っています。神ではない、この世にどっぷりと浸かった生き方をして、自分勝手に過ごしていました。それは、空中に勢力を持つ者などと言っていますが、要するに悪魔に唆されていたのです。自分では気づいていなかったのです。
 
4:しかし、神は憐れみ深く、私たちを愛された大いなる愛によって、
5:過ちのうちに死んでいた私たちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――、
6:キリスト・イエスにおいて、共に復活させ、共に天上で座に着かせてくださいました。
 
その過程を、ダイジェストでしかご説明できなくて申し訳ありません。救い主であるイエスは、十字架の上で死にました。それは、かつて神の前に死んだも同然だった私たちも死んだということに重なるというのです。すると、そのような私たち、つまり「罪」に染まっていた私たちそのものが死んだということになります。
 
ところが、イエスは復活しました。それがキリスト教です。死んで終わりではない、というのがキリストを慕う私たちの希望です。キリストは復活しました。そのキリストと共に、私たちも死んだ上で、生きるようにして戴いたというのです。
 
8:あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。
9:行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためです。
 
ここにも、信仰によって救われた、ということが証しされています。手紙の筆者は、少なくともこれを体験していたわけです。「恵み」というのは、人間の側の力、人間の優れたことに基づくことを一切拒否する言葉です。神から与えられる。神がそれを下さる。ひたすら神から来るこの良いニュースを、ただ信じよう、と促すのです。そう、アブラハムがそうしたように、私たちにも、主を信じることへの誘いが、もちかけられているわけです。
 
◆宗教改革を実践する
 
ただ、「恵みにより、信仰を通して救われた」という知らせには、気になる言葉が付け加えられていました。「行いによるのではありません」というのです。もちろんそれは、人間が神を必要とせずして、自分の行為で立派なことをしたとか、救いに値することをしたとかいう考えを無くすためです。けれども、この「行いによるのではありません」という言葉は、一部の人にとり、躓きの石となりました。
 
なぜなら、私たちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。(ローマ3:28)
 
これは、ルターの宗教改革の旗印となりました。506年前の10月31日の夜でしょうか、万聖節の前夜に、人前に掲げられた、ルターによる、教会に対してケンカをふっかけた決定的な文言があったといいます。一説には、それは内的に書き送った文書である、とする研究者もいますが、とにかくルターが、教会に対する疑問を連ねた挑戦状を公にしたのです。ここから、嵐が吹き荒れました。ルターは命懸けでしたが、反教会勢力の庇護を受けるなどの幸運もあり、ルターの活動は保たれました。歴史の中の、大きな分岐点でした。
 
この流れを受けた教会を、「プロテスタント」と言います。教会に楯突いた者、抗議した者、抵抗した者、そういったニュアンスを集めたことになる、ある意味で侮蔑の語でしたが、むしろそれを掲げて誇りとすることにしました。「印象派」だの「キュービズム」だの、芸術世界にはよくある話です。プロテスタント教会は、10月31日を、「宗教改革記念日」として覚えることとしました。そのため、その日または直前の主の日に、それを記念する礼拝を開く教会が数多くあります。
 
信仰のみ。行いではない。その強調は、行いにより救われるという方向に偏った教会の姿勢に対抗するものでした。詳しく検討はいまできませんが、そこに意味を見出した人々が少なくなかった、ということは、その語のルターの思想やそれを受け継ぐ人々の姿が証明していると思います。
 
けれどもそこから、「行い」が必要ない、とする極論に傾く考え方が現れたのも事実です。ルターは救いの原理を掲げたのであって、「行い」が無用だと決めたわけではなかったのでしょうが、人間、どうしても数多くなると、いろいろな受け取り方をする者が現れてしまいます。そこで最後にいま一度、大切な点を振り返っておきましょう。
 
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15:6)
 
余談ですが、中国の人は「義」という漢字をどのような意味をこめてつくったか、については定説があります。「義」の字の上は「羊」であり、下は「我」、これは鋸を表します。羊を神への犠牲とするという意味でした。聖書に直接関係はしませんが、なんとも意義深い捉え方ではありませんか。
 
その上で、「行いによるのではありません」(エフェソ2:9)としたエフェソ書2章でしたが、そのペリコーペ(聖書の言葉の段落のようなもの)は、次の言葉を以て結ばれます。
 
10:私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。
 
いま「信仰を通して救われた」、「行いによるのではありません」と言った直後がこれなのです。「行い」が消されているようなことはないことが分かります。まず神から、という順序は強調されていることになるのでしょうが、「行い」はこれから後に、私たちに必要なものだとしています。「ためです」という言い方は、「やがてそうなる」という訳し方があることは、英語をご存じの方はお分かりになるだろうと思います。私たちは、これから「善い行いをして歩む」のです。
 
さあ、私たちは前進しましょう。どんなに打ちひしがれていても、顔を天に向ければ、前進させて戴けます。時間が許されている限り、私たちは「義」という「救い」を、最も大切な頭部を守るために被って戦うのです。「戦う」という言葉が野蛮ならば、「絶えず目を覚まして根気よく祈り続け」(エフェソ6:18)るのです。すでに与えられた「勝利」の約束を、堅く「信じて」。



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