アニメのファンタジー

2023年10月20日

アニメは好きだ。テレビアニメは、必ず何か見るものを決めている。ここのところ、ネットで見ているものもある。福岡でテレビ放映されるアニメは、それほど多くない。話題のものがないとなると、アマプラなどで見ることになる。
 
アニメは、すべて人間が考えて作った画である。計算され尽くした画にこめられた意味などを考えることもできる。生まれたときからマンガ(昔はそう呼んでいた)は好きだった。
 
もちろん好みのタイプはあって、「こころ」が描かれているのがいい。いま「こころ」と正面切って向き合っているのは、たぶん「SHY」ではないかと思っている。
 
苦手なのが、ファンタジーものだ。「こころ」が描かれることがあるから関心はあるのだが、どうにもなじめない。何故だろう、と考えてみた。ファンタジーでなかったら、たとえば高校生の話であったら、大体高校生活というものについて見当がつく。自分にもそれなりの経験がある。前提とされているものについて、一定の見聞がある。しかし、ファンタジーはそうはいかない。前提を理解するまでに、しばらくかかるのである。
 
今時の言葉でいうと「世界観」が分からないのだ。そこになじむまでに、どうしても時間がかかるのである。
 
その点、同じファンタジーでも、映画はまだいい。映画は、2時間くらいの時間の中で、誰に対しても分かるように紹介していく前提で作られている。そこが巧いと思うが、とにかく事態を理解させるような入口がちゃんとあるのだと思う。しかしテレビアニメだと、回が進むにつれて、次第に理解できていくことになり、一週間二週間と間が空き、分からないままに時が過ぎて行くのだ。
 
この秋、ファンタジーものといえる「葬送のフリーレン」が話題だった。とりあえず一回見てみようと録画していた。今年一番の話題だった「推しの子」が、初回で3話放映するという画期的な方法をとった。芸能界という、予備知識のある分野であったこともあり、物語の本当の入口まで一気に連れて行ってくれた。これは分かりやすかった。
 
「葬送のフリーレン」も、普通なら映画を放送する枠を使って、初回でなんと4話を放映した。早速見てみたが、一度では分からなかった。4話見ても、話がどちらの方向に行くのか、ということはもちろんのこと、魔法使いというその背景について、なかなか呑み込めなかったのだ。私は4話まで、二度見た。これで、ようやくその世界観が私に近づいてきた。
 
すると、5話6話と、ずいぶん面白くなってきた。「こころ」がようやく見えてきたからだ。というより、「こころ」が分からない主人公がそれを求める旅である面があるように見えたのだ。しばらく時間がかかる上に、二度見ないとそこに入れなかったことが、自分らしいとは思えど、笑ってしまうほどだった。
 
転生とか魔法何々とかいうのには、どうにも馴染めないのである。ピンチになると必殺技が出るような戦闘ものも、なんでその力があるのか、なんでそれまで使えないのか、ピンとこない。そのキャラが何もので、何ができるのか、ついて行けないわけだ。
 
この手のものは、悪者が決まっていることが多い。フリーレンにしても「魔族」は最初から悪者であり、殺されて然るべき存在である。それをやっつけるところが痛快であるということであろう。日本の昔話「桃太郎」でも、どうして鬼が成敗されなければならないのか、桃太郎は侵略者ではないのか、という視点を、芥川龍之介が描いてドキリとさせたことがある。ウルトラマン系でも、怪獣は悪という図式が、いわゆる平成ウルトラマン以来、すっかり変わってしまった。ただ、いま経営者がカトリックの円谷一族の手から離れた中でどうなっているか、あまり関心がないので、気になるけれども私には分からない。
 
ミヒャエル・エンデのように哲学的視野を醸している作家の作品は、同じファンタジーでもけっこうすんなり入り込めたのだが、昨今のファンタジーには、どうも抵抗を覚えることが多い。もう世代の違いで、ダメなのかなぁ。



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