(ダニエル7:13-14, ヘブライ10:11-14)
実に、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者としてくださったのです。(ヘブライ10:14)
◆いまどこに
「いま」キリストはどこにいるのでしょう。キリスト教を信じたい人からの質問であることもありますが、他方、端から信じない人から問われることもあります。
イエス・キリストは、二千年ほど前に、殺されました。十字架刑だったとされています。これについては殆ど疑われることはありません。しかしキリスト教が生まれたというのは、そのイエスが復活した、ということに基づきます。
ある牧師は説教の中で吐き捨てるように言いました。「もしも、イエスの遺体が発見されたとしたら、その時は、キリスト教をやめます」と。それほどに、イエスが復活したということは大きな信仰の原点です。これを欠くようなことを言う団体や個人は、決してキリスト教ではありません。すぐさま離れたほうが賢明です。
この復活したイエス、イエスを復活させた神、そしていま私たちに聖霊という形で臨むお方を、別々のものとは考えない人々が、共に神を礼拝するその集まりこそが、教会といいます。もちろん建物のことをいうのではありません。
しかし、復活を信じない人がいるのは確かです。信じられないのではなくて、信じないのだと思うのですが、その人たちが、ニヤリとしてこう言います。「復活したのだったら、その後イエスはどうしたんだい? いまどこにいるんだい? それとも、また死んでしまったのかい?」
◆昇天と聖霊
そのような問いかけは、現代的なものであるとは限りません。二千年前、イエスの復活事件の当事者たちの目の前でも、そのような声が向けられた可能性があると思うのです。つまり、イエスの弟子たちは、刑死したイエスが復活した、と言い始めましたが、それを聞いた人が、そのように質問したことは、大いにありうることではないでしょうか。
イエスの地上での言及については、四つの福音書がそれぞれの証言をしています。証言が食い違うように見えるのは、それぞれの編集が、半世紀ほどの時を経て明らかにされたものですから、多角的に語られたとしておくことにします。イエスの復活については、その描き方はともかく、四つの福音書が確かに触れています。けれども、「復活した後、イエスはどうなったか」については、ルカと呼ばれる著者だけしか、記録していません。
これは、ルカに向けられた疑問「イエスは復活の後、どこにいるのか」に対して、ルカこそがなんとか応えようとしたのだ、と理解できようかと思います。
マタイは、ガリラヤに呼ばれた弟子たちが、「あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言われた場面で結びました。イエスはいまも私たちと共にいるのだ、ということは言えますが、イエスがどうなったか、については描いていません。
ヨハネは、集まった弟子たちとイエスが会った場面で、「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」(ヨハネ20:30)と謎めいた書き方でぼかしているだけです。あるいはさらに付加された中で、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている」(ヨハネ21:24)とする筆者が登場しましたが、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。私は思う。もしそれらを一つ一つ書き記すならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(ヨハネ21:25)とまとめてしまい、やはりその後のイエスを説明しようとはしませんでした。
しかしこれでは、世の人々の疑問は解決しません。あるいはまた、教会に加わった信徒の中からも、その点について疑問が問われた可能性もあります。外部からのみならず、内部からも登場したその疑問に応えることを、すべきかどうか。ルカだと言われるその著者は、これに対する教会の一定の見解を記したのかもしれません。
それが「昇天」です。「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(ルカ24:51)と結ぶのです。恐らくその同じルカという著者の手によることが間違いないとされる「使徒言行録」のオープニングにおいても、この場面が再録されています。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなった」(使徒1:9)というのです。
これでひとつの筋道が立ちました。昇天したから、イエスはもう見えなくなったのです。使徒言行録にあるように、まさに「見えなくなった」のです。そしてこの書は、次の章で、神が聖霊という形で降り、信徒の人生を大きく変えるはたらきをするのだ、というふうにまとめます。そこから、弟子たちが、それまでの人生を一変させて、新たな生き方を始める様子を描くのです。
◆預言者の幻
新約聖書の文書では、そのようにルカだけが、イエスの「昇天」という出来事で説明しようとしています。
ところでキリストは、イエスが突然現れてそう信じられていた、ということではありません。旧約聖書が、いつかイスラエルを救う方を神が遣わすということを告げていた、そのことを信じていた人々へ、このナザレのイエスがその救い主である、というように明らかにされたわけです。
将来その方が来る。これをイエスの姿に見出したのが、キリスト教です。ユダヤ教の立場からすれば、その救い主は、まだ到来していません。キリスト教は、旧約聖書の中で救い主について述べられていたことが、イエスにおいて実現した、と信じる宗教なのです。従って、旧約聖書の中の記述が、イエスを表しているということが、信じられています。新約聖書は、そのように旧約聖書を引用していることが実に多いのです。特に福音書は、イエスその方を描くので、詩編や預言者の書をはじめ、実にたくさんの証言をキリストのこだと解釈して引用しています。
それらをここで拾い上げ始めるると、きりがないでしょう。ただ、いま私たちの関心は、「イエスはいまどこにいるのか」ですから、それについて預言者が見た幻があるとすれば、少しだけでも例示したほうがよいでしょうか。たとえば預言者ダニエルが見た幻はどうでしょうか。今日お開きした7章の言葉を見てみます。旧約聖書の黙示録だとでも呼ばれるような場面を、この書はたくさん描いていますが、ここもそういう感じがします。
13:私は夜の幻を見ていた。/見よ、人の子のような者が/天の雲に乗って来て/日の老いたる者のところに着き/その前に導かれた。
14:この方に支配権、栄誉、王権が与えられ/諸民族、諸国民、諸言語の者たちすべては/この方に仕える。/その支配は永遠の支配で、過ぎ去ることがなく/その統治は滅びることがない。
幻想的な言葉の意味を、一意的に説く勇気は、私にはありません。ただ、ここでいう「人の子のようなもの」は、イエス自身が引用していますから、これが世の終わりに現れるキリストの姿を意味しているであろうことは、新約聖書の常識的な理解となると思われます。その故にこそ、この言葉を聞いて、ユダヤ人たちは、イエスを冒涜の罪そのものだと興奮し、死刑宣告へと裁判官ピラトに圧力をかけたのでした。
すると、その人の子が導かれてきた先の「日の老いたる者」という言葉が、目に留まります。この「日の老いたる者」は、この章で先に、王座に座した方であるとして登場しています。羊の毛のような白髪を有している、とまで言われています。だから「老いたる者」なのでしょうか。また、この後間もなく、「日の老いたる者」が裁きを行うという描写もあります。傲慢な者から聖者を護るような描写でした。恐らくダニエルは、人類や宇宙の歴史を超える存在として、神を見上げていたのではないかと私は推測してみることにします。
キリストは、世の裁きの大切な時のために、神の前に来るようです。そして支配権や王権を受け、永遠にすべての人を支配すること、いわば神の国を司ることが、幻の中に見えているように思われます。
◆待つ者
もう一つ、本日お開きしたのは、新約聖書から、ヘブライ人への手紙10章です。
11:すべての祭司は、毎日立って礼拝の務めをなし、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。
12:しかし、キリストは、罪のためにただ一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、
13:その後は、敵どもがご自分の足台となるときまで、待っておられます。
14:実に、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者としてくださったのです。
ヘブライ書は新約聖書の中でもユニークな書のひとつで、ユダヤ人相手に書かれた手紙だと見なされています。あるいは、これは説教と呼んでよいものではないか、とも言われます。律法の細かな規定を知らなければ、せっかくのその説得も効力が半減するような気がします。鈍い私には、もうひとつピンとこないところが多々あります。
ただ、そこに、その後のキリストの様子に触れているところがあるような気がしてなりません。キリストは、繰り返し献げる動物のいけにえとは訳が違いました。ただ一つのいけにえを、あの十字架の上に献げたことで、「永遠に神の右の座に着」いたのだ、というのです。また、「その後は、敵どもがご自分の足台となるときまで、待っておられます」とも続けていますから、キリストはいま、その時を「待って」いる、というように捉えてよいのではないかと思います。
あるいは、もっと自分に引きつけて「待つ」姿をイメージすることも、時には許されるでしょう。私が本当に回心するまで、神は裁きを待っているのだ。私が執り成しの祈りをするあの人が救われるまで、神は待っているのだ。そんなちょっぴり勝手なことも、願うことを神は単純にはお咎めにはならないことでしょう。
◆完全な者
14:実に、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者としてくださったのです。
「完全な者」としてもらえるまでには、いま少し時間が必要だ、と私たちは考えることがあります。それは、いまの自分を見る限り、とてもじゃないが「完全」などではないからです。いつか、栄光の主の輝きの姿に変えられることを願いつつも、地上でいま生活している自分は、なんとザマあなきことか。そんな嘆きを抱える人は、たぶん私だけではないはず。
それなのに、あのマタイによる福音書のイエスの言葉が、恰も呪いのように私たちを襲います。「だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい」(5:48)の声が、響くのです。
それどころか、パウロまでが畳みかけてきます。コリント書の第二です。これは新共同訳から引用します。
わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。(13:9)
終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。(13:11)
新共同訳から引いたのは、実は新しい聖書協会共同訳では、このコリント書の箇所が「完全」という訳語ではなくなっているからです。そこでは、「私たちが祈っているのは、あなたがたが初心に帰ることです」となり、さらに「喜びなさい。初心に帰りなさい」と訳されています。「完全な者となる」が「初心に帰る」となっているのです。他の訳は大抵「完全」の路線を外してはいません。ただ、田川健三訳だけが、どれとも異なる「回復」という訳語を用いました。そこにはたとえば「網を修繕する」というような使い方も含まれているといいます。確かにパウロは、問題が山積みのコリント教会に対して、いきなり「パーフェクト」を求めるようには思えません。いまの破れを修復し、なんとか本来の教会の姿を回復せよ、と言うのなら、よく分かります。
では、パウロはいいとしても、やはりイエスは、「完全」を求めていたのでしょうか。マタイにあるイエスの言葉は、私たちに重くのしかかってきます。それでも、今日のヘブライ書の箇所をもう一度振り返ると、また違う景色が見えてくるようにも思われます。
14:実に、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者としてくださったのです。
この「完全」は、パウロの方ではなく、イエスの告げた「完全」に匹敵する語です。ただ、私たち人間が、自分の力で自分を完全にする、というようには、決して書かれていません。キリストがしてくださった、としています。キリストが将来的な主の日、救いの日を待っているその中で、すでに私たちは完全な者にしてくださった、というように読めます。
これこそ、外から与えられた素晴らしい救いであり、恵みである、とは言えないでしょうか。
◆「いま」とは何か
私たちは、キリストが「いまどこにいるのか」を巡って、ここまで来ました。キリストが復活したことを前提に、復活のキリストの姿が私たちには見えないが故に、それは天に昇った、と伝えられていることを確認しました。ただ、旧約聖書の預言者においても、そうした救い主の姿が垣間見られていたことや、新約聖書の後の文書の中でも、キリストが救いの日の実現を待っているという記述があることに目を留めました。そのとき、私たちは完全にされるという点に、少しばかり寄り道をしていました。
キリストは「いまどこにいるのか」、そう私たちは問いました。ここで、掛けたハシゴを外すような真似をしてみます。そもそも「いま」というものが、神の側に存在するのかどうか、ということです。
そういう問いに、慣れておられない方もいるだろうと思います。「いま」とは何か、を問うともちろん大変な本ができてしまうでしょうが、単純に考えて、「いま」が言葉で区別できるということは、「いま」でない時、たとえば「過去」や「未来」がそれとは区別されていることを意味します。人は時間の中に生きており、変化することが必定ですから、それらの区別が成り立ちます。では、神もまたそうした時間の中に置かれているのでしょうか。神は時間により制約を受けているのでしょうか。
同じヘブライ書に、有名な言葉があります。
イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です。(13:8)
人は、神の中に永遠というものを考えます。人間にはありえない永遠も、神にはあることでしょう。だから永遠の命を求めるということは、神の命を受けたいということにもなるでしょう。永遠ということは、時間の内に制限されない、ということでもあります。神は時間に支配される方ではないとするなら、確かに永遠であるに違いありません。
たとえば「四次元」という言葉がかなり以前から人に知られるようになりました。一次元の「線」、縦横に世界が拡がる「平面」の二次元、それに高さが加わった立体的な空間の「三次元」、という理解が普通なされています。私たちが住む世界は三次元だとされます。縦横高さについては、私たちは自由に移動することが可能です。二次元に住む生き物がいたとすると、高さを知りませんから、高さを自由に移動できる者が突如現れると、奇蹟が起こったもののように見え、二次元の原理では説明できないことになります。そこで三次元に住む私たちが、四つめの要素として「時間」については、自らの自由が利かないというわけです。時間旅行ができないのです。人間は、時間の中では自らの意志でそれをコントロールができないわけです。
しかし、神はこうなると、その時間をも自由に扱えるお方なのだろう、というように考えざるを得なくなります。ヨシュア記10章で日が延びたとか、列王記下20章やイザヤ書38章で日時計が逆に戻ったとかいうのは、どちらも神の業です。そんなことがあるものか、という目で見るより、神は時間をも左右できることのひとつの証拠であるように見てはならないでしょうか。
言いたいことは、神ないしキリストについて、「いまどこにいるのか」という問いそのものが、そもそも破綻しているのではないか、ということです。私たちが「いま」と呼ぶこの時の中に神が制約されて、そのような「いま」神がどのように縛られているのか、ということを問うこと自体が、成立しない事柄であったのではないか、と思うのです。
◆「いま」の新たな理解
「いま」という規定は、人間が置かれた立場や情況を言います。それでも私たちは「いま」を案外自由に操ろうとするものです。「いま」という抽象的な瞬間は、「い」と言った瞬間と「ま」と口にした瞬間とで、すでにズレがあります。「いま帰ってきた」という「いま」はある意味で「過去」です。「いま行くよ」の「いま」は未来でしょう。「いまこれに凝っているんだ」というときの「いま」は「最近ずっと」のことでしょう。日常言語でさえこれほどに、都合よく意味を取っかえ引っかえしてごまかすようにしているのに、神について「いまどこにいるのか」と問うのは、さらに自分勝手であるような気がしませんか。
それよりも、神から人に向けて、「いま」と問うほうが、私たちにとっては必要な問われ方だと思います。
神である主は人に声をかけて言われた。「どこにいるのか。」(創世記3:9)
以前の訳では「あなたはどこにいるのか」と訳されていました。私は聖書により救われるとき、この言葉に打ちのめされました。そして神の前に引きずり出されました。自分の立っているところも知らず、いい気になって自分が神であるかのように見なしていたことを思い知らされたのです。
創世記では次の章で、弟アベルを殺したカインに向けて、神がアベルのことを問います。
主はカインに言われた。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」彼は言った。「知りません。私は弟の番人でしょうか。」(創世記4:9)
もうひとつ、私の好きな場面をご紹介します。敢えてシチュエーションについてはご紹介致しません。列王記上19章、エリヤに神が向き合う場面です。
地震の後に火があった。しかし、その火の中に主はおられなかった。火の後に、かすかにささやく声があった。それを聞くとエリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。すると声があった。「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか。」(列王記上19:12-13)
これらには、決して「いま」という語が付せられているわけではありません。しかし、私には聞こえない声として、「いまどこにいるのか」あるいは「いま何をしているのか」という「いま」が聞こえてくるように思えてならないのです。それが私の信仰です。
「いま」という時間の制約の中で生きるしかない私が、「いま」どこにいるのか、と問われています。「いま」何をしているのか、と問われています。そういう自覚の中に常にいます。それが私の信仰です。神はそのように、聖書の中から、私に問いかけてきている、と常々感じているのです。
その「いま」にしか立てない私。しかしキリストの十字架の救いによって、「永遠に完全な者としてくださった」ことを改めて全身で受けました。私はこれを、神と出会った者だけが実感できる救いである、と考えています。「いまどこにいるのか」という問いは、私が神に向けて問うものではなくて、神が私に向けて問うものだったのだ、としか思えないのです。神と向き合う経験をしたとき、その問いが投げかけられてきます。突きつけられてきます。それでよいのです。あなたがもし、「いまどこにいるのか」と神から声を聞いたなら、あなたは間違いなく、約束の救いの中に導き置かれ、キリストに抱き留められているのだ、と私は信じます。あなたは「いま」、救いの中にいるのだ、と。