不愉快なことは聞きたくもない

2023年8月21日

自分にチクりと刺さるような指摘があっても、それを好んで受けようという気持ちは、なかなか起こらないものだ。
 
それでも、友情というものは、敢えて友に苦言を告げるという場合があるだろう。そのようなことを教えてくれるのは、表面的な関係の間柄では、なかなかないものだ。友だからこそ、踏み込んだことに言い及ぶ。だから、その言葉をありがたく思う、いうことがあるだろうと思う。それは、その友との間に信頼関係があるからだ。見も知らぬ他人に、いきなり「あんたは云々」と言われたら、それは確かに面白くもないし、反発も覚えるのが普通だろう。
 
SNSは、他人を気楽に批判しやすい。批判ならまだよいが、ちょっとした噂や報道を頼りにして、あるいは自分の思い込みを根拠として、一方的に誰かを非難するということも、しばしば起こる。それはどうであれ、広い意味での誹謗中傷にあたると考えるべきだろう。
 
受ける側としては、読んで不愉快になるものを、わざわざ読もうとしない、ということがあるだろう。確かに、面白いものではない。自分のことを、あるいは自分が属するサイドのことを悪く言われて、楽しい気分にはなれないものである。では、その指摘が確かに尤もなこと、正しいことだったらどうだろう。言われて尤もなことであれば、それを引き受けて改めるということをすれば、自分の側でも改善や成長があるはずである。それを、自分のことを少しでも悪く言われたら、ブロックするということを繰り返していると、いわばわがままになっていく危険を伴うことに、なりはしないだろうか。
 
自分が常に一番だと親にもてはやされて育った娘が、残酷なほどに傲慢になっている典型的な姿を、ある物語(アニメ)が描いている。反対に、罵声ばかり受けて生きて行くのが辛いその姉は、ずっと自己肯定ができずにいたのだが、その姉を受け容れる男性に包まれて、心が支えられていく、という物語である。
 
それはそうと、不愉快なものを見たくない、という気持ちは、もちろん分からないわけではない。場面をキリスト教会に絞るが、教会のことを悪く言われたときにどうするか、それは、実はかなり大事なことではないか、と私は考えている。
 
教会への批判。もちろんこの「批判」は、誹謗中傷のことではない。「検討」というような意味であり、尤もな意見であるとしよう。これに対してどのような反応をするべきだろうか。
 
確かにそうだ、とそれを問題点として挙げ、改善を考えていく。これは殊勝な態度である。だが、たとえばこういうことがある。「世間は教会の良さが分からないのだ。教会は違う。神はそれをよしとしているのだ」と、一切の批判を軽視するのである。これはいただけない。一言で言うと、高慢というものだ。
 
では、その指摘に耳を塞ぐというのはどうだろう。「そんなことは聞きたくない。シャットアウトする」という態度である。それは独善的で、危険だろうか。確かに危険である。カルト宗教は、高慢な部分もあるが、このシャットアウトにより、暴走していく可能性が高い。否、現に暴走したし、暴走している。
 
ただ、ここでは別の点を考えたい。自分たちのよくないところを指摘する声を無視する、あるいは全く気にしない、その姿勢そのもののことである。不愉快なものは聞きたくない。このスタンスが、信仰そのものにおいて、非常にまずいものではないだろうか、ということである。
 
まずそれは、教会が「罪」という問題意識をもっていない、ということを意味する。一部の教会では、もはや「罪」という言葉が説教や祈りに全く出てこない。意識の中から飛んでいるのである。いっそ、教義の中からも「罪」というものがなくなってしまえばいい、というくらいに考えているようにさえ見える。それは、その教会にいる人の中に「罪意識」が欠落している可能性を示唆する。
 
都合のわるいことを聞きたくない、という教会の姿勢がよくないもう一つの視点は、それは伝道が不可能であることを意味している点である。教会に人が来るはずがないのである。あなたには罪がある、というメッセージがあるからこそ、人は教会に救いを求める。しかし、人が自分の魂に神からの突きつけがあるということを認めないような姿勢は、人が救われるという過程をすべて否定することになるのではないか。
 
基より、最初の点、つまり一部の教会が「罪」を語らないということから、これは導かれる結果でもある。だから、二つの点は、同じひとつのことである、とも言える。ただ、前者はいま教会とそこにいる信徒の問題であり、後者は新たに教会に人がくる道を消すという問題であるというように、見る角度が異なっているというわけである。
 
さて、このように私が時折、苦々しいことを記す。教会にいる方々にこそ、届くように、と願っている場合が多い。しかし、すでにブロックするかのように、その声をシャットアウトしている人もいるようであるし、文章が長いためか、または読むということで得られるものを見逃しているか、あるいは不愉快だから読む気もないとか、画面に出ないようにしているとか、そうしたケースが少なくないはずである。だから、この記事そのものが目に入ることがない、ということになっている現実がある。
 
エゼキエルを通して及ぶ言葉を、リアルに感じるときがある。預言者気取りと呼ばれようと、角笛は鳴らさなければならない、というのが私の使命のひとつであると信じている。



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