アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神
2023年8月15日
ルカ20章後半の箇所。子がないままに、兄弟と次々と結婚した女は、復活のとき誰の妻となるのか、とサドカイ派の人たちがイエスに質問をする場面である。レビラト婚の習慣を盾に取ったのだろうか。日本にもなかったとは言えないであろう家制度に関わるものであると言えよう。
事の発端は、サドカイ派だった。サドカイ派は神殿儀式を重んじ、モーセ五書を信仰の中核とする。そのため、そこに記されていない復活ということを否定していたという。先ほどのように、復活というものがもしあるとするなら、矛盾が生じるがどうなのか、とイエスに迫ったのだ。背理法と呼んでもよいであろう。だが、イエスはその背理法の前提を潰した。そもそも「めとる」とか「嫁ぐ」とかいう概念が復活の次元では成立していないのだ、という。
使者の中から復活するに相応しいと神が認めた人々は、「もはや死ぬことはない」のであるし「天使に等しい者」なのである。そして「復活の子」であり「神の子」であるのだともいう。
だが、イエスはすでに復活というものを前提しているものの言い方をしているわけで、これに対してサドカイ派も、黙っていまい、と思われる。
イエスは構わず続けている。その前提たる死者の復活ということについては、出エジプト記のモーセの「柴」の箇所で明らかにしているではないか、と。「主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで」いることがその証拠である。だから、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」としてよいのである。「すべての人は、神によって生きる」が故に。
なんだか釈然としない。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と主のことを呼べば、それで復活は証明されたことになるのだろうか。説教者も、イエスの言葉に忠実であろうした形で説いていく。それは悪いことではないが、スッキリする解決ではなかったであろう。但し、それが「アブラハムの信じた神」というような意味合いで解するべきではないことを明らかにしたのは、優れた点だったと言ってよいと思う。
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という語は、聖書を読むキリスト者の間ではよく耳にするフレーズであるが、必ずしも意味が明白ではないように思う。そもそもこの「の」が曲者なのだ。英語だと「of」が加えられるのであろうが、ギリシア語だと属格である。確かに日本語の「の」に匹敵すると考えられるが、この属格には、意味の理解の仕方には様々ある。逆に言えば、曖昧なのである。
「私の本」だと、私が「所有している」本ということであろう。だが「木材の運搬」だと、木材「を」運搬することだ。「友人の応援」だと、友人「が」応援することとなるだろう。日本の古文だとこの主格の「の」がむしろ標準となり、「雨の降る」のような口調が絶え間なく登場する。その他、古文だと「同格」も欠かせないが、このくらいで止めておこう。
日本語ですらいろいろあるのだから、ギリシア語だと、日本語では考えの及ばぬ感覚があるのだろうと思う。日本語の「の」と同じであるわけではないからだ。たとえば、属格支配の前置詞などとなると、日本語に喩えて理解できる範疇を超えている。もちろん私のような者にそれが分かるはずがない。
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」がそれぞれの属格で並ぶとき、それを受け取る感覚は、人によって異なったかもしれない。私は、時間に制約されない神を前提とした捉え方を、個人的には気に入っている。
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は、人間の眼差しから見れば、アブラハムの時代、イサクの時代、ヤコブの時代で区別できるだろうが、神はそのような時間に区切られた形でしかいなかった方ではない。歴史の中に置かれた、一時的な神ではなかったのであり、神と人との関係というものも、ひとときだけの徒花ではなかったはずである。アブラハムもイサクもヤコブも、地上での人生を全うして死んだ。が、彼らと神との関係がその都度終わったものではないだろうと思う。神と人との関係は、ずっと生きている。続いている。私たちもまた、その関係の中に生かされている。
聖書の凡ゆる出来事が、今も生き働いている、という途方もない言い方も、時間の中に限られない神カラすれば、当然のことである。神の言葉は今もなお、出来事となる。説教という語りの中で、主日毎にそれが起こっている。これはもう、小さな枠の中でしかものを見ることができない私たち人間にとっては、奇蹟そのものではないだろうか。
その時イエスの言葉を聞いていた人々は、生きていた。いまこの記事を説教で聞いている私たちも、また生きている。戯れ言ではない。すべて神の言葉を聞く者は生きている、あるいは生きていた。神はそれぞれの時ですべて生きているのが当然だから、その神との関係の中に生かされている者は、神との契約の中に置かれている。その人は、私から見れば過去に属していようとも、死に去った人ではない。
復活という形で、イエス・キリストも生きていることを示した。神は時間に支配されることなく生きておられるのであれば、神は永遠であり、イエス・キリストは確かに復活の中にいる。このようなダイナミックな命に生きるイエスの宣言を前にして、儀式だけのサドカイ派は沈黙せざるを得なかったであろう。この対話では、サドカイ派の反論が見られない。
その代わりに、ここでは「律法学者」がイエスに声をかけている。「先生、おっしゃるとおりです」などという。これは、復活はない、とするサドカイ派と対抗意識をもつのが律法学者やファリサイ派の人々だとすると、サドカイ派に対する反論を提示したイエスを支持したのだ、というふうに見ることもできる。復活を支持する思想が結びつくことがあるので、イエスもどうかするとファリサイ派や律法学者の人と共に食事をすることがあるし、その信仰を否定しないことも何度かあった。また、イエスを十字架刑に決定づけたのは、祭司などのサドカイ派が中心であったと見ることも可能であろう。
この律法学者の支持があって、「もはや、あえて質問することはなかった」というその「彼ら」とは、サドカイ派の者たちを指していると見てよいだろう。これにより、イエスは畳みかけるように、次のステップに入る。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と「彼ら」に言うのである。ヘブライ語でいう「メシア」とは即ちギリシア語での「キリスト」のことであるが、ダビデが主と崇めるその同じメシアを、人は「ダビデの子」と呼ぶことは矛盾ではないのか、という問いを突きつけるのである。これも、神の側では時間的制約を受けないことの、ひとつの傍証となるのではないだろうか。
その「彼ら」とは誰なのだろう。これに誰も答えられなくなっている中で、イエスは「律法学者に注意しなさい」と弟子たちに教訓を垂れている。すると、「彼ら」はこの律法学者であると見る方が自然であろう。ルカはその場面で、誰が誰に向かって言っているのか、何を頭に置いているのか、それをルカなりに精一杯考えて、なにげない表現を使っているように見える。
律法学者は、自分が褒められることが好きなのだそうだ。ここでも、イエスを立てておくほうがよいと判断したのだろうか。イエスの聖書解釈を立派だと褒める言葉を発しておきながら、その内心を見抜かれている。そこには、より厳しい裁きが与えられることが待ち受けている。
サドカイ派の質問という同じ内容の記事において、ルカの他の二つの福音書では、共通のフレーズが入っている。逆に言えば、ルカだけがこれを省いている。サドカイ派の人々に向かって、「あなたがたは、聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」(マルコ12:24,マタイ22:29)と言っている箇所である。そして、直後に、律法学者を褒めもするが、ファリサイ派の人々を特に悪く言うようなこともしない。
ルカだけが、律法学者をこの場面でこき下ろしているのである。
なんだか、夢のない話に傾いていってしまった。説教者は、ちっともこんなことを語ってはいない。神は生きている、復活の命がある、神に対して生きる者と変えられた生き方をする者は、確かに救われたのである、そのようなステキなメッセージを送り続けていた。しかも、一人ひとりの名を呼んで、新しい命を与えるのだ、という福音を高らかに伝えている。それは、昔の人々に現れたが、その後死んでしまったというような神からもたらされたのではない。神は生きている。そして私たちに、死ぬことのない命を与える神がここにいる。神は生きているから、今も私たちに声をかける。私たちは生きている。神は生きている者の神であり、神にとってはすべての者が生きているのだ、と明るくメッセージを閉じるのであった。
神は、アブラハムへのイサクへも、ヤコブへも、そしてモーセに対しても、この声をかけていた。やっぱり、人間という、地べたを這い回って限られた時間の中で役目を全うする程度の者を条件付ける「時間」というものの中に、神は制限されることが一切ない、という原理が、こうしたメッセージの背後にあるように思われてならないのである。