寝るより楽はなかりけり

2023年8月11日

「寝るより楽はなかりけり」
 
母が夜よくそう言って、布団を被るのを見ていた。一日中家事やらなにやらで疲れた結果、布団に潜ると、もう何もしなくていい。その安堵感を物語っていたのだろうか。一時は内職もしていたから、疲れはなおさらであったことだろう。
 
生活は必ずしも楽ではなかったと思う。入浴も1日おきだったから、「今日はふろの日」などと無邪気に言っていた小さな私だったが、それから思うと、毎日体を洗っているいまは、とてつもなく贅沢なようにすら思える。母は勤めに出ていたようではなかったが、内職はあったかと思う。果たして私がいないところでどのようにしていたのか、子どもの私には知る由もなかった。
 
「寝るより楽はなかりけり」
 
なるほど、寝るのは楽ちんなのだ。子どもの耳に、そのようにインプットされていった。しかし私は、寝入りの悪いタイプだった。それに、怖がりだった。独り置かれた暗い部屋で、天上の木目の模様がお化けに見え始めたら、もう気になってダメだった。額の中の絵が幽霊に思えて、そちらだけは絶対に見ない、などと心に決めていたが、意識するともうダメだった。とにかく、怖かった。
 
寝てしまって、もしも目覚めることがなかったら? そんな恐怖すら、幼い中に感じていたのもあった。それはいまも意識することがある。信仰の中にあって、かつてと少し感覚は違うとは思うのだけれども。
 
「寝るより楽はなかりけり」
 
ところがふと調べてみると、この言葉はなかなか奥深いようだった。というのは、母が安堵を見出したようなイメージとは、少々違う元ネタがあるように見えたからだ。これは「狂歌」の一部であって、「世の中に 寝るほど楽は なかりけり 浮世の馬鹿は 起きて働く」(太田蜀山人)が出典らしいが、実のところはよく分からないという人もいるようだ。
 
世間の奴らは馬鹿だ。せっせと働いていらぁ。寝るのが最高だ――そんなふうにも聞こえる。しかし聞きようによっては、過労になるよりは、ほどほどに働いていたほうがいい、というような、現代風な響きすら感じることができるかもしれない。せいぜい生きていけるくらいの稼ぎがあれば、命を縮めるほどにまで働かなくてよいではないか、という教訓のように聞く人がいても、おかしくはない。過労の方々の苦しみを思う。
 
いやいや、いま命を縮めるほどに働かなければ、その生きていけるレベルの収入が得られないのだ、という嘆きが、あちこちから届くような気もする。貧しい人、虐げられた人たちは、昔からそのような立場にいたのだ。
 
私は恵まれている。金は望まず、時間を得るほうを選ぶことができた。それは基本的には、主日礼拝のためだった。礼拝を「守る」ために、過重な労働を拒み、収入を減ずることを受け容れた。その意味では、私は見えない額のかなりの金銭を、神に献げているつもりである。
 
それだから、礼拝や説教を軽んじる教会は、御免被る。上手に聞いて戴きたいのだが、何の命も語れない者が喋る「説教もどき」なんぞを聞くために、献げものを続けるような暇はないのだ。もしかすると、世の牧師の中には、命を削って説教に期待している信徒がいるなどとは、夢にも思っていない人がいるかもしれない。ああ今週もやっとなんとか日曜日に原稿が間に合った、と安堵の報告をしているような人もいるくらいだ。
 
命懸けで毎週(ルターやスポルジョンが週に何本語っていたか、というのはもはや夢物語であるかもしれない)説教を語っている方がどのくらいいるのか、私は少しばかり興味がある。牧師給与の厳しさは耳にしているが、これを語らねば自分の家族が飢える、というくらいの真剣さがあるのか(もちろんこれはレトリックである)、尋ねてみたい。体のいいサラリーパーソン(和製英語)になっていないか、問い直してみる必要のある人が少なくないのではないだろうか。失礼な言い方だが。
 
教会員の中にも、たかが礼拝説教にこだわる馬鹿なヤツだというように目に映る人がいるかもしれない。どう思おうとその人の勝手だが、そうした人と信仰の心が通うようには思えない。説教の言葉が神からの命の言葉である、という信仰が私にはある。それが礼拝であると信じている。そしてそのためにもこのように献げている現実があるからこそ、切実なのである。



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